前から学生達にも推奨していることだけれど、見聞は文字化することで自分の物になる。
忘れてしまうわけではないのだと思うのだけれど、一旦外在化することで色々見えてくる物があるのは確かだ。
というわけで、取り敢えず、最近の物から少しずつ書いておこうと思う。
まずは、展示モノ、今年度、と言うか今週の4(5)件。
04/10 小野寺宏友 Night Works 『深徊』~喪失から胎動に至る物語~ ギャラリーコエグジスト
小野寺さんは、mixiで知り合った同世代の写真家さん。
まだ面識がなかった頃からこのブログの私の写真にもちゃんとコメントを下さるような、暖かい人。
私も昨年、時計やオルゴールを大量に撮影していただいた。
どんな仕事をされているかはwebサイトやブログをご覧いただければ幸い。
彼の被写体は、人形、椅子、特撮モノに始まり、団地、公園、巨大構造物や水路、工事現場など、“モノ”だ。それも、人けの途絶えた深夜に撮られた物が中心。
人間が苦手だ、と彼は言う。しかし、それは、相当に深い次元での話。彼の撮った平田長蔵さんの写真は、本当に生き生きしている。
今回の展示は、巨大構造物大伸ばし版と、渋谷川・古川の橋を巡って網羅的に撮影された連作を中心に、公園や工事現場など、皆、真夜中の風景ばかりなのに、明るくくっきりと映っている。
小野寺さんの撮影した人形は生きているように見える。
同じように、彼の撮影した公園の遊具、工事現場に置かれた特殊車輌「たち」も、“くるみ割り人形”や“トイ・ストーリー”が現実になりそうな気配を漂わせている。
巨大な構造物でも、水路でも、そこに人は写っていないのに、嘗てそれに関わった人たちの熱気が確かにあり、明日、そこに誰かが来る事を約束している。
過去の、美しく切り取られた風景ではなく、絶えず変容し続ける力動としての風景。
都市生活者は、自然の中に、或いは農村に“風景”を発見する。都市の景観は、見え方を意識して作られたモノもあるにはあるのだけれど、特に日本の場合は、かなり“行き当たりばったり”感がつよい。
そうやって“自然に”生成された景観の中に生命のようなモノを見いだし、芸術のようなモノを読み取る。
それは、我々が普段“何でもないモノ”としてみている場所だったりするのだけれど、そうやって、彼のカメラを通過することで、写真という作品になると同時に、被写体も“何か”になる。
解釈と表現。メディア。
おもしろいなぁ。
04/13 特別展 富士山に憑かれた男「北斎の152景」 駿府博物館
この半年ほどの間に観た浮世絵展のことはまとめて書かねば、と思っていたのだけれど、それはまたしても後回しにして、この展示の話を。
富士山写真展、と言うのは良くあるし、富士山だけを扱った絵画展というのも時々ある気がする。
しかし、これは、北斎だけである。
しかも、富士山だけである。
北斎は風景画を良くした、と言うのは、まぁ日本の一般常識だと思う。
しかし、『北斎漫画』はともかくとして、黄表紙以来、大量の小説類の挿絵を含め、多くの絵本を手がけていることは、“常識”とまで言えないかも知れない。近世文芸に関わっていると本当にお世話になることが多い“絵本”と言うジャンルの魅力を知る機会が少ないのは本当にもったいないことだ。
錦絵にしても絵本にしても、北斎の際だった特徴の一つは、構図法ではないかと思う。
実際、絵手本類で、定規やコンパスを使った画面の分割についての説明も試みているから、画面構成は相当に自覚的だ。
これは、そういう人が手がけた、ワンテーマ作品展。
錦絵の『富嶽三十六景』、絵本の『富嶽百景』の全画像を一度に見較べる贅沢。
富士山という、誰でもがよく知っている単純な形を、画面の中に、どう配置するか。どこから、どう描くのか、何を取り合わせるのか、省くのか。
描かれた富士山以外の様々なモノ達を眺めるのも一興。
「三十六景」では地名が特定されて描かれているのに「百景」ではアノニマスな“情景”が殆どなのも面白い。
山形で企画された展示会の巡回らしいが、案外な拾い物だと思う。
小野寺さんの写真の中にある力強い構図の線と、ちょっと繋がっている気もする。
元々パノラマとか、北斎もやってるわけだし。
04/13 ROSSO展 「イラストレーションカーニバル」 デザインファーム
在静岡の不良中年仲間、ROSSOこと、永田さんとも、もう随分長いつきあいになった。
私のちょっとした企画にも気軽に駆けつけてくれる優しい兄ちゃん。
彼の、初めての個展と言うことらしい。
職業イラストレーターとして、パチンコ屋さんや商業施設、イベントなどで、名前の表示されない数多くの作品を世に出している永田さんは、一方で“作家”として、名前の出る“作品”も手がけている。
そういうモノどもを一度に観ることが出来る機会というのは滅多にない。
イラストあり、立体あり。
ロッソのトレードマークでもある赤と銀の特異なキャラクターは、来場者に可愛いと大人気。
その傍らにアブナイお茶サーバーがあったり。
何か強いメッセージを読み取ったりするわけではなく、絵が好きで、それが仕事になって、そこから拡がる世界を受け入れて愉しむ。
ちょっと離れたところから眺めていると、きっと色々悩むことだってあるんだろうな~、とも思うんだけれど、穏やかな細い目で笑っている。
名前の出る仕事かどうか、というのは、実はどうでも良いのかな、と思ってみたり。
初日、終了後のパーティは、二日前くらいに急に決まったのに20人以上が駆けつけて大騒ぎだった。
次は蓮花さんの個展が観たいなぁ。
04/14 伊藤若冲 -アナザーワールド- 静岡県立美術館
Newコレしずおか 新収蔵品と静岡ゆかりの美術 静岡県立美術館 県民ギャラリー
県美改修後最初の展示は、鳴り物入りの若冲。
第1週目の平日に行ったのに、相当な混雑。これ、週末は大変だろうな。
私はへそ曲がりなので、若冲や応挙を神格化するようなファンにはどうも懐疑的になってしまう。
確かにすごいと思うんだけれど、何かが私の好みと違う。
天明期というのは、ホントにいろんなモノがねじれて開花した時代で、日本画でも、圧倒的な魅力の曾我蕭白がいるし、長沢芦雪も忘れてはならない。蕪村は絵にもつくづく感心させられるし……。
だから、若冲の大作障壁画やモザイク風や、鶏の絵がたくさん並べられていても、今更、と思ってしまったりするのだよね。
なんだけれど、今回は年代判定をしっかりしながら、水墨画もかなり並べていて、案外面白い人なんだな、というあたり、再認識。
とにかく技法の実験みたいなことには事欠かない様だし。
応挙の展示をすると必ず細密なスケッチを並べるのと同じように、“目玉商品”の他に何を置くかで印象がえらく違ってくる気がする。
真面目な若冲ファンではないのでよく識らずに出かけていって、大岡春卜の肉筆画巻が在ったりするのにはちょっと感激。
若冲の先生だったらしい。
北斎の所にも書いたけれど、春卜の絵本を抜きに江戸戯作も語れないのだよね。
売茶翁との交流も、へ~、という感じで(多分、若冲ファンには常識なんだろうけれど)。
秋成の讃もあった。
なんと『乗興舟』の版木もあった。彫りの浅さに驚いた。しかも改刻されてるらしい。
そういうトリビアを幾つも見つけつつ、どうにもストレスなのは、中途半端な解説。
『乗興舟』の正面摺を理解できてない人たちの会話がかなり耳に入ってきたし、売茶翁の説明の中に、一番親しみのある“高遊外”を入れないのはやっぱり不親切だと思う。画風の変遷でも筆法の解説でも、専門家らしい小難しさが顔を出す。
一方で、最新の研究成果らしい年代判定に関しては、図録を観ないと説明がないのは、もったいない。
ボランティアガイド風の人たちも相当大量に動員されている風だったけれど、この人達は、どのくらい解説できるのかなぁ、と、ちょっと意地悪な気持ちにもなりましたよ。
何にしても、2時間程度の滞在ではとても楽しめる域まで行けないし、これから更に混雑したらどうしようもないけれど、展示替えをしたらまた行きたい。
展示会の図録や解説文については別に書きます(いつか)。
若冲展の中にも彼の先達たちの作品、同時代の類作などがあるのだけれど、さすがに応挙・蕭白・芦雪を並べるわけは行かないよな~、と思いつつ(実は、応挙・狙仙の作品が出ている)、メインの展示を終えて、同時開催の展示室に入ると、芦雪の孔雀が出ている。せっかくなのだから、もう一声、関連づけた解説が欲しいところだったなぁ。
この空間は昨年度の新収蔵品メインだったらしいのだけれど、去年の狩野派展にも出ていた素晴らしい屏風に再会できる。
というか、正直の所、去年の記憶がないまま、強烈な若冲にいささか疲れたままふと眺めた屏風の中に、類型から外れて活き活きした人々が描かれているのをみて、これ、佳いな~、と思ったら久隅守景だった。やっぱり他とは違う空気を持っているな~とひとしきり感心。自分はこういう絵が好きなんだと再認識させられたし、前に観ていたとはいえ守景をちゃんと佳いなと思えた自分を褒めたいところ。
更に県民ギャラリーに移動。
いきなり五姓田義松の富士があるし、石田徹也が二点だけど出てるし……。
そうそう。
小野寺さんは、石田徹也の伝道師としても知られていたんですよね。
県民ギャラリーで開催された石田徹也展は一緒に観ました。
あのとき石田徹也の作品、実物を大量に眺めて改めて感じた巷間に流布している石田徹也ストーリーに対する違和感を思い出しつつ、そこで感じた徹底的な表現への欲望が、小野寺さんの大伸ばしの写真の細部にも同じように宿っているのを確認して、妙に納得してしまったり。
当たり前すぎるまとめだけれど、北斎にしても、若冲にしても、勿論永田さんや小野寺さんも、“どう描くか”と言うことに、正面から向き合っているんだよなぁ、と。
忘れてしまうわけではないのだと思うのだけれど、一旦外在化することで色々見えてくる物があるのは確かだ。
というわけで、取り敢えず、最近の物から少しずつ書いておこうと思う。
まずは、展示モノ、今年度、と言うか今週の4(5)件。
04/10 小野寺宏友 Night Works 『深徊』~喪失から胎動に至る物語~ ギャラリーコエグジスト
小野寺さんは、mixiで知り合った同世代の写真家さん。
まだ面識がなかった頃からこのブログの私の写真にもちゃんとコメントを下さるような、暖かい人。
私も昨年、時計やオルゴールを大量に撮影していただいた。
どんな仕事をされているかはwebサイトやブログをご覧いただければ幸い。
彼の被写体は、人形、椅子、特撮モノに始まり、団地、公園、巨大構造物や水路、工事現場など、“モノ”だ。それも、人けの途絶えた深夜に撮られた物が中心。
人間が苦手だ、と彼は言う。しかし、それは、相当に深い次元での話。彼の撮った平田長蔵さんの写真は、本当に生き生きしている。
今回の展示は、巨大構造物大伸ばし版と、渋谷川・古川の橋を巡って網羅的に撮影された連作を中心に、公園や工事現場など、皆、真夜中の風景ばかりなのに、明るくくっきりと映っている。
小野寺さんの撮影した人形は生きているように見える。
同じように、彼の撮影した公園の遊具、工事現場に置かれた特殊車輌「たち」も、“くるみ割り人形”や“トイ・ストーリー”が現実になりそうな気配を漂わせている。
巨大な構造物でも、水路でも、そこに人は写っていないのに、嘗てそれに関わった人たちの熱気が確かにあり、明日、そこに誰かが来る事を約束している。
過去の、美しく切り取られた風景ではなく、絶えず変容し続ける力動としての風景。
都市生活者は、自然の中に、或いは農村に“風景”を発見する。都市の景観は、見え方を意識して作られたモノもあるにはあるのだけれど、特に日本の場合は、かなり“行き当たりばったり”感がつよい。
そうやって“自然に”生成された景観の中に生命のようなモノを見いだし、芸術のようなモノを読み取る。
それは、我々が普段“何でもないモノ”としてみている場所だったりするのだけれど、そうやって、彼のカメラを通過することで、写真という作品になると同時に、被写体も“何か”になる。
解釈と表現。メディア。
おもしろいなぁ。
04/13 特別展 富士山に憑かれた男「北斎の152景」 駿府博物館
この半年ほどの間に観た浮世絵展のことはまとめて書かねば、と思っていたのだけれど、それはまたしても後回しにして、この展示の話を。
富士山写真展、と言うのは良くあるし、富士山だけを扱った絵画展というのも時々ある気がする。
しかし、これは、北斎だけである。
しかも、富士山だけである。
北斎は風景画を良くした、と言うのは、まぁ日本の一般常識だと思う。
しかし、『北斎漫画』はともかくとして、黄表紙以来、大量の小説類の挿絵を含め、多くの絵本を手がけていることは、“常識”とまで言えないかも知れない。近世文芸に関わっていると本当にお世話になることが多い“絵本”と言うジャンルの魅力を知る機会が少ないのは本当にもったいないことだ。
錦絵にしても絵本にしても、北斎の際だった特徴の一つは、構図法ではないかと思う。
実際、絵手本類で、定規やコンパスを使った画面の分割についての説明も試みているから、画面構成は相当に自覚的だ。
これは、そういう人が手がけた、ワンテーマ作品展。
錦絵の『富嶽三十六景』、絵本の『富嶽百景』の全画像を一度に見較べる贅沢。
富士山という、誰でもがよく知っている単純な形を、画面の中に、どう配置するか。どこから、どう描くのか、何を取り合わせるのか、省くのか。
描かれた富士山以外の様々なモノ達を眺めるのも一興。
「三十六景」では地名が特定されて描かれているのに「百景」ではアノニマスな“情景”が殆どなのも面白い。
山形で企画された展示会の巡回らしいが、案外な拾い物だと思う。
小野寺さんの写真の中にある力強い構図の線と、ちょっと繋がっている気もする。
元々パノラマとか、北斎もやってるわけだし。
04/13 ROSSO展 「イラストレーションカーニバル」 デザインファーム
在静岡の不良中年仲間、ROSSOこと、永田さんとも、もう随分長いつきあいになった。
私のちょっとした企画にも気軽に駆けつけてくれる優しい兄ちゃん。
彼の、初めての個展と言うことらしい。
職業イラストレーターとして、パチンコ屋さんや商業施設、イベントなどで、名前の表示されない数多くの作品を世に出している永田さんは、一方で“作家”として、名前の出る“作品”も手がけている。
そういうモノどもを一度に観ることが出来る機会というのは滅多にない。
イラストあり、立体あり。
ロッソのトレードマークでもある赤と銀の特異なキャラクターは、来場者に可愛いと大人気。
その傍らにアブナイお茶サーバーがあったり。
何か強いメッセージを読み取ったりするわけではなく、絵が好きで、それが仕事になって、そこから拡がる世界を受け入れて愉しむ。
ちょっと離れたところから眺めていると、きっと色々悩むことだってあるんだろうな~、とも思うんだけれど、穏やかな細い目で笑っている。
名前の出る仕事かどうか、というのは、実はどうでも良いのかな、と思ってみたり。
初日、終了後のパーティは、二日前くらいに急に決まったのに20人以上が駆けつけて大騒ぎだった。
次は蓮花さんの個展が観たいなぁ。
04/14 伊藤若冲 -アナザーワールド- 静岡県立美術館
Newコレしずおか 新収蔵品と静岡ゆかりの美術 静岡県立美術館 県民ギャラリー
県美改修後最初の展示は、鳴り物入りの若冲。
第1週目の平日に行ったのに、相当な混雑。これ、週末は大変だろうな。
私はへそ曲がりなので、若冲や応挙を神格化するようなファンにはどうも懐疑的になってしまう。
確かにすごいと思うんだけれど、何かが私の好みと違う。
天明期というのは、ホントにいろんなモノがねじれて開花した時代で、日本画でも、圧倒的な魅力の曾我蕭白がいるし、長沢芦雪も忘れてはならない。蕪村は絵にもつくづく感心させられるし……。
だから、若冲の大作障壁画やモザイク風や、鶏の絵がたくさん並べられていても、今更、と思ってしまったりするのだよね。
なんだけれど、今回は年代判定をしっかりしながら、水墨画もかなり並べていて、案外面白い人なんだな、というあたり、再認識。
とにかく技法の実験みたいなことには事欠かない様だし。
応挙の展示をすると必ず細密なスケッチを並べるのと同じように、“目玉商品”の他に何を置くかで印象がえらく違ってくる気がする。
真面目な若冲ファンではないのでよく識らずに出かけていって、大岡春卜の肉筆画巻が在ったりするのにはちょっと感激。
若冲の先生だったらしい。
北斎の所にも書いたけれど、春卜の絵本を抜きに江戸戯作も語れないのだよね。
売茶翁との交流も、へ~、という感じで(多分、若冲ファンには常識なんだろうけれど)。
秋成の讃もあった。
なんと『乗興舟』の版木もあった。彫りの浅さに驚いた。しかも改刻されてるらしい。
そういうトリビアを幾つも見つけつつ、どうにもストレスなのは、中途半端な解説。
『乗興舟』の正面摺を理解できてない人たちの会話がかなり耳に入ってきたし、売茶翁の説明の中に、一番親しみのある“高遊外”を入れないのはやっぱり不親切だと思う。画風の変遷でも筆法の解説でも、専門家らしい小難しさが顔を出す。
一方で、最新の研究成果らしい年代判定に関しては、図録を観ないと説明がないのは、もったいない。
ボランティアガイド風の人たちも相当大量に動員されている風だったけれど、この人達は、どのくらい解説できるのかなぁ、と、ちょっと意地悪な気持ちにもなりましたよ。
何にしても、2時間程度の滞在ではとても楽しめる域まで行けないし、これから更に混雑したらどうしようもないけれど、展示替えをしたらまた行きたい。
展示会の図録や解説文については別に書きます(いつか)。
若冲展の中にも彼の先達たちの作品、同時代の類作などがあるのだけれど、さすがに応挙・蕭白・芦雪を並べるわけは行かないよな~、と思いつつ(実は、応挙・狙仙の作品が出ている)、メインの展示を終えて、同時開催の展示室に入ると、芦雪の孔雀が出ている。せっかくなのだから、もう一声、関連づけた解説が欲しいところだったなぁ。
この空間は昨年度の新収蔵品メインだったらしいのだけれど、去年の狩野派展にも出ていた素晴らしい屏風に再会できる。
というか、正直の所、去年の記憶がないまま、強烈な若冲にいささか疲れたままふと眺めた屏風の中に、類型から外れて活き活きした人々が描かれているのをみて、これ、佳いな~、と思ったら久隅守景だった。やっぱり他とは違う空気を持っているな~とひとしきり感心。自分はこういう絵が好きなんだと再認識させられたし、前に観ていたとはいえ守景をちゃんと佳いなと思えた自分を褒めたいところ。
更に県民ギャラリーに移動。
いきなり五姓田義松の富士があるし、石田徹也が二点だけど出てるし……。
そうそう。
小野寺さんは、石田徹也の伝道師としても知られていたんですよね。
県民ギャラリーで開催された石田徹也展は一緒に観ました。
あのとき石田徹也の作品、実物を大量に眺めて改めて感じた巷間に流布している石田徹也ストーリーに対する違和感を思い出しつつ、そこで感じた徹底的な表現への欲望が、小野寺さんの大伸ばしの写真の細部にも同じように宿っているのを確認して、妙に納得してしまったり。
当たり前すぎるまとめだけれど、北斎にしても、若冲にしても、勿論永田さんや小野寺さんも、“どう描くか”と言うことに、正面から向き合っているんだよなぁ、と。
その節は二度もご来場いただき誠にありがとうございました。
そしてかように立派な評論まで書いていただき、重ねて感謝でございます!
ストイックに徹底的に己の美学を追求して、観る者を虜にしてしまうような作品を量産したいです。
やっぱりベッヒャー?
なんだか解った風なことを言って済みません。
ストイックで美学はもちろん悪くないんですが、それをどう売るか、というはなしですよねぇ。
面白いと思うんですが、アート、写真を良い状態で購入する、と言う文化がないと言うか……。
むうう。