友人に誘っていただき、
「竹下景子の朗読と音楽で綴る
星野富弘 詩画の世界」
という企画に行ってきました。
女優の竹下景子さんが
筧知佳子さんという
音楽家であり、
この企画のプロデューサーでもある方と
知り合って、
実現している企画とか。
2008年からは小児がんの子どもや
その家族のためのチャリティ公演として、
続いているものだそうです。
今回は、そんな趣旨の中に、
「被災した方の直面している苦しみや悩みに
ひととき心を寄せる機会を持つ」
という意味も込めての開催でした。
スタッフの皆さんが、
星野さんを訪ねて、
星野さんと語らっていらっしゃる映像も
流れていましたが、
スタッフの皆さんの温かさと
プロフェッショナルさを感じる舞台でした。
同時に、
ここには来れない星野さんも一緒に、
作っているのだということを
肌で感じる舞台でした。
さて、
星野さんの詩と画。
ずっと昔に何冊かの本を持っていましたし、
群馬県の美術館にお邪魔したこともあります。
でも、ここしばらくは、忘れていました。
今回、久しぶりにその世界を味わってみると、
悲しみや絶望という、どん底を経験したからこそ
生まれている純粋な言葉の数々なのだ、
「今、ここ」にいるからこそ
描けている画の数々なのだ、
ということを、
改めて感じました。
私たちは、「今、ここ」を
なかなか味わうことができません。
いつも、過去を悔やんだり、
未来を心配したりします。
今やっていることを味わうことなく、
それが成し遂げられたときだけを見ていたりします。
もちろん、星野さんにも
そんな時間が沢山沢山あったことでしょう。
あのとき、ケガをしていなければ……
将来、身体が動くようになれば……
そんな思いがなかったはずはありません。
けれど、やがて、
名実ともに、
「今、ここ」にしかいられないという
変え難い、どうしようもない事実を
受け容れざるを得ないことを知り、
長い時間をかけて
受け容れていかれたのではないか、
そう思います。
それは、まるで、
長い長い時間、
心が水の流れの中で洗われ続けたかのような
時間であったろうと想像します。
そうやって、洗われ、磨かれたことばたち。
そのことばが、とても真実に聞こえるのは、
それが語るものが、
きれいごとではないからだと思います。
次々に浮かんでくる自分の想念を見ていると、
そこには、
醜いものも沢山あるはず。
でも、星野さんは、
それが自分なんだと受け容れているのだと思います。
長い長い時間は、
それを受け容れるための時間だったのではないでしょうか。
そして、
自然そのものである花たちが、
星野さんのその心の熟成を
手伝ってくれたのではないでしょうか。
だからこそ、
そこから生まれることばと画には、
真実の力と響きがあり、
すべてを受け容れる優しさがあり、
見る人に
「そのままでいいんだよ」
そう語りかけるのだと思います。
冬があり 夏があり
昼と 夜が あり
晴れた日と
雨の日があって
ひとつの花が
咲くように
悲しみも
苦しみもあって
私が 私になってゆく
(星野富弘)
最新の画像[もっと見る]
- 片付けも選択肢を少なく 8ヶ月前
- 「片付け」は筋トレと同じ 8ヶ月前
- 老人と子どもと自立ということ 10ヶ月前
- ご無沙汰しています 10ヶ月前
- モノには気持ちが乗っていく 4年前
- モノには気持ちが乗っていく 4年前
- モノには気持ちが乗っていく 4年前
- モノには気持ちが乗っていく 4年前
- 私の「コロナ疲れ」対処法 5年前
- 手段が目的になっていませんか? 5年前