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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森197号

2008-07-07 | 101号~200号
       ■こならの森197号■2004.9発行
表紙 「葛生廃線路 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安佐の廃線路を行く」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

安佐の廃線路を行く

■廃線、始発駅………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じモチーフではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を担当したのだろうが、おのおのは叉、違った趣である。この辺が非常に面白い。

■復活
 運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の1971年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ76年頃(著者十七才)に復活運転をしたということだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが行かなかった。その時は少し迷った。機関車は当時でも珍しいピーコック型のSLだったからだ。歴史に「タラ・レバ」はないが、悔しさは残る。一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路や踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
 葛生老人ホーム近くで
 道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。
 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけだった。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、桜並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇した。
■再訪、鉄橋・橋脚
 ある晴れた日にまた鉄橋跡を訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。ともかく縦位置の写真を元に同じ位置から現在の様子を撮影した。また、残された橋脚の一部も茂みに隠れて見えにくかったので、何枚か撮り直した。

■走覇
 廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、実際(車が脱線(脱輪)する?)方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎない。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと思う。それは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。

 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも残っている。これを、利用しない手は無いではないか。ただし散策には充分な注意が必要。(編集部)

■廃線路の歩きかたのポイント
 少し古い5万分の1の地図を見ると、はっきりと路線図が書き込まれているので、あればそれを参考にしてほしい。現地では、今でも送電線の跡が残っており、指し示すように道(廃線路)を表している。それをめあてに進めば間違いない。
 やがでこの電柱(送電線)も撤去されることだろう。その頃には、廃線路も忘れ去られていることだろうと思う。

■廃線………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じデザインではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を統一して担当したのだろうが、おのおのは叉、違ったデザインである。この辺が非常に面白い。

■復活
  運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の46年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ51年(著者17才)に復活運転をしたいうことなのだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが同意しなかった。その時は少し迷ったのだが、歴史に「タラ・レバ」はないという言葉が一番光る。
 一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路、踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
葛生老人ホーム近くで道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。だが、いくら探しても、横の写真が見あたらない。

 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。確かにそうだった。
特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけなのだから。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し撮る側からすると逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに、大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇し感動した。


■再訪/鉄橋/橋脚

 ある晴れた日にまたホームを訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。


■トロッコ
廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで昔見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、現実(車が脱線(脱輪)する?恐怖)の方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎないのだろう。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと願う。でもそれは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。
 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも手つかず封鎖もされず残っている。これを、利用しない手は無いではないか。もちろん立入禁止部分もある、場合に寄っては入所の許可も必要となることだろう。散策には十分注意されたい。(編集部)



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