■こならの森209号■2005.9発行
表紙 「龍岡城 」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森10月号■
としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「もう一つの五稜郭」…………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
■■■■■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
日本の中心にある
もう一つの「五稜郭」に隠された謎
■日本に2つの五稜郭
こならの森199号の特集「日本のへそ」の取材中にネット上で、であった臼田という地名、なにやら日本で一番海から遠い地点があるらしい。ということは翻って、日本の中心で「へそ」でもあるという。この辺は、こならの森本編を参照していただきたいが、その事実を調べる過程で、臼田町のホームページを参照すると、そこにもう一つの五稜郭(龍岡城)というものが目に入って一瞬驚いた。
五稜郭といえば函館にしかないものだと思ってきたのに、ある種の感動に浸ったものであった。それだけならいいのだが、さらに調べていくとこの城を築城した人物は、佐野市とも少なからず関係があるということだった。
というところで、今回の企画は、あながち単なる紀行文に終わることなく、佐野氏あるいは佐野と関連性が大いにあると思っていただけるとありがたい。
■佐野市との関連
新佐野市には、日本のへそがあると先に書いたが、今回の企画も実はそれと少し関係がある。もちろん確証はないが、本州の五稜郭・龍岡城を築城した松平乗謨(大給亘)は、江戸時代にすでに日本のへそ(中心地)を知っていたのではないか、ということだ。
また松平乗謨(大給亘)は、佐野常民とともに日本赤十字をつくっている。常民は佐野源左衛門常世の末裔で、常民の三男常羽は佐野市に唐沢子供会をつくっている。
■築城した人物
■築城したのは大給松平氏最後の藩主、松平乗謨(のりかた)。後に松平の姓を三河の先祖地名にちなんで大給と改め、乗謨も恒と改名している。
信濃国と三河国に領地を持っていた三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨は、幕末の動乱期の1863年に拠点を田野口(一万二千石)に移すことを決める。慶応元年(1865)には陸軍奉行となる。明治2年6月には龍岡藩(明治4年に廃藩)知事となる。
■松平乗謨と博愛社・日本赤十字
元老院議官だった大給恒はすでに幕府の頃シーボルトなどから軍人救護会社のことを聞いており、これを実施したいと考えていた。
佐野常民は「パリ大博覧会」と「ウィーン大博覧会」の2回にわたってヨーロッパに行っており赤十字活動についての知識をもって帰国。ヨーロッパの赤十字組織と同じものを作ろうと、大給恒と佐野常民の意見は一致し、早速計画の実行に移った。
博愛社は1887年に日本赤十字社と名称を変更し、常民は初代日本赤十字社社長となった。
■築城の謎
なぜ、本州に五稜郭を造ったのか。
函館五稜郭の全ての工事が完了したのは1866年だが、稜郭での業務開始は1864年で、龍岡城五稜郭の着工と同じ年。完成時期も1年しか違わない1867年であることから、ほぼ同時期に計画が進められた星形稜郭といえる。
藩主の松平乗謨は、「海外諸国より著しい軍備の立ち遅れに、国家存亡の危機を憂い」洋学、特に火砲・築城技術を熱心に学び、家臣にも積極的に奨励したという。
1864年には五稜郭築城を開始するが完成前に明治維新を迎える。1867年竣工。洋学つまり蘭学を美濃郡上藩士山脇東太郎に師事して学んでいることから、オランダ・アムステルダムの要塞都市「ナールデン(六稜郭)」も知っていたと思われる。
■堀を飛び越えられるのか?
走り幅跳びの世界記録は8メートル95、堀の最大幅は9メートル弱で、平均は7メートル。走り幅跳びの詳しいルールは分からないが、足から足(かかと)までの距離であるととすると、単純に考えて堀を超えていることにならないか? 着地時に水平になり、のけぞるようにして塀にしがみつくことは可能だろう、実戦上はクリアーできる距離である。
堀は簡単に飛び越えられてしまうし、第一五稜郭のうちの二稜郭には堀が回っていない。砲台も一カ所だけ。単なる最新城郭の実験場か、訓練場であったといわれる。
■龍岡城
本州の五稜郭の事を知ったのは1年も前のことだったが、なかなか行く機会に恵まれなかった。今回は、なんとか都合をつけて日帰り、殆ど半日の予定でむかってみた。函館の五稜郭の半分の大きさということで、さほど大きくはないと思っていたが実際にあるって一周しても1時間とかからない。散歩にはもってこいの距離だろう。稜郭というよりも公園といった感じである。現在は小学校になっており校庭ではソフトボール大会がおこなわれていた。お台所が唯一現存する建物として今に残る。大手門付近は、堀の幅もあり立派な造りだが先へ進むうちに、水堀も消え、石垣も低くなって段差が無くなる。「作りかけ」ということが良く分かる状態だ。もちろんそこまで、正規の散策路が回っているわけではない。道無き道といったところを行く。小学校の校舎が見え始めるあたりから、また堀が現れる。堀には大きな鯉がゆっくり泳いでいた。
地形的には、大手門から先は下り坂になっており、堀を延長して回すためには盛り土をしなければいけなくなり、技術的に難しく大工事になりそうだ。はじめから堀は3方向だけの予定だったのかも知れない。そのために堀がない面に高い石垣を築き砲台を置いたのかも知れない。
大手門近くに、であいの館(記念館?)という建物があるくらいであたりはひっそりとしている。平日は授業がおこなわれている、普通の小学校だ。
■謎に迫る
松平乗謨は、なぜ三河から急きょ佐久へ御領変えをおこなったのか、なんだか日本のへそをつくりたかったのではないだろうか。幕末には若年寄にまで昇進しているのだから伊能忠敬がつくった日本地図は目にしている?はずなので、その全図から推測して日本のへそを探し当てていたのではないだろうか、そのためにその地へ移ったとも考えられないか。
これは推測だが、実際に、日本のへそ、海から一番遠い地点と目されるところから龍岡城まで(こならの森が2万5千分の一地図から推定した距離)は約6・8キロ。それも龍岡城の位置からほぼ東にである。日本海と太平洋を結ぶ距離でいえばその中間であり誤差は殆どないといっていいくらいだろう。
実際に国土地理院が計算した地点は標高1200メートル、山城としても、あまりに標高が高すぎて幕府の認可も下りないと踏んだのか。
星形城郭、オランダの本家本元は六稜郭だが、函館とここは五稜郭で、一般に言われる「★」マークと同じもの。ランドマークとしても最高の形をしている。日本のへそに最もふさわしい形だといっていい。
これは蛇足だが、大給恒は最後に文化勲章を除いた全ての勲章の制作にあたっている。ここでも、また新しい「星」をつくりたかったのではないだろうか。
■本家五稜郭
歴史で一番スリリングなのは、天下分け目の戦いが多くあった戦国時代と並んで明治維新だと思う人は多いだろう。そして明治政府との最後の戦いが五稜郭を中心とした函館戦争と呼ばれるもので締めくくられている。
確かに、臼田の五稜郭は堀が未完成ではあるが、本家本元の五稜郭も基幹となる構造は成立しているが、本来目指していた要塞としての多重防護機能は備わっていない。稜堡と呼ばれる城郭本体から張り出した部分が一つしかないからだ。その意味では、未完とも言える。それよりも、そこまで完璧にする必要性が途中で無くなってしまったのだから、仕方がないのかも知れない。
榎本武揚はオランダ留学の経験があり、函館五稜郭はここをモデルにしているともいわれる。
■五稜郭
本家本元の五稜郭を調べていくと、「四稜郭」という文字が目に入った。誤字だろうと思ったが実際に、四稜郭は存在していた。そして名称こそ「四稜郭」としていないが、戸切地(へきりち)陣屋というものが先に存在している。四稜郭よりも立派な作りで、五稜郭の一辺を取り去り一つだけを突出した亀のような形。
四稜郭(設計:陸軍奉行大鳥啓介)は五稜郭の北方の守りとして1869年に榎本武揚が急きょ築造したものだそうだが、半日で落城したということだ。
その他に少なくとも北海道には、弁天台場と権現台場という稜郭があったらしい。また、兵庫県には、勝海舟の設計によるといわれる星形の砲台もある。
■日本のへそ
帰り道に、海から一番遠い地点という場所がある。実際には、そこから徒歩で1時間ほど林道を行ったところにあるそうだ。その地点到達者には、自己申告で証明書が貰えるらしい。
■もう一つの佐野市との関連
西洋式の城を造ろうとしたそもそもの学問は蘭学(オランダ語で書かれた西洋の学問)である。
その蘭学を日本に伝えるきっかけとなった出来事のオランダ船、リーフデ号の船尾に飾られたエラスムス像が佐野市にあった。まさしくこれは、オランダの稜郭要塞都市ナールデン(六稜郭)から始まる、今回の企画「本州の五稜郭」への導入部であったとさえ思えてしまう。(ちなみにリーフデ[De Liefde]とはオランダ語で「愛」という意味)。
エラスムス像はオランダでも最も古いと言われる木彫りの彫刻で、発見当時(1920年)オランダは破格の値段で買い戻そうとしたという。また読売新聞の記事によれば、船尾以外に船主にも像があったという。裸の子供の像とあるが、これは天使の事ではないだろうか。
それにしてもエラスムス像どうして佐野にあったのかは究明されておらず謎は深い。なかなか興味が尽きない話題だ。こならの森でもその点を調査していきたいと思っている。
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表紙 「龍岡城 」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森10月号■
としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「もう一つの五稜郭」…………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
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【本文抜粋記事】
日本の中心にある
もう一つの「五稜郭」に隠された謎
■日本に2つの五稜郭
こならの森199号の特集「日本のへそ」の取材中にネット上で、であった臼田という地名、なにやら日本で一番海から遠い地点があるらしい。ということは翻って、日本の中心で「へそ」でもあるという。この辺は、こならの森本編を参照していただきたいが、その事実を調べる過程で、臼田町のホームページを参照すると、そこにもう一つの五稜郭(龍岡城)というものが目に入って一瞬驚いた。
五稜郭といえば函館にしかないものだと思ってきたのに、ある種の感動に浸ったものであった。それだけならいいのだが、さらに調べていくとこの城を築城した人物は、佐野市とも少なからず関係があるということだった。
というところで、今回の企画は、あながち単なる紀行文に終わることなく、佐野氏あるいは佐野と関連性が大いにあると思っていただけるとありがたい。
■佐野市との関連
新佐野市には、日本のへそがあると先に書いたが、今回の企画も実はそれと少し関係がある。もちろん確証はないが、本州の五稜郭・龍岡城を築城した松平乗謨(大給亘)は、江戸時代にすでに日本のへそ(中心地)を知っていたのではないか、ということだ。
また松平乗謨(大給亘)は、佐野常民とともに日本赤十字をつくっている。常民は佐野源左衛門常世の末裔で、常民の三男常羽は佐野市に唐沢子供会をつくっている。
■築城した人物
■築城したのは大給松平氏最後の藩主、松平乗謨(のりかた)。後に松平の姓を三河の先祖地名にちなんで大給と改め、乗謨も恒と改名している。
信濃国と三河国に領地を持っていた三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨は、幕末の動乱期の1863年に拠点を田野口(一万二千石)に移すことを決める。慶応元年(1865)には陸軍奉行となる。明治2年6月には龍岡藩(明治4年に廃藩)知事となる。
■松平乗謨と博愛社・日本赤十字
元老院議官だった大給恒はすでに幕府の頃シーボルトなどから軍人救護会社のことを聞いており、これを実施したいと考えていた。
佐野常民は「パリ大博覧会」と「ウィーン大博覧会」の2回にわたってヨーロッパに行っており赤十字活動についての知識をもって帰国。ヨーロッパの赤十字組織と同じものを作ろうと、大給恒と佐野常民の意見は一致し、早速計画の実行に移った。
博愛社は1887年に日本赤十字社と名称を変更し、常民は初代日本赤十字社社長となった。
■築城の謎
なぜ、本州に五稜郭を造ったのか。
函館五稜郭の全ての工事が完了したのは1866年だが、稜郭での業務開始は1864年で、龍岡城五稜郭の着工と同じ年。完成時期も1年しか違わない1867年であることから、ほぼ同時期に計画が進められた星形稜郭といえる。
藩主の松平乗謨は、「海外諸国より著しい軍備の立ち遅れに、国家存亡の危機を憂い」洋学、特に火砲・築城技術を熱心に学び、家臣にも積極的に奨励したという。
1864年には五稜郭築城を開始するが完成前に明治維新を迎える。1867年竣工。洋学つまり蘭学を美濃郡上藩士山脇東太郎に師事して学んでいることから、オランダ・アムステルダムの要塞都市「ナールデン(六稜郭)」も知っていたと思われる。
■堀を飛び越えられるのか?
走り幅跳びの世界記録は8メートル95、堀の最大幅は9メートル弱で、平均は7メートル。走り幅跳びの詳しいルールは分からないが、足から足(かかと)までの距離であるととすると、単純に考えて堀を超えていることにならないか? 着地時に水平になり、のけぞるようにして塀にしがみつくことは可能だろう、実戦上はクリアーできる距離である。
堀は簡単に飛び越えられてしまうし、第一五稜郭のうちの二稜郭には堀が回っていない。砲台も一カ所だけ。単なる最新城郭の実験場か、訓練場であったといわれる。
■龍岡城
本州の五稜郭の事を知ったのは1年も前のことだったが、なかなか行く機会に恵まれなかった。今回は、なんとか都合をつけて日帰り、殆ど半日の予定でむかってみた。函館の五稜郭の半分の大きさということで、さほど大きくはないと思っていたが実際にあるって一周しても1時間とかからない。散歩にはもってこいの距離だろう。稜郭というよりも公園といった感じである。現在は小学校になっており校庭ではソフトボール大会がおこなわれていた。お台所が唯一現存する建物として今に残る。大手門付近は、堀の幅もあり立派な造りだが先へ進むうちに、水堀も消え、石垣も低くなって段差が無くなる。「作りかけ」ということが良く分かる状態だ。もちろんそこまで、正規の散策路が回っているわけではない。道無き道といったところを行く。小学校の校舎が見え始めるあたりから、また堀が現れる。堀には大きな鯉がゆっくり泳いでいた。
地形的には、大手門から先は下り坂になっており、堀を延長して回すためには盛り土をしなければいけなくなり、技術的に難しく大工事になりそうだ。はじめから堀は3方向だけの予定だったのかも知れない。そのために堀がない面に高い石垣を築き砲台を置いたのかも知れない。
大手門近くに、であいの館(記念館?)という建物があるくらいであたりはひっそりとしている。平日は授業がおこなわれている、普通の小学校だ。
■謎に迫る
松平乗謨は、なぜ三河から急きょ佐久へ御領変えをおこなったのか、なんだか日本のへそをつくりたかったのではないだろうか。幕末には若年寄にまで昇進しているのだから伊能忠敬がつくった日本地図は目にしている?はずなので、その全図から推測して日本のへそを探し当てていたのではないだろうか、そのためにその地へ移ったとも考えられないか。
これは推測だが、実際に、日本のへそ、海から一番遠い地点と目されるところから龍岡城まで(こならの森が2万5千分の一地図から推定した距離)は約6・8キロ。それも龍岡城の位置からほぼ東にである。日本海と太平洋を結ぶ距離でいえばその中間であり誤差は殆どないといっていいくらいだろう。
実際に国土地理院が計算した地点は標高1200メートル、山城としても、あまりに標高が高すぎて幕府の認可も下りないと踏んだのか。
星形城郭、オランダの本家本元は六稜郭だが、函館とここは五稜郭で、一般に言われる「★」マークと同じもの。ランドマークとしても最高の形をしている。日本のへそに最もふさわしい形だといっていい。
これは蛇足だが、大給恒は最後に文化勲章を除いた全ての勲章の制作にあたっている。ここでも、また新しい「星」をつくりたかったのではないだろうか。
■本家五稜郭
歴史で一番スリリングなのは、天下分け目の戦いが多くあった戦国時代と並んで明治維新だと思う人は多いだろう。そして明治政府との最後の戦いが五稜郭を中心とした函館戦争と呼ばれるもので締めくくられている。
確かに、臼田の五稜郭は堀が未完成ではあるが、本家本元の五稜郭も基幹となる構造は成立しているが、本来目指していた要塞としての多重防護機能は備わっていない。稜堡と呼ばれる城郭本体から張り出した部分が一つしかないからだ。その意味では、未完とも言える。それよりも、そこまで完璧にする必要性が途中で無くなってしまったのだから、仕方がないのかも知れない。
榎本武揚はオランダ留学の経験があり、函館五稜郭はここをモデルにしているともいわれる。
■五稜郭
本家本元の五稜郭を調べていくと、「四稜郭」という文字が目に入った。誤字だろうと思ったが実際に、四稜郭は存在していた。そして名称こそ「四稜郭」としていないが、戸切地(へきりち)陣屋というものが先に存在している。四稜郭よりも立派な作りで、五稜郭の一辺を取り去り一つだけを突出した亀のような形。
四稜郭(設計:陸軍奉行大鳥啓介)は五稜郭の北方の守りとして1869年に榎本武揚が急きょ築造したものだそうだが、半日で落城したということだ。
その他に少なくとも北海道には、弁天台場と権現台場という稜郭があったらしい。また、兵庫県には、勝海舟の設計によるといわれる星形の砲台もある。
■日本のへそ
帰り道に、海から一番遠い地点という場所がある。実際には、そこから徒歩で1時間ほど林道を行ったところにあるそうだ。その地点到達者には、自己申告で証明書が貰えるらしい。
■もう一つの佐野市との関連
西洋式の城を造ろうとしたそもそもの学問は蘭学(オランダ語で書かれた西洋の学問)である。
その蘭学を日本に伝えるきっかけとなった出来事のオランダ船、リーフデ号の船尾に飾られたエラスムス像が佐野市にあった。まさしくこれは、オランダの稜郭要塞都市ナールデン(六稜郭)から始まる、今回の企画「本州の五稜郭」への導入部であったとさえ思えてしまう。(ちなみにリーフデ[De Liefde]とはオランダ語で「愛」という意味)。
エラスムス像はオランダでも最も古いと言われる木彫りの彫刻で、発見当時(1920年)オランダは破格の値段で買い戻そうとしたという。また読売新聞の記事によれば、船尾以外に船主にも像があったという。裸の子供の像とあるが、これは天使の事ではないだろうか。
それにしてもエラスムス像どうして佐野にあったのかは究明されておらず謎は深い。なかなか興味が尽きない話題だ。こならの森でもその点を調査していきたいと思っている。
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