アメリカに行っていた三男が、
3週間の日程を終え、無事に帰国しました。
この間、3つのホストファミリーと
2つの学校にお世話になりました。
ニューヨーク、ワシントンDC、
ボストン、フィラデルフィアという都市を見て、
また、田舎町も見て、
ハーバードやMITや、
ボストン美術館も見て……
本当に、盛り沢山の、
有り難いプログラムだったようです。
(ああ、うらやましい!)
三男は、沢山のものを吸収したようですが、
今朝、朝食を食べながら話してくれたことから、
私自身も改めて考えたことがありました。
それは「選択する」「自己責任」ということ。
アメリカではホストマザーに
「今夜は何を食べたい?」と聞かれ、
「作ってもらえるものなら、何でも」と答えると、
「では、パスタ? ◎△? $&?」
と、選択肢を上げて、
最後に何かに決定するまで聞かれたと言います。
これは、西欧と日本の文化の違いを論じるときに、
よく引き合いに出されるタイプの話ですが、
もちろん、日本でもよくある会話だと思います。
私自身も、そうやって、
本人の思いや意志、選択や決定を問いつつ
子育てをしてきたとは思いますが、
やはり結構甘かったと思っています。
すべてを相手に決定させるのではなく、
途中で、
「そっか・・・。こんな感じを望むんだろうな」
と、なんとなく感じ取って、
なんとなくこちらで決める、
そんなことを、していたと思うのです。
そんなことを考えていたら、また、色々思いました。
社会人の方々をコーチングさせていただいても
思うのですが、
(そして、自分自身を振り返っても思うのですが)
「この人はこう思うに違いないから、こうしよう」とか、
「きっと、こうするとああなるから、こうして・・・」と
自分一人で慮って「妄想」して、
苦しんだり、悩んだりしている人の
なんと多いことか。
「それ、言ってみましたか?」
「聞いてみましたか?」
「それは、ほんとにそうなんですか?」
と聞いてみると、
[いやあ、そういえば、言ってない。聞いてない」
とのこと。
「じゃあ、実際にコミュニケーションをとってみては?」
と提案すると、
実際にそれをされた方は、
ほとんどの場合、
案ずるより産むが易しで、
自分が考えていたような問題はなかった、
とおっしゃいます。
つまり、日本人の多くは
(と言い切れるかどうかわかりませんが)、
察するとか慮(おもんばか)るという文化を持つが故に、
相手に決断してもらってしかるべきところも、
こちらで引き受けて決めている、
ということが多いのではないか、と思います。
ある意味、
無駄なエネルギーを使っていることにもなります。
そして、そうしてもらうことに馴れているが故に、
自分で選択して自分で決めて
そして自分で責任をとる、
ということが弱いのかもしれない。
その点、最後の最後まで、
選択と決断を繰り返し問われる文化で育つと、
自分で選ぶ感覚が磨かれるのかもしれない、
と感じました。
もっとも、
察することや慮ることは、
日本人のすばらしい、愛すべき文化だと思います。
相手を慮ることは続けつつ、
自分に対しては
「言わなくてもわかるだろう」を前提にはせず、
きちんとコミュニケーションしていく。
そんなことができるようになると、
日本人はますます魅力的になるのではないか、
そう思います。
あるいは
もしかすると、「慮る」ことを
さらに進める、ということかもしれません。
「慮る」2.0。
それは、
まず、自分で考えても仕方のないことは考えない。
そして、考えるのであれば、
自分で勝手に、自分の解釈で慮るのではなく、
もっと広い視点から相手を慮る。
なぜ、この人はこういうふうに考えるのだろう?
とか、
この人にこれを言わせるものは何だろう?
とか、
そこまでをもっと大所高所から慮って、
その上で、
「ならば、言おう」ということも
「だから、言わない」ということも
自在に選べるようにする。
そんなことができると、
日本人は(私も!)もっとステキになる。
世界に理解されるのではないか。
そんなふうに思いました。