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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森202号

2008-07-16 | 201号~220号
       ■こならの森202号■2005.2発行
表紙 「 道路元標」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

インフォメーション…………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安蘇郡近隣 道路標識」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

最初で最後「安佐」の原点企画
安蘇郡近郊の道路元標をめぐる

 気軽に進めた割には、一番やっかいな企画になった企画ともいえる今回の企画。(よくわからん、気になる木みたい)
 最初に取材した葛生町のものが順調だったがために、後がいけなかった。この辺が、「元標」のもつ『元』という言霊的意味合いが強く関係するのかもしれない。
 何はともあれ、安佐地区に現存している元標は4つあるらしい。少し前に何かと話題になった、佐野町(元佐野市)のものはみなさんもお目にかかったことがあるでしょう。現在の田村耕一記念館前にあるし、市役所へ向かう道と旧50号線が交わるメインストリートですから。
 ともかく安佐の核となる2地点をゲット、気をよくして、よせばいいのに館林市まで触手を伸ばすことに………なにせ東武佐野線沿線のタウン誌ですから~~(残念)。
 葛生町、佐野町、館林、どれもやはり区画整理や道路拡張にともない、厄介ともとれる元標には目もくれなかったようです。実際に、『保存』はされているようですが、どこも手厚く『保護』されているようで、現状を維持するところまではいっていないようにみえました。次に館林市の路線的によく分からない122号線を進み、やっとのことで出会った、元標にはある意味感動しました。というより、ここであろうと予測した地点に存在していたからです。
 でも場所的にいうと、歩道橋の下でまったく、その意味性や価値観など忘れ去られたものであるようでした。ちょっと、つまずいて倒されても(現実には不可能ですが)その後には何もないでしょう(再建されない)。
 しかし、ここで一番興味を引かれたのは、歩道橋の下に忘れ去られている存在にもかかわらず、その前は小学校であるからです。
なぜかという、安佐でも(なつかしいですね、この文字が使えるのは今しかありません、今ここでこの文字を使えるのは、今年限りです)小学校前という過去の記述はありますが、実際に学校の前にあるという元標は(安佐地区では)、現存していませんでした。編集室から100メートルもしないところに実際には、その(まぼろし)の元標が記述によりば実際に存在していました。私も、未だに探し求めてはいますが………。
 ともかく、この場所に当初から存在していたのではないかと想像します。もちろんその後の取材で、それがあやしいものだと思われるようになるのですが、取材した時点ではそこまでは確認してはおりませんでした。
 その後はスムーズに進むはずでした。ある晴れた日の午後に、田沼町方面へ取材に向かいました。二転三転して、現在は「オカリナの里」に移築されているという、「野上村」元標を取材するべく車を走らせます。ところがつるべ落としの冬、あるいは出発するのが遅かったのか、到着する時点ではもう夕暮れとなってしまいました。なにはともあれ、写真には納めました。一部ストロボを使ったので、まったくこれは夜景ですね。本来なら、この後に氷室まで取材に向かう予定だったのですがとても無理、その時点では「氷室」の取材はあきらめて他のものだけで構成をしようと思ったほどです。それでもよかったと思ったので、このまま取材を続け、編集に入りました。いつも発行が遅れ気味なので今号は順調にと思ったほどです。ところが、たまたま葛生方面へいく予定があり、そのついでにと、再度「氷室」への取材をここみました。とはいっても、時間はありません。実際には本来の約束の場所に到着するのがギリギリというくらい切羽詰まった予定となってしまいました。それなのに、予定していた「氷室」の元標は、見あたりませんでした。
 このときは時間がなかったのだからしかたがない、………とでも書けば、こならの森の読者は私の努力を納得してくれるだろう………。
 そのまま、文章化していれば良かったのに、再度取材のチャンスが訪れました。今度は時間はたくさんありました。日が暮れないうちに取材ができれば大丈夫な時間帯です。そのためか、余裕であたりの風景などを撮り、目的の場所に到着。前回は、時間もなかったので、「その先」まで行かなかったのだ。そう本当に思って来ていましたから、確信を得ています。ところが、その先にいくら行けども何もありませんでした。ここからが問題なのですが、おもいあまって秋山学寮まで来てしまいましたが、目的の元標には巡り会えません。また、元きた地点まで戻り、はたまた道をさかのぼっていって、道ばたのおじさんに不審がられる始末です。
 それでも、みつかりません。これで足かけ3度。涙が出ました。

 ここまでやったのだから、読者も納得してくれるだろう、このまま書こうと心に決めたそのとき、ある会合でみなさんおなじみの郷土史家、京谷博次さんと会う機会を得ました。そうそうに質問をするとあっさり、移動しているとの返事、今までの私の苦労はいったい何だったのだろうという反面、最初から聞いておけば良かったとの反省しきり。そこで、再度気を入れ直して取材に向かいました。木浦原にまで移動しているとは、まったく思いもよらない結論でした。

 でも、またここに落とし穴が………

ざぜん草の宿営地まで

カーブを曲がるとそこは一面の銀世界、さらにつづく、なんだが埋蔵金探検の頃の思い出がよみがえります。あのときは、怖いもの知らずでのんきにさらに進んで、急な上り坂の凍結路面の途中で車が自然にバックしてしまう羽目に………、なんとも恐ろしい思い出であることか………
 さすがにそこまでは進まなかったが、やはりおかしいここまで奥地ではないはずだと、Uターンする。実際には、さらに奥だった………となり、またしても再取材となる危険性が無かったわけではないが、このときばかりはその方が良いとさえ思えるほどでした。
 しかしながら、木浦原地区の最初の民家まで降りてくると不思議なことに、そこに元標がふっうと現れました。まるで予期しているかのようでした。あたりは本当に閑散としています。まことに冷たそうな清流が音を立てている。それ以外何もないといってもいいくらい。木浦原地区というのは、地区とはいって人家のないキャンプ場、という思い違いをどうやらしていたようです。というのも、そのまえ、木浦原の少し手前で人家が途絶えてしまい、急な道が続いて林道になり、とても人家のある場所まで道があるとは思えないからです。陸の孤島とでもいうのだろうか。
 でもそこでは、縁側で髪の毛を切っている人影が見え、まったく屈託のない日常が私たちとは違った次元で淡々と流れているような気がしました。桃源郷なのだろうか、否………
それは私には計り知れないことです。

 本来、ここで取材は終了であるはずでしたが、さらに峠を越えて、田沼方面(野上村道路元標)まで抜けようと考えました。先ほどの、凍結雪道路面という教訓は生かされていないようだった………
 野上村の道路元標は、バス停のそばに最近まで転がっていたということです。あわてて、昔の写真を探してくるが、ちょっとしたアングルの違いで、元標は写っていなかった、残念。
 前に来た、オカリナの里まで戻ってきた。写真を撮り直します。やっとのことで、全ての取材を終え帰路へと………。

 今までのものは、存在が確認されているものを取材したものですが、これ以外にもまだまだ現存している元標が数多くあるはずです。
 「郡道との分岐点、分合点」など暗号?かともとれる記述があり、宝探しのような模様です。宝を隠した地図を読み解いているようでもあります。詳しい資料がありませんので、現在のどのみちなのか分かりません。
 大正時代の生活などは想像できませんが、その時に生まれた人(元標が設置されたときに同じ空気を吸った人)も現存しているわけですので、そう古いというわけではないようです。町の長老に話を聞けば、設置当時の場所や遍歴などが分かるかもしれません。

 それにしても、終えてみると安佐一週です。最後の最後、合併前に全土をよくみておけといわれているように思ってなりません。そんな思い深い企画となりました。それにつけ、まだまだこの新・佐野市は奥が深いようでなりません。安佐という名前は無くなりますが、これからも興味の尽きない場所になることでしょう。こならの森も気が抜けない日々となります。

■今回取材した道路元標
葛生町道路元標
氷室村道路元標(水木地区)
野上村 道路元標(高ヶ谷地区)
多々良村道路元標
(国道122号高根沢歩道橋下)
館林町道路元標(本町二丁目交差点)

参考資料

●道路元標とは?
 道路元標は大正時代の「道路法施行令」によって、全国全ての市町村の当時の道路の中心となる地点に1基ずつ設置され、国道・県道などの路線を決める際には、元標を起終点とすることが定められていた。同法令により規格が決められている。
 昨年11月1日の全国の市町村数は2,942だが、大正11年当時は12,315の市町村があり同じ数の道路元標が建てられていた。 現在調査を行っているところもあるが、その全体数は把握されていない。もしかしたら、街角に古くからおかれている石がそうかもしれない。


安蘇郡にかってあった場所(■は今回取材したもの)

■佐野町 安蘇郡役所前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 旗川村 大字並木地内役場前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 植野村 大字植野地内小学校前 (郡道佐野植野線)
   
 界 村 大字馬門地内 郡道佐野界線ノ終点(町大道トノ丁字路)
   
 堀米町 大字堀米地内小学校前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 犬伏町 米山前丁字路 (府県道宇都宮前橋線)
   
 赤見村 郡道佐野赤見線ト赤見富田停車場線トノ分合点

 田沼町 大字田沼地内 府県道佐野田沼線ト田沼葛生線トノ分合点

 常盤村 大字仙波地内役場前 (府県道葛生粟野線)
   
■氷室村 大字水木地内 郡道佐野氷室線ト役場ニ通スル町村道トノ交叉点
   
■野上村 大字高ヶ谷地内役場前 (郡道佐野野上線)
   
 三好村 役場前三好橋下 (郡道佐野野上線)
   
 新合村 大字閑馬地内役場前 (府県道彦間田沼線)
   
■葛生町 大字葛生地内 府県道田沼葛生線ト葛生粟野線トノ分岐点
   
 飛駒村 府県道彦間田沼線ト彦間桐生線トノ分岐点 
 

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こならの森201号

2008-07-15 | 201号~220号
       ■こならの森201号■2005.1発行
表紙 「関東の道後温泉 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「館林の楽しい歩き方」……6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

館林市

まちなか散策ガイド

 今回の取材を通して、一番痛感したのは、「佐野は元来、厄除けや佐野ラーメンという、知名度の高いものがあり、さらにはアウトレットもできて好条件が揃っている、何も館林まで来てまちの散策などを取材しなくてもいいのではないか」と「まちやサロン」の係の人に言われたことだ。羨望のまなざしだった。いくら状況(現状)を説明しても、そういわれてしまうと返す言葉に困る。佐野は何が一番いけないのか、気質か、風土か、人間性か、分析にはことかかないのだが………活性化に対する答えはあまりない。ある意味贅沢な悩みなのかも知れない。今回はみなさんとそんな糸口を探りながら、出口について考えてみたい。

 表紙にも掲載したように、四国道後温泉にも似た建物を見たことが今回の一番の触発であった。早速道後温泉のある松山市の観光課へネットアクセス、どのくらいに似ているのか、写真掲載承諾を依頼したら直ぐにオーケーがえられた。掲載しているものは、その時の写真である。
 
・清流が消えてしまった。
 しばらく清流劇場には行かなかったのだが、無くなっているとは思わなかった。こならの森配送ルートであったのだが、その道がだいぶ変わっていった。そしてその近くに、思いもよらない歴史的な建物が建っているとは………これは、建物探検隊でなくても興味津々であるに違いない。
 そんな流れのまちなか散策、スタート地点がこれまたレトロな館林駅という点は評価が高いだろう。そして、写真でも少し紹介しているが、駅前から少し離れたところにある東武鉄道の施設であろう建物が目を引く。よく見ると壁面に東武のマークが浮き彫りされている。コンクリート造りの外観からすると昭和初期の建設だろうか。まだ、ひとつも案内マップに示された場所にたっしていないのに、これほどの驚きであった。次が期待できる。いつも思うことなのだが、こうした取材で一番活躍するのは自転車ではないだろうか、つねに折り畳み式の自転車が欲しいとは思ってきたのだがこの時ほど痛感したことはなかった。さらに電動アシストや、電動バイクがあればいいのにな~と思ったが、ぜいたくか。

 駅前に降りたって、最初の目的地を散策する。綺麗に整備された、駅前通と、映画のセットの裏側かと思われる裏町、細く頼りない路地がことのほか好奇心を刺激した。なんだか忘れていた昭和中期がほのかに薫る。現代社会に矛盾を感じ始めている世代の人は、館林駅まできたら少し道を離れて寄り道してみることをおすすめする。
 今回は車での移動なので、一方通行などがあり案内マップの順番(館林駅からの徒歩を前提にしたもの)通りにはいけなかったので、興味のある方は、順番通りに通ってみてください。
(1)竜の井(たつのい)
 井戸は、曲がり角などが見つけづらく、少しとまどったがたどり着くことができた。以外と駅前ロータリーから近い。案内板が設置してあるので、詳細はそれを参照されたし。


(5)旧二業見番組合事務所
 次に向かったのが本命とも思える、旧二業見番組合事務所。住宅街の一角にひっそりと建っているが、存在感は充分で当時の賑わいが聞こえてくる。現在は集会所として使っているので、中には入れなかったが、内部もあまり手が加えられていないようである。路地を抜け裏側にも回ってみたが、回り廊下となっており「ハレとケ」というのか、興味がわく。表の顔とは裏腹に裏面は質素でもある。ライオンにたとえると、派手なたてがみの様相とはがらっと変わっていた。
 「旧二業」に出会ったときは、本当にびっくりした、というよりも感動した。佐野も最盛期には200人を超える芸者衆がいたというが、建物からするに同規模の賑わいだったのであろう。また、それが現在にまで残っていると言うことの方が驚きだが。

(6)清流神社
 それより前の曲がり角には清流神社があった。井戸を囲む社。最初に紹介した竜の井とはかつてつながっていたという。
(今にして思えば、映画館の清流という名前もここから取ったのだとおおよそ想像がつく)。また現在でも、清流通りという看板を目にすることができる。

(4)外池商店
 旧二業からも見えるほど小道の突き当たりにある。一方通行なので、右には曲がれなかった。外観の写真を撮っていると、中からのぞき見る人影が、あわてて取材の旨を伝えると、快く承諾していただけた。「そんなに古い建物ではないんですよ」と、おかみさんが謙遜しながら話す。

(3)青梅天満宮
 藤原道真縁の天満宮という。場所がよく分からなかったので、近くの人に聞くが、親切に教えてくれた。まだ、人の情が色濃く残っているところでもある。些細なことなのだが、とても嬉しくなった。

(2)毛塚記念館
 一度通り過ぎ、駅前近くまで行ってしまいUターンしてやっと見つけた。江戸時代からの造り酒屋で国の登録文化財となっている。この日は鍵がかかっていて中には入れなかった。

(番外)清流劇場へ
 現在の清流跡地には、ミニFM局がある。ここから少し行くと曲がりくねった道が続くが、そこに趣のある蕎麦屋さんがある。だいぶ昔からしっていたが、今回は思い切って中に入ってみた。お客さんと思ったのか身構える店主とおかみさん。そとにある煙突は石炭を燃料にしていたときの名残だという。なんと言っても入り口にかかっている看板が泣かせる。骨董市にだしたら建物よりも高い値が付くに違いないと思えるほどだ。

(7)鷹匠町の町並み
 この場所もいつも通っていた道である。現在は新しい建物が建ち整備されている。内部の公開は土日が中心と言うことで、これまた中には入れなかった。

(8)館林城土橋門
 こならの森の創刊3号にも登場している城門。昭和58年復元。

(9)旧秋元別邸
 最後の館林藩主にゆかりのある建物という。純和風の建物のそばに白亜の洋館が建っている。当時はハイカラであったのだろうが、今見るときょとんとする。目が点状態だ。
また近くには、
・田山花袋記念館・田山花袋生家・上毛モスリン事務所・向井千秋記念館などのスポットが隣接してある。

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こならの森200号

2008-07-10 | 101号~200号
       ■こならの森200号■2004.12発行
表紙 「 木造校舎」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「木造校舎」…………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】
特集
木造校舎を訪ねる(尋ねる)。

 訪ねるは、その場所を訪問する、尋ねるは問い求める、探す、調べるという意味なのだそうだ。というならば、今回は「尋ねる」という字があてはまるのかなと思う。少ない情報を元に、場当たりで取材を決行するあたりは、創刊号や100号、200号となっても変わらないらしい。感心していても始まらないともかく、行って見よ~う。

 安佐地区には、現在木造校舎と言われる建物はない。記念館や資料館ならあるが。鹿沼の北小などは、地場産業の木材をいかして既存の木造校舎を再生している。今後に残すためだという。私の卒業した、小学校や中学校は歴とした木造校舎だった。小学校は、あらたに木造モルタルのモダンな校舎が追加され、1,2年生が使っていた。もちろん今はない。小学校卒業の記念にモノクロで写真を撮っておいたと思ったが、今はみあたらない。
 中学校へ進むと、当時としてはお荷物的な古い崩壊寸前の校舎。いちおう防火壁はあるものの、災害時にはどうなることかと危惧された。
しかし、歴史は古く、建築にあたっては地元の人々や、就学児童が瓦を屋根まで運んだということだ。それだけ、地域が学校というものに期待をしていた時なのだろう。今とは大きな隔たりがあるのは事実だが、そんな「結い」とまでは言わないがつながりが、学校にあってもいいのではないかと改めて思う。ゆとり教育是正ととか、競争社会だとかいう今日を考えると、なおさら、質素な木造校舎が懐かしくなってきた。あるものは、別の施設に変わり、あるものは地域のコミュニティの場として生まれ変わる。しかし、多くの木造校舎は消えていった。
 今回取材した粟野は、近隣にしては多くの校舎が残っている地区だ。こならの森創刊時期に、ふらりと「木造校舎の取材」ということではなく、この地区を訪れ、何気なく目に止まったものをモノクロで撮影していたが、その中に、写真にあるようなモダンな三角屋根の木造校舎があった。廃線橋でもそうだったが、探したのだが、写真は一枚しか見つからなかった。今後は、アーカイブスとして、ネガの整理が待たれるが、そこまで時間を割く時間が残されているのか………。
 それはともかく、記事に私語は慎んで、はっきりいって、ぶっちゃらけに、今となってはどこで撮影したのか全く分かっていない。ただ、分かっていることと言えば、存在していないと言う事実だけだ。
 よく言われる近代建築への批判は、病院だか学校だかわからない、というものだが、確かにたくさんのそうした画一化された、建築物が反乱した。今回の取材でも、木造校舎を探すのは大変だったが、「学校」を探すのは、たやすかった。そして、みなどれも同じような形をしている。キャラメルの箱を横に立てたようだ。窓は開いているが………

 木造校舎の同じ事(画一化)といえば、栃木市方面から粟野へ向かって、みなどれも道路の右側に建っているということだ、これを頭にいれれば探すのもたやすい。なぜ右側なのかはこの時期の午後に行ってみればなっとくします。


 この日の取材で最初に訪れたのが、  学校。地図が古いのか、看板に惑わされたのか(あっているのだが)一度右側へまがった地点で、あっあそこだ~と思ったところは、何かの集合住宅だった。最初からして、困惑。先が思いやられる。ここは、見つからなかったと(記事に書いて)そういうことにして、次いて見よ~う。
 来た道へ戻り、進んでいくとさらに、下粕尾という看板。やっぱりここを右に曲がるんじゃん。と、思いながら、進んでいくと、今度こそリベンジ、そそくさこれまた右へ曲がって、「あっ」これが一番当てにはならないということをもう、皆様はご存知だとは思うのですが、………その場所(木造校舎)らしきものはなんと、狐につままれたのごとく先ほど引き返した道で、それらしいと思った校舎もさっきの校舎だったのです。
 結論から先に言えば最初の案内通り進んでいれさすれば、後戻りしなくてもよかったわけです。これは、取材が進めば進むほど、皮肉な結果になるのですが………。


 ………しかたなくこの道も戻ります。というより先に進みます。(この辺の状況は地図をご覧下さい。)
 すると今度こそと思える体育館が見え、確かに木造校舎が確認できました。よかった。(何でもないことなのに、水曜スペシャルのようにドラマにしてしまう手法は、創刊以来変わっていませんね。編集長も(変わったひとですが)代わっていませんからね)
 まえふりに戻るのですが、ここで最初に見た校舎は本当に、中学生にタイムスリップしたかのようでした。悪く言えば、キャラメルを横に立てたようなデザインは、基本的にモダン建築と変わらないものですが、「似て非なる」とはこの校舎にこそあてはまる言葉なのでしょう。



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こならの森199号

2008-07-09 | 101号~200号

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【本文抜粋記事】

書評

 「さらば、欲望の国」
   中村敦夫 著
   近代文芸社 刊

 先日のテレビではアメリカの、なんと500キロにも及ぶ女性の映像が流されていました。減量するために胃を切除し、あまり食べられないようにするとか、またはお腹の脂肪を取り出す方法なども解説していました。でも人間が500キロにも太れることにまず驚きました。その女性は自分では起きあがることさえできず、一日中寝たきりです。なぜそこまで太ってしまったのか、とても信じられません。
 その反対に、やせるための番組も花盛りです。1ヶ月に何キロやせて、お気に入りに服が着れるようになったかとか、自分に自信が持てるようになったとか言っていました。後から後から似たような番組が作られるのにはあきれます。もちろんそれを見る人が多いから作られるのでしょうが・・・・・。
 でもこんな番組を見るたびに暗い思いにかられます。このような番組を作る人は、全世界で9億人もの人びとが飢餓状態にあることを知っているのでしょうか。アメリカや少し落ちぶれたとは言えこの日本で、”痩せたい、痩せたい“と思っている人は、明日たべる食料もなく餓死寸前の人たちがこの地球上に数多くいると言う現実を、どのように捕らえているのかぜひ知りたいものです。
 このような大きな矛盾は、世界人口の20%の人びとが富の80%を独占しており、それが年を追うことに拡大してきていることに象徴的にあらわれています。なんと、世界の超金持200人の資産合計額は、世界人口の40%(約25億人)の人びとが、1年間に得る総収入と同じだという学者の発表もあるそうです。筆者・中村は、「吐き気を催すような不公平」と表現しています。私はこの”吐き気を催すような不公平“こそが、テロを発生させる最も大きな要因であると考えております。これを根本から解決しようと努力しない限り、テロはなくならないと思います。
           文・高田朱夏

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こならの森198号

2008-07-08 | 101号~200号
       ■こならの森198号■2004.10発行
表紙 「 コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「田舎教師・文学紀行」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ



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【本文抜粋記事】



●純文学に帰ろう! 読書の秋スペシャル

田舎教師文学紀行

 作家の秋山 駿(あきやま・しゅん)が朝日新聞に寄せている文章では、田山花袋の小説を読み返しているという。それは、純文学であり、私小説のルーツでもあるからだという。そして、金原ひとみや綿矢りさの方が、花袋よりもうまく描いている、とさえいう。
 「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」は純文学や純情、そして今の「冬ソナ」ブームに引き継がれる「純」な気持ちへの出発点でもある。
 それが若い19歳20歳という感覚で書かれていながらも50歳代の人々にも共感をもたれるゆえんでもある。混沌とした、現代で見失ったかに見えたものが、再び復活してきたような気がする。「読書は、純文学に始まり、純文学に終わる。その間にはたくさんの駄作を読まなければいけない」という文芸評が思い出される。
 花袋は夏目漱石とも4歳しか離れていない、小説の水明期に、暗中模索していた作家だ。それらを飛翔してきた世代とでは自ずと書き方も変わってくるのだろう。でも、その原点とも言える小説を読み返してみるのもいいかも知れない。

■文学散歩
 創刊間もない頃のこならの森では、館林における田山花袋を少々取り上げているので、今回は実際に舞台となった、行田市を中心に話を進めています。
 少し前、ある冊子で、田舎教師の墓という記事は見てはいたのですが、少し古くさい印象でした。それくらいにしか思っていなかったのですが、先にも紹介したように何事にもはじめがあって、私小説の先駆者という認識でみてみると、また違った感じがします。その辺が、純文学に始まり、純文学に終わるという普遍性へつながっていくのでしょうか。

■旅立ち
 順路どうりに、館林の田山花袋記念館を起点にして、行田方面へ向かいました。途中、川俣事件の碑を見たりして30キロ近く寄り道。
 行田市に入ってまず、モデルになった青年の墓があるという建福寺へ。最初に思っていたイメージは町外れでしたが、実際にはまんま駅前。交通量の多い道路に車を止めての強行軍です。道路側からは、これといった大きな案内板はありません。境内に隣接して幼稚園があり、何かの行事がおこなわれていて、あいさつされたりして少々テレ気味のあと墓へ向かいました。そんな、状況もあって、足早に取材、写真撮影、ところがこれがいけなかったと後から思うのですが、モデルとなった小林さんが下宿していたという旧本堂は、確認できませんでした。
 ガイドマップが細かくなかったのか、また古いものだったのか、目的地までは本当に「4里」ほどかかりました。
 今でも、モデルになった、小林秀三さんの墓はしっかりと守られていました。記念碑も、説明の看板もしっかりと有りました。案内板は、控えめですし、はじめて羽生駅に降り立って、墓碑を目指そうと思ったら苦労するかも知れません。ここは、駅員さんに聞く方が、いいでしょう。
 それから町の中心地をすぎ、田舎教師の舞台となった、「弥勒小学校跡」へ向かいました。建福寺から車で行っても、15分は過ぎています。実際に、徒歩であるったら何時間かかったのでしょうか。四里は、今でいう約16キロ。佐野から足利くらいの距離です。
 どうしてもっと近くに下宿しなかったのかとか、他の交通手段はなかったのかと、思ったりします。
 舞台となった小学校は今はありませんが近くには田舎教師の像があります。またここに小学校があったという記念碑もあります。時は流れても、あたりの風景はむかしのままのようです。
 「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれる。自然主義は人生をありのままに描くことに徹するという。だから人も風物も忠実に再現され、そうした真実がいまも心を打っのかもしれません。

■私小説、純文学のふるさと
 人は一生のうちにいろいろなジャンルの本を読むのだけれど、結局はここにかえって来るといわれている純文学。
 それにしても、ノスタルジーなのか、分かりませんが時を超えてこうして文学の舞台となった土地に記念碑や足跡が残っているのはうれしかったり、また文学の普遍性をかいま見たような気もします。
 私の手元にある「田舎教師」の文庫本の解説には、「………というのが、このたいくつな小説の筋書」とあります。つづけて「筋もたいくつでありますが、」とあり、代表作の解説なのになんともはっきり物事をいうのだろうと感心しました。

■再び草の野に
 『田舎教師』の発表から一〇年後に、やはり羽生を舞台とした小説『再び草の野に(一九一九年)』を出している。当時の東武伊勢崎線は、利根川橋の工事が遅れていたために、羽生までしか伸びていなかった。そこに暫定的におかれた終着駅、川俣の物語が「再び草の野に」だ。ゴールとラッシュのように町が興り、線路が延びると駅が廃止されて「再び草の野に」。実際に、利根川のたもとにはその廃墟があるという。

■都会教師か田舎教師か
 「都会か、田舎か」実は今に通じる深い思想が当時もあったようです。モデルとなった青年も地方で教員をしながら、都会へ出ていく夢を持っていた。それとは逆に、地方へ向かう流れもあった。
 小林の日記を田山花袋に紹介した建福寺の住職太田玉茗は、都会で活躍しながらも羽生に戻っているのです。

※主人公とモデルになった人物が似かよった名前なので、混同してしまいますが、主人公は林清三です。


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こならの森197号

2008-07-07 | 101号~200号
       ■こならの森197号■2004.9発行
表紙 「葛生廃線路 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安佐の廃線路を行く」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

安佐の廃線路を行く

■廃線、始発駅………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じモチーフではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を担当したのだろうが、おのおのは叉、違った趣である。この辺が非常に面白い。

■復活
 運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の1971年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ76年頃(著者十七才)に復活運転をしたということだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが行かなかった。その時は少し迷った。機関車は当時でも珍しいピーコック型のSLだったからだ。歴史に「タラ・レバ」はないが、悔しさは残る。一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路や踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
 葛生老人ホーム近くで
 道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。
 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけだった。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、桜並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇した。
■再訪、鉄橋・橋脚
 ある晴れた日にまた鉄橋跡を訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。ともかく縦位置の写真を元に同じ位置から現在の様子を撮影した。また、残された橋脚の一部も茂みに隠れて見えにくかったので、何枚か撮り直した。

■走覇
 廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、実際(車が脱線(脱輪)する?)方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎない。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと思う。それは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。

 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも残っている。これを、利用しない手は無いではないか。ただし散策には充分な注意が必要。(編集部)

■廃線路の歩きかたのポイント
 少し古い5万分の1の地図を見ると、はっきりと路線図が書き込まれているので、あればそれを参考にしてほしい。現地では、今でも送電線の跡が残っており、指し示すように道(廃線路)を表している。それをめあてに進めば間違いない。
 やがでこの電柱(送電線)も撤去されることだろう。その頃には、廃線路も忘れ去られていることだろうと思う。

■廃線………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じデザインではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を統一して担当したのだろうが、おのおのは叉、違ったデザインである。この辺が非常に面白い。

■復活
  運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の46年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ51年(著者17才)に復活運転をしたいうことなのだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが同意しなかった。その時は少し迷ったのだが、歴史に「タラ・レバ」はないという言葉が一番光る。
 一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路、踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
葛生老人ホーム近くで道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。だが、いくら探しても、横の写真が見あたらない。

 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。確かにそうだった。
特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけなのだから。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し撮る側からすると逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに、大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇し感動した。


■再訪/鉄橋/橋脚

 ある晴れた日にまたホームを訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。


■トロッコ
廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで昔見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、現実(車が脱線(脱輪)する?恐怖)の方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎないのだろう。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと願う。でもそれは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。
 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも手つかず封鎖もされず残っている。これを、利用しない手は無いではないか。もちろん立入禁止部分もある、場合に寄っては入所の許可も必要となることだろう。散策には十分注意されたい。(編集部)



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こならの森196号

2008-07-06 | 101号~200号
       ■こならの森196号■2004.8発行
表紙 「ひまわり 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 安佐の2億年ロマン 
「珊瑚礁を見に行く」………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

■この夏に南国気分
 「栃木のミステリー」という本に、葛生は珊瑚礁だったという記事をみつけました。確かに石灰の分布図は珊瑚礁のような半円形です。
 そこで私なりにいろいろ調べてみました。葛生町史の地図を図書館でコピーして実際の地図と照らし合わせると、不思議なことに、石灰採掘の場所と一致します。試しに、やってみてください。夏休みの自由研究などにもってこいですね。25000分の1位の安佐地区の地図を参照して、(これは学校の教材等で配布されています)石灰採掘の場所を塗りつぶしていくと、不思議と(もちろん不思議ではないが)半円形の痕跡が浮かび上がります。ただ、葛生町史の地図では、あたりまえですが、佐野や田沼地区の石灰の分布が分かりません。そこで、佐野市立博物館の企画展で行われた、展示図(新生代の地層と岩石)を参照すると、はっきりすると思います。かすかですが、佐野地区にも所在が確認できます。もちろん現在の石灰採掘の分布と一致します。田沼三好地区と出流原の間にも分布しているようなのですが、見あたりませんでした。後で分かったのですが、図と一致する戸奈良地区では、少し昔に採掘をやめているそうです。
 前出の栃木県全体の地層図だけを見ていくと、実は県北地区にも、半円形の地層形態を確認できるのです。形も、安佐地区のものを少し拡散したようで、半円形の向きも同じです。そう疑ってみると他にも怪しき地点がありますが白亜紀から古代3紀の地層で、新しいものです。ですから年代でみると安佐地区のこの時期(2億年前)は明らかに突出しています。そして、コンパスで描いたように綺麗な形です。

■珊瑚礁のなりたち
 安佐の石灰層の年代は、2億年頃ですが、大陸移動が始まったのもこの頃です。そして、珊瑚礁は南国の暖かい海で発達します。
 現在でもハワイでは、キラウェアなどの火山が活動していますが、火山島の回りにそれを取り囲むように、珊瑚礁ができてきます。富士山のようなすり鉢状であれば、円形に発達します。大陸が移動して下に引き込まれると島も徐々に沈んでいきます。珊瑚礁は光を求めて、上へ上へと発達していき、最後には浮き輪のように珊瑚礁だけが残されるということです。

実際に行ってみました。 
 [ 現場検証? ]


■佐野地区 半円形の最端部、出流原弁天池周辺
 ここが地層上は珊瑚礁の切れ目に当たる地区。もともとの形が円形(環礁)だったと仮定すればこの先にも、何らかの痕跡が確認されると思うが、2億年代の地層はここだけだ。
 少し前に、栃木の鍋山地区で産廃問題が起こったとき、「栃木の出流山と佐野の出流原弁天池は、地下水脈がつながっている。だから佐野(の弁天池)も無関心ではいけないのだ」とささやかれ、そうかもしれないけれど無理があるだろうと内心思ったものだが、あながちそうでもないらしい、ということが今回実感できた。

■仙波地区
 山深いところだから、ここまではと思っていたら突如として表れる採石場、あたり一面は銀色の世界へと変わる。この先の、羽鶴地区はもちろん日本一のドロマイド産出地区である。まさに石灰地区であるのだ。

■長谷場・作原地区へ
 三好地区から白岩地区を望む。いつもなら変わらぬ風景なのだが、異様な山を見つけると、これも?などとあたりかまわず思い始める。すぐ右手を見ると、三好鉱業だ。大仏山といわれている山も珊瑚礁なのか? そう思うと、あれも?これも?と疑心暗鬼となる。

■白岩地区
 いつも通っているところなのに、その白岩地区がこれまた珊瑚の「礁」を形成していたとは。そういえば、確かに他の山とは違った形である。特徴的とも思える。逆に言えば、特徴のある山があればそれは………と極論したくもなる。実際に白岩地区に急に現れる絶壁などは、不思議に思ってきたのだ。

■鍋山地区
(日本のエアーズロック鍋山)
 栃木市や出流原町に行ったことがある人なら、鍋山という地名はよく知っていると思う。著者などは、そばを食べに満願寺方面を国道293号線から分かれて目指す時の目標ともなる。途中には西部劇に出てきそうな、廃墟(?)の鉱山町を通過する。土日なら、それほどでもないが平日ともなるとその通りの主役は、10トンを越える大型ダンプだ。そしてこの地区一帯が石灰の分布図上では一番規模が大きい。

■南の国でバカンス気分?
 この熱いのに、南の国をイメージしろったって無理、余計暑くるしくなった。そういわれるかも知れません、でも葛生町会沢の宇津野鍾乳洞だけは請け合いですよ。ともかくどんなに外の気温が上昇して蒸し暑くとも、ひとたびここにはいると、異次元の世界。冷蔵庫か、はたまた闇夜の世界、黄泉の世界へ、オカルトチックが好きな人には特におすすめ(近くの会沢トンネルもお忘れなく)、二重のヒンヤリ感がたまりません。
 平均気温が15度というのは、驚きです。ちょうど、鍾乳洞から出ていくところだったカップルの歓声、「おー、あっちー」が印象的でした。
 ここに向かうまでクーラーを全開にしていたのですが、車を降りると、湯気の立つ熱い風呂場に入ったような蒸し暑さ。それが一歩中にはいるともうでてこられません。クーラーの一番真ん前に居座っているような気持ちよさ。それも本当に一歩、入っただけなのにこれですから。

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こならの森195号

2008-07-04 | 101号~200号
       ■こならの森195号■2004.7発行
表紙 「 大橋」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 「レトロな橋 」………………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】


秋山川、三杉川、巴波川…
水系別、懐 古な石の橋
石 橋

■レトロな石の橋
 何号か前に埼玉県で発見した石の橋、どうしてこんな田舎で意匠をこらした橋が出来上がったのか、それもデザインが一つ一つ変わっている。町中にあり人々が注目するいわゆる日本橋のような橋ならともかく、人間より狸や狐の方が多く利用しそう?な所にまで………。埼玉は、ひと頃だ・さいたま、などといわれたが、実際には田園調布をつくった渋沢栄一などの人物を生み出すほどの気質があったのではないか。

秋山川水系

 そんなことから、探せば佐野地区にも同じように意匠をこらした橋が見つかるのかもしれない。今回は、そんな思いから各地を見て回った。
 それにしても埼玉の橋は凄いと思う、どの橋も駄作がないからだ。一般に見られる四角四面の石橋といったものは見受けなかった。ホームページでさらにさぐっていくと、牛の堀川といわれる小さな田園の中の小川にもコンクリートでできた昭和初期の橋がたくさんあるというのでそこにも行ってみた。

■秋山川水系
 秋山川なのに、なぜか橋の名前は安蘇川橋。名前のように歴史のあるデザインでがっちりしている。親柱も大きくて立派なもの。全体的には、直線を基調としたものに仕上がっている。その下流には、唐沢橋もある。唐沢橋は新しい近代的な橋だ。
 見慣れた大橋や中橋も違った視点でじっくりのぞいてみると新たな発見があるかもしれない。大橋は昭和2年(1927)に建設されている。昭和9年(1934)発行の佐野史跡写真帳をみると現在のような親柱上の飾りは付いていない。全体的にデザインは変わってしまったようだ。
 中橋を見ていくと、前出の写真帳に掲載されているものと同じデザインで現在も変わっていない。何年に建設されたのは分からないが、大橋より少し古いような気がする。それにしても2つの橋は(大橋と同じ年代に建設されたとしても)80年近くも経っている古い橋なのだ。
 埼玉県で見てきた橋は、大橋よりも同じ年代か少しに後になって建設されたものであるようだ。中橋などのデザイン、アーチを取り入れたものは埼玉県での流行か、あるいは中橋こそがその流行の発端となったものなのか分からないが、縦に流れる3本や4本などのラインが、「川」字のモチーフになっている。

■三杉川水系
 全体的にコンクリートでつくられた少し古い橋が数多く点在している。だが、デザイン的にすぐれたものはあまりないし、懐古的な意味で言うと趣も少し足りないような気がする、これは取材した橋がたまたまそうだったのか、探していない未知なる橋が存在するのかは今後に期待されたい。

■その他の水系
 巴波川水系の橋は偶然旧50線を走っていて見つけたもの。橋そのものは、それほどではないのだが、回りの景色が橋を盛りたてている。造り酒屋か、味噌叉は醤油などを造っていたのであろう建物群が目を引く。あとで地図で確認したら、蛍橋と書いてあった。そのことも含めて、取り上げてみた。もちろん上流の栃木市には、歴史的にもさらにすばらしい橋が存在することだろう。

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こならの森194号

2008-07-03 | 101号~200号
       ■こならの森194号■2004.6発行
表紙 「あじさい 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 「杉並木を歩く 」…………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

 ■この季節にさわやか散策 ――
「杉並木を歩く」

 梅雨の時期を迎えました。うっとうしく、外出するのも億劫な時ですが、毎日雨というわけでもありません。半分は晴れの日だそうです。年間を通しても3日に1日は雨なのですから、少し多い程度? しかしながら雨もまたよし。ここは、傘を差しながらあるって見るのもいいものです。
 杉並木というのは、小学校の遠足以来何度と無く通っているのですが、歩くという体験は初めてでした。江戸時代にタイムスリップした気分です。
 杉並木とありますが、地図をよく見ると国道352号には、一部松並木と書かれてあります。誤植かと思ったのですが、松のようです(実際にはサワラ)。
 この杉並木は、旅人の日除け風よけ、と言われていますが。東照宮へつづく長い回廊や神社にあるような神々しさを醸し出させる演出のようです。東照宮へ近づくほど大木になっているということですが、これは年代の違いによるものでしょうか? 宇都宮からのびた並木が、今市で鹿沼からきている並木と「×」のようにクロスしていて、この辺も何か意味があるような気がします。
 東照宮も表向きは、家康の廟ですが、実は江戸城の最後の守り(出城)でもあるのです。ですから、東照宮には隠し財宝(埋蔵金)があるとも言われています。維新では、旧幕府軍が日光山に集結し、官軍と戦闘がおこなわれています。旧幕府軍は、会津へ撤退していく時にこの杉並木を通ったのでしょうか。
 散策といっても実際には車の通行がたまにあるのところもあるので、注意が必要です。

■杉並木公園(水車広場)
 散策の途中にちょっとひと休みして、水車などを見学してみるには絶好の場所です。大小各種の水車があります。二連の水車は必見です。その他に、海外の水車もありちょっとした水車博物館のようです。近くには、東武線が通っていて、振り向くとスペーシアが通り過ぎていきました。また、売店の人から、杉から作る線香の生産は全国の60パーセントだという説明を受けました。中国産に押されているということですが、店内には各種の線香やお香などが並べられていました。 
 それから、近くには巨大な落とし穴か、像の井戸(はたまた水飲み場、お風呂?)が出現。この水が近くにある水車の動力源であるようです。これはいったい何か、それは行ってみてのお楽しみ。(どうやらダムの水であるらしい………)

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