昨日は花見、しました。
17人参加。
いつもの半分以下、と言うことだけれど、卒業生中心にコニ研の連帯を確認できて良かった。
有難う。
未来があるね。
さて、以下、震災に関する乱雑なメモ(私なりの“キュレーション”)
早いタイミングで日本赤十字には寄附をしたけれど、その後のニュースを見ていると、配分というか、使い道を決めるのにかなり時間がかかるらしい。
一極集中になってる印象もある。
何とか、本当に困ってる人へ早く、と思うし、親しい人や、自分と関わりのある業種などへ直接届かないものか、という思いもある。
図書館や文化財関係はネット上でそう言う連絡網や情報集積がかなり出来てきている、と言うことも前に書いた。
あと、文化庁の「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(文化財レスキュー事業)について」とか。
TJさんがブログで紹介している「Todoke!」というプロジェクトは、支援物資を届ける為の新しい方法として良くできていると思う。
変な話だけれど、自分たちの腹を痛めないで企業を動かせる仕組み、と言う意味でも。
実際、既に届いた物もあるようだし、「実行決定」「配送中」というアイコンも気持ちが良い。
ツイッターでしかできないのかな。
三陸の漁業被害について、「面白い」取り組み。
三陸牡蠣復興プロジェクト
これには先週一口送金した。
“見返り”は必要ないと思うけれど、それでも、未来を期して待つ気持ちを買えるのは嬉しい。
「オーナー商法詐欺」みたいな物には気をつけなきゃ、と思うけれど、例えば前から存在していた信頼できる通販サイトなどがあれば、そこを通じて、と言うことも可能かも知れない。
長田地区の住人としては、福島の桃も応援したい、と思って探してみるとこんなブログがある(通販サイト本体)。
大変なことだ。
アートを巡って、というか、「言語文化」に関わる者として、理解すること、共有し、伝えること、の「不可能性」をどう乗り越えるのか、と言うのがものすごく大きな課題だと思う。
被災者の痛み、関係者の痛み、他者としての我々の痛みの、それぞれの間にある越えられない壁を、どう壊せるのか。あるいは、壊せないとしても、どう寄り添えるのか。
チャリカルキ、菅野さんのブログ 「かんの的」は、読む度に胸を締め付けられるけれど、同時に、深く考えさせられる。みんなに読んで欲しい。広めて欲しい。
関連して、話題になった発言。
・悲しみを自粛する 松岡 祐紀(アゴラ)
そして
・松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
で、
・3.11を巡る、それぞれのドラマ - Save Tohoku Projectと興梠優護さんの作品に寄せて Eur-Asia 渡辺真也
前に引用したあさのあつこの発言も、多分そこに繋がってくるはずだ。
この状況でどんな表現があり得るのか。
そういう意味で、岡真理『記憶/物語』は、言語活動に関わる人が、改めて読み返さなきゃいけない本だと思う。
17人参加。
いつもの半分以下、と言うことだけれど、卒業生中心にコニ研の連帯を確認できて良かった。
有難う。
未来があるね。
さて、以下、震災に関する乱雑なメモ(私なりの“キュレーション”)
早いタイミングで日本赤十字には寄附をしたけれど、その後のニュースを見ていると、配分というか、使い道を決めるのにかなり時間がかかるらしい。
一極集中になってる印象もある。
何とか、本当に困ってる人へ早く、と思うし、親しい人や、自分と関わりのある業種などへ直接届かないものか、という思いもある。
図書館や文化財関係はネット上でそう言う連絡網や情報集積がかなり出来てきている、と言うことも前に書いた。
あと、文化庁の「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(文化財レスキュー事業)について」とか。
TJさんがブログで紹介している「Todoke!」というプロジェクトは、支援物資を届ける為の新しい方法として良くできていると思う。
変な話だけれど、自分たちの腹を痛めないで企業を動かせる仕組み、と言う意味でも。
実際、既に届いた物もあるようだし、「実行決定」「配送中」というアイコンも気持ちが良い。
ツイッターでしかできないのかな。
三陸の漁業被害について、「面白い」取り組み。
三陸牡蠣復興プロジェクト
これには先週一口送金した。
“見返り”は必要ないと思うけれど、それでも、未来を期して待つ気持ちを買えるのは嬉しい。
「オーナー商法詐欺」みたいな物には気をつけなきゃ、と思うけれど、例えば前から存在していた信頼できる通販サイトなどがあれば、そこを通じて、と言うことも可能かも知れない。
長田地区の住人としては、福島の桃も応援したい、と思って探してみるとこんなブログがある(通販サイト本体)。
大変なことだ。
アートを巡って、というか、「言語文化」に関わる者として、理解すること、共有し、伝えること、の「不可能性」をどう乗り越えるのか、と言うのがものすごく大きな課題だと思う。
被災者の痛み、関係者の痛み、他者としての我々の痛みの、それぞれの間にある越えられない壁を、どう壊せるのか。あるいは、壊せないとしても、どう寄り添えるのか。
チャリカルキ、菅野さんのブログ 「かんの的」は、読む度に胸を締め付けられるけれど、同時に、深く考えさせられる。みんなに読んで欲しい。広めて欲しい。
関連して、話題になった発言。
・悲しみを自粛する 松岡 祐紀(アゴラ)
その通り、と思いながらどこかに違和感がある。
「悲しがる」ことをじゃないのかな。
「悲しがる」ことをじゃないのかな。
そして
・松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
朝日新聞に掲載された詩についての批評。
松浦寿輝「afterward」は、さしあたり、現状についての重要な発信だけれど、その次があるはずだ。
松浦寿輝「afterward」は、さしあたり、現状についての重要な発信だけれど、その次があるはずだ。
で、
・3.11を巡る、それぞれのドラマ - Save Tohoku Projectと興梠優護さんの作品に寄せて Eur-Asia 渡辺真也
そういう、解り合えない絶望を自覚した上で、他者の痛みを共有するために何が出来るのか、と言う、キュレーターとしての重要な見解。
前に引用したあさのあつこの発言も、多分そこに繋がってくるはずだ。
この状況でどんな表現があり得るのか。
そういう意味で、岡真理『記憶/物語』は、言語活動に関わる人が、改めて読み返さなきゃいけない本だと思う。
http://ameblo.jp/lovemedo36/entry-10850897540.html