昨日は久々に大泣きしてしまった。
iPhoneから届いた写真のストーリーを見て。
先月まで何度か届いていたストーリーは「お出かけ」の題で、
2023.3.29コタロウと行った運河公園のものだった。
一緒に遠出(ってほどでもない)した唯一のお出かけだった。
だから、お出かけの題ではそれしか届かない。
昨日届いたストーリーは「ペットのお友達」
2022年のコタロウ、2023年、2021年のコタロウが届いた。
ボールを転がしておやつを食べているコタロウ
私の横におすわりしてお芋を待っているコタロウ・・・
スマホを通して私が見ていたコタロウはどれもやっぱり可愛くて
わぁ!可愛い とあの頃のように声を上げている自分がいた。
そしてコタロウが私のことをちゃんと見てくれていた、と知った。
コタロウはあまり感情表現が豊かな子ではなかったから
一緒にいる時から、私のこと好きなのかなぁって自信がなかった。
でも、私のことを真っすぐ見つめるコタロウの顔を見たら
ちょっとは好きだったよね、きっと(たぶん・・・) と思えた。
2024年のコタロウも届いたが、これはつらくて見られなかった。
可愛かったなぁコタちゃん そう思いながら、そろそろ寝ようと思ったら
急に涙が出てきた。
気を抜いていたからかな、心の奥底にしまいこんでいた想いがわっと溢れてきた。
それは後悔だ。
コタロウを迎えた当時、フルタイムで、しかも結構ハードに働いていた私。
コタロウは赤ちゃんの頃からずっとお留守番っ子だった。
その頃の私は仕事もコタロウのことも遊びも全方位がんばる、
がんばれると思っていた。
でも、そんなのは無理で、コタロウには本当にさびしい思いをさせてしまった。
大地震の時も、雷雨の時も、消防点検で警報が何度も鳴る時もコタロウはひとりだった。
一緒にいられるのは一日の少しの時間。夜は私が疲れていて、遊びながらラグで寝落ちる毎日。
いくら睡眠時間を削ったところでコタロウには全然足りていないのはわかっていた。
誰かと遊びに出かけてもコタロウのことが心配で、でも帰りたいと言えない自分に腹を立て、
何をしていても時間を気にしている自分がいた。
コタロウの病気がわかった時、ああ、これは私のせいだ、と思った。
それまでにもコタロウが体調を崩した時、雨ふりでお散歩させてあげられない時・・・
コタロウとの生活を続けていく中で、私の心の中にはコタロウへしてあげたくて
してあげられないあれこれのやるせない気持ちが澱のようにたまっていた。
赤ちゃんの頃から今のように一緒に過ごせていたら
成長期にもっといっぱいお日様の下を駆け回れる生活だったら
にぎやかな家族の家の子になっていたら
コタロウの一生はもっと豊かなものになったのではないか
もっと足腰の強い子に育てられたのではないか
そして、コタロウは病気にならなかったのではないか。
その思いはいつも、ずっと私の中にあった。
過ぎたことを後悔しても仕方ない。
これから先、後悔しないようにやっていくしかない。
そう思って心の奥にしまった想い。
退職してからのコタロウとの暮らしは、コタロウへの償いであり
私自身への癒しの時間でもあった。
この6年半のおかげで私が救われていたのだった。
でも、コタロウの後半の生活では私の後悔が少ないから、
いっそう、その前の生活の後悔が際立って私を苦しめる。
この後悔はきっとどうやっても無くせるものでも忘れられるものでもない。
コタロウは多くを求める子ではなかったから
ただ一緒にいるだけでよかったのに、そんな簡単なことができなかった。
簡単なのに、私には一番難しいことだった。
コタロウは許してくれるだろうか。忘れてくれるだろうか。
忘れて・・・私のことも忘れてしまっただろうか。
コタロウにかける言葉が
ありがとう より ごめんね が多くなってしまう
許してね とも 忘れないでね とも言ってはいけない気がする
それでも、
ママのことを覚えていてくれますように
ママがお空に行く時はまたきっと会えますように
ずっと一緒にいられますように と祈ってしまう私がいる。
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