食事準備~食事~片付けの間NHKFMを聴いてた。
タイガースの思い出話。
新曲も出してがんばってるよ、と還暦過ぎた森本太郎。
そのあと、セッション2008。(この番組、異様に長いね。70年代からやってないか??)
ジョージ川口の息子のバンドの途中で洗い物終了。
川口雷二というらしいんだけど、確かに父親っぽいというか、ジーン・クルーパやってんのね、という感じ。
この前、上映会の打ち上げで、グランシップのチーフと熊切さんがジャズ談義で盛り上がってたところに強引に割り込んだのを思い出したり。あるいは、アスペクト・イン・ジャズの最終回で油井正一が、クインシー・ジョーンズの、多分"I HEARD THAT!"の中の曲をかけて、もう話すことはない、というようなことを言ったのを思い出したり。
今、検索したら、79年なんだな、最終回。そしてなんと、MUSIC BIRDで“再放送”とか。
油井氏はそんなことして喜ぶんだろうか。たしかにジャズ講座みたいで“ため”になる番組だったし、ある意味普遍的な内容を持っていたかも知れない。そして何より、21世紀に今のジャズが語り得なくなっている以上、あの番組の価値そのものが揺るぎない古典になってしまったということなのか。
でも、なんだかなぁ。
歌舞伎が演劇天覧を経て“伝統芸能”になってしまったように、JAZZも、ROCKも、いつかお洒落な大人が蘊蓄を傾ける音楽に成り下がる。ボサノバは既にそうなってるらしいよ。
80年前後、一番ジャズを聴いてた。
もちろん、“古典”として聴く曲もあった(JATPやMJQのリユニオンコンサートに行ったのはやっぱり自慢だ)し、ビリー・ハーパー、ダラー・ブランド(アブドラ・イブラヒム)はオンタイムで聴いた。それからハービー・ハンコックやクインシー・ジョーンズは、マイルスさえどんどん“クロスオーバー”して行ってた。ソニー・スティットは、チケット買ってあったのに急死してしまった。そう言えば、最初に買ったジャズのレコードはスティットの「ペン・オグ・クインシー」だったか。ん、レッド・ノーヴォのバンドにスコット・ハミルトンが入ってる新譜が先か。ピアノはデイブ・マッケンナ。みんなお洒落だねぇ。
今もきっと面白い動きはあるんだろうけれど、それはジャズなのかなぁ、と思ったり。そんなことにこだわることないんだろうけども。
誰かがコルトレーンやマイルスを完璧にカバーしてみせても意味無いよね。
秋吉敏子は今を生きてるから尊敬される(静岡でライブあるらしいねぇ)。
さっきラジオ聴きながら、そんなことを思った。
そう言えば、最近デビューしたての若い歌手のCDを予約で買った。
ネットでコマーシャルが流れてはまった。
こういう買い方は珍しいんだけど、なかなか良い。
ちょっとヒップホップぽくもあり、モータウンや、フィル・スペクターみたいでもあり。
新しいんだか古いんだか、よくわからん。
でも面白いからよし。
Little Jackie - The World Should Revolve Around Me
こんなコトできるのね、このブログ。
このアルバム、歌詞は危ない物が多いみたいだけど、聞き取れない。
そして、YOUTUBEでこの人のライブ映像を見るとぐだぐだ。ひどい。
ただのアイドルタレントなのかなぁ……。
ちょっと前に書きかけたことだけれど、佐藤さん@伽藍博物堂の「ゴドーを待ちながら」を観た。
この作品は、最初本だけ読んで、イメージわかず、緒方拳・串田和美で舞台を観たんだけれど、もう“不条理”って何? という感じで、“違和感”はない。
今となってはやっぱりこれも“古典”になってしまったのかなぁと思ったり。
んで、これもさっき検索してみたら、串田演出に対してかなり批判的な意見を展開してる人もいる。曰わく、「串田演出はかなり特殊なものですが、それがあたかも現代日本のゴドーを代表するかのような空気が作り上げられていったのです。「それはちょっとまずいだろう?」と思ったわけです。」なんだそうな。
こまったな。念のため、肯定的な考察もリンクしておこう。
佐藤さん達のは、挨拶文にあるように、長いこと連れ添った老夫婦の話、らしい。
そう言われてしまうと、すべての台詞が、そのように書かれているように思えてしまうから本当に不思議だ。コミュニケーション不全、そして平凡な人生の繰り返し。
これがスタンダードになったらまずいな、と思いつつ、でもこの解釈が案外当たってるんじゃないかと思ったり。少なくとも、“発見”はある。
上のリンクで串田批判をしている人は、ベケットの同時代的な状況から“正しい”解釈を論じている。それはそれで、ベケットの古典化に荷担する物として批判されなければならないんじゃなかろうか。肯定派の人は串田氏の講演も聴いて忖度しているわけだ。
今日、夏には珍しい綺麗な夕焼けだった。
写真は間に合わなかった。
あれは、しかし、明日、またあるわけではないし、
写真を撮ったからといって、永続的にあるわけでもない。
長くなった。
つづきはまたそのうち。
タイガースの思い出話。
新曲も出してがんばってるよ、と還暦過ぎた森本太郎。
そのあと、セッション2008。(この番組、異様に長いね。70年代からやってないか??)
ジョージ川口の息子のバンドの途中で洗い物終了。
川口雷二というらしいんだけど、確かに父親っぽいというか、ジーン・クルーパやってんのね、という感じ。
この前、上映会の打ち上げで、グランシップのチーフと熊切さんがジャズ談義で盛り上がってたところに強引に割り込んだのを思い出したり。あるいは、アスペクト・イン・ジャズの最終回で油井正一が、クインシー・ジョーンズの、多分"I HEARD THAT!"の中の曲をかけて、もう話すことはない、というようなことを言ったのを思い出したり。
今、検索したら、79年なんだな、最終回。そしてなんと、MUSIC BIRDで“再放送”とか。
油井氏はそんなことして喜ぶんだろうか。たしかにジャズ講座みたいで“ため”になる番組だったし、ある意味普遍的な内容を持っていたかも知れない。そして何より、21世紀に今のジャズが語り得なくなっている以上、あの番組の価値そのものが揺るぎない古典になってしまったということなのか。
でも、なんだかなぁ。
歌舞伎が演劇天覧を経て“伝統芸能”になってしまったように、JAZZも、ROCKも、いつかお洒落な大人が蘊蓄を傾ける音楽に成り下がる。ボサノバは既にそうなってるらしいよ。
80年前後、一番ジャズを聴いてた。
もちろん、“古典”として聴く曲もあった(JATPやMJQのリユニオンコンサートに行ったのはやっぱり自慢だ)し、ビリー・ハーパー、ダラー・ブランド(アブドラ・イブラヒム)はオンタイムで聴いた。それからハービー・ハンコックやクインシー・ジョーンズは、マイルスさえどんどん“クロスオーバー”して行ってた。ソニー・スティットは、チケット買ってあったのに急死してしまった。そう言えば、最初に買ったジャズのレコードはスティットの「ペン・オグ・クインシー」だったか。ん、レッド・ノーヴォのバンドにスコット・ハミルトンが入ってる新譜が先か。ピアノはデイブ・マッケンナ。みんなお洒落だねぇ。
今もきっと面白い動きはあるんだろうけれど、それはジャズなのかなぁ、と思ったり。そんなことにこだわることないんだろうけども。
誰かがコルトレーンやマイルスを完璧にカバーしてみせても意味無いよね。
秋吉敏子は今を生きてるから尊敬される(静岡でライブあるらしいねぇ)。
さっきラジオ聴きながら、そんなことを思った。
そう言えば、最近デビューしたての若い歌手のCDを予約で買った。
ネットでコマーシャルが流れてはまった。
こういう買い方は珍しいんだけど、なかなか良い。
ちょっとヒップホップぽくもあり、モータウンや、フィル・スペクターみたいでもあり。
新しいんだか古いんだか、よくわからん。
でも面白いからよし。
Little Jackie - The World Should Revolve Around Me
こんなコトできるのね、このブログ。
このアルバム、歌詞は危ない物が多いみたいだけど、聞き取れない。
そして、YOUTUBEでこの人のライブ映像を見るとぐだぐだ。ひどい。
ただのアイドルタレントなのかなぁ……。
ちょっと前に書きかけたことだけれど、佐藤さん@伽藍博物堂の「ゴドーを待ちながら」を観た。
この作品は、最初本だけ読んで、イメージわかず、緒方拳・串田和美で舞台を観たんだけれど、もう“不条理”って何? という感じで、“違和感”はない。
今となってはやっぱりこれも“古典”になってしまったのかなぁと思ったり。
んで、これもさっき検索してみたら、串田演出に対してかなり批判的な意見を展開してる人もいる。曰わく、「串田演出はかなり特殊なものですが、それがあたかも現代日本のゴドーを代表するかのような空気が作り上げられていったのです。「それはちょっとまずいだろう?」と思ったわけです。」なんだそうな。
こまったな。念のため、肯定的な考察もリンクしておこう。
佐藤さん達のは、挨拶文にあるように、長いこと連れ添った老夫婦の話、らしい。
そう言われてしまうと、すべての台詞が、そのように書かれているように思えてしまうから本当に不思議だ。コミュニケーション不全、そして平凡な人生の繰り返し。
これがスタンダードになったらまずいな、と思いつつ、でもこの解釈が案外当たってるんじゃないかと思ったり。少なくとも、“発見”はある。
上のリンクで串田批判をしている人は、ベケットの同時代的な状況から“正しい”解釈を論じている。それはそれで、ベケットの古典化に荷担する物として批判されなければならないんじゃなかろうか。肯定派の人は串田氏の講演も聴いて忖度しているわけだ。
今日、夏には珍しい綺麗な夕焼けだった。
写真は間に合わなかった。
あれは、しかし、明日、またあるわけではないし、
写真を撮ったからといって、永続的にあるわけでもない。
長くなった。
つづきはまたそのうち。
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