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失われた安全・安心の米作り  

 原発事故は、多くの人々、多くの家族の人生を、日々の営みを台無しにしました。
 わたくしは今、「30キロで線を引いて、賠償差別は納得できない」と、同じ思いの仲間の裁判に参加しています。
 いかは、原告として福島地裁で意見陳述した原稿です。
 ご一読いただければ幸いです。

一、私は、南相馬市鹿島区で、水稲中心の農業を営んでいます。農薬による環境汚染のない農業を目指し、震災前の13年間にわたり、アイガモを利用した水田の除草を行い、無農薬のコメ作りに取り組んで来ました。試行錯誤を繰り返し、少ない労力で規模を拡大することを可能とする技術の開発、味のよい米と鴨肉つくる技術を確立してきました。
 簡単な柵でアイガモを逃がさない技術、犬やカラスからアイガモを守る技術、そしておいしい米と鴨肉を仕上げる技術、本を一冊書けるくらいのノウハウを蓄積してきました。
 東京の米屋さんや消費者から、郡さんのコメは安心安全だけでなく、味もよいと評判で毎年6~7月には完売となり、年々取引が増え、アイガモ除草の水田は震災前は2.7ヘクタールの規模になっていました。
 この面積は全国でもトップクラスと自負しておりました。

 震災の年、2011年3月はじめに、次男夫婦との間で、今後、一緒に協力して農業をやっていくために、農業経営についての家族協定を結びました。
 アイガモ除草米の販売を柱に、規模を拡大する計画を立て、認定農家として農業委員会の認証を得ての家族協定でした。
 今着ている[こおり農場」と刺繍のある作業服は、その頃次男の妻から送られた作業服で、私にとって宝です。
 次男の妻は、アイガモの肉の味を活かした農家レストラン開設の夢を持って、調理師の免許を取得すべく、2011年3月から学校給食の調理人として働き始めていました。
 次男の妻は、災害と原発事故の後に妊娠していることが分かり、幼い子どもを含む一家5人で、岡山まで急遽避難し、現在もそのままです。学校でのいじめなどの苦労もあったようです。
 それでも「もう一度米を作ってみよう」という思いで、次男一家は、今月末に戻って来ることになりますが、風評被害などの影響は先が見えにくく、「コメ作って暮らせるんだろうか」という不安が膨らんでいます。

 アイガモ除草米は、原発事故の直後から、売れなくなりました、原発事故が起きる前に生産された米で、保冷庫の中で保管されていて放射能はかぶっていませんでしたが、怖がられたのです。
 「無農薬で安全」「健康に育て、病気にならない栽培で味のよいコメ」が私の自慢でした。「魚沼産など、各地の米を食べてきたが、郡さんのコメが最高」といってくれていた横浜の方からの申し訳なさそうな断りの電話が忘れられません。 
 たとえコメが輸入自由化になっても、10年以上無農薬の田んぼとアイガモを毎年見に来てくれるお客さんがいる限り、こおり農場の規模拡大と、6次産業化の夢は前途洋々でした。
 コメばかりではありません。化学肥料に頼らない、循環型農業を目ざし、畦畔や原野の雑草で繁殖牛を飼っていましたが、5年たった今でも、青々と茂る自然界の草を牛にやることを禁じられています。輸入の牧草に賠償金が出ますが、量がたりなく、品質も悪く、牛の体調管理が大変です。また、草刈が出来なくなったことで、一時期、自分の体調も悪化しました。
 5年たっても、山菜や野草も採取禁止です。川は釣りなどが禁止され、海は限られた魚種のみを釣ることができるだけです。今月初めに配られた市の広報でも、ふきのとう、わらび、ゼンマイ、タケノコ等々の出荷制限中の記事が掲載されています。
 いまでも、原発事故前の豊かな自然の恩恵を受けていた元の生活に戻ることができていません。このような原発事故の影響は、いつ終わるのか見通しがつきません。
 代々引き継がれてきた郡家の農業は今、全く先が見えない状態です。過酷な労働の血と汗の結晶ともいえるアイガモ栽培の省力規模拡大技術は、力を失いました。郡家30数代、永年培ってきた有機質たっぷりの農地と恵まれた環境は、原発事故で輝きを失いました。

 私は戦争で父を失い、平和と民主主義を守る立場で地方議員となり、農業にも心血を注いできました。輸入自由化などの嵐が来ようとも耐えうる希望ある農業を確立し、引き継ごうとしたその瞬間に、原発事故のよってその術を奪われてしまったのです。
 原発事故さえなかったら、津波による災害を克服し、広がる青田でアイガモが草や虫を捕る姿を見ることが出来たはずです。
 安心安全な味のよいコメを消費者に届けることが出来て、永年の夢の「環境に優しい農業」を周りにも広げる事が出来たかもしれません。

 私の母は、国家による戦争で夫を失い、私が就農するまで、女手ひとつで家業を守り抜いた母ですが、原発事故による避難中に疲れがたまり、誤嚥性肺炎で入院、死亡しました。99才7ヶ月でした。
 自宅からの旅立ちを希望していた願いはかなわず、70キロ離れた地で焼かれて、骨のみが帰宅しました。
 100才のお祝いまであと5ヶ月間、家族と親戚の期待も絶たれました。死亡診断書には、死亡原因について「震災による避難生活」と書かれています。

 安全な食料生産の為の農地、緑豊かで四季折々の恵みを与えてくれる野山は、農村で生きる人々のかけがいのない財産でした。原発事故によってそれらを失った事で、私と家族の人生は一変し、今尚先が見えません。
 失われた全ての損害について、政府と東電に賠償していただきたいと思います。
 今回求めている賠償内容は、そのごく一部分について、せめてこれだけはと考え、集団でまとまった最小限の請求であることを是非ご理解いただきたいと思います。


二、次に、住民差別の問題です。私の住む鹿島区は、約4分の3の地域が30キロ圏外となっております。同じ南相馬市民でありながら、30キロ圏内の地域と差別されており、精神的慰謝料が、交通事故の3分の1以下の、月10万円で7ヶ月のみ、というのはとうてい納得できません。
  市長の指示で避難し、山菜採りやつりが出来ない現状は、30キロ圏内の地域と一緒なのに、国民健康保険料の負担や医療費の減免、高速道路の無料化等々、30キロの線引きによる差別に、合理的理由は見当たりません。先ほど紹介した市の広報には、「いずれも市内全域が対象」と注意書きがあります。
 私は、原発事故の次の年から2年間、鹿島区の行政区長会長として、区民の要望に応え、7800名余の署名を集め、市長も同伴で、首相官邸と東電本社に出向き、副官房長官などに差別解消・改善を求める要望書を渡してきました。
 東電からは、要望に対する答えを鹿島区の区長全員の前で説明していただきました。
 賠償期間が、単純に距離で引かれた線引き1本で、7ヶ月と17ヶ月、30キロ圏内の原町区と比べて2倍半もの差がついていることについて、行政区長の皆さんから、「放射線量が、30キロ圏内より高いところが広く有り、数倍の地域もある、何を基準にしているのか?」、「市長の指示で隣同士で一緒に避難し、帰るのもその後の苦労も一緒なのになぜ違うのか?」と質問が相次ぎ、分かりやすく納得できるよう説明してほしいと東電担当者に対して説明を求めたところ、最後は「答えられません」という回答になりました。
 東電担当者は、本社と相談をして答えるということになり、再度説明会を開きました。「本社が政府と相談したところ、変更できないのでご理解いただきたい」の一本槍でした。「ご理解」など出来るはず無く、現在に至っています。

 家屋敷がつながっている隣同士で、2倍半もの差、皆さん理解できますか?
 理解できる方がありましたら、分かりやすく説明したいただきたいと思います。
 代々仲良くしてきた隣組に亀裂が生じ、行政区の運営にも支障が出ている現実があります。
 差別としかいいようありませんが、日本国憲法の下で、理由を説明できない差別があっていいのでしょうか。許せるのでしょうか。
 原因が原発事故とはっきりしているのに、発生している被害について無視されたり、差別されたりしている現状を、裁判官にも、ここにおられる皆さんにもご理解いただけるものと信じます。 
 改めて発生している全ての損害の賠償と、合理的な理由を説明できない差別の解消をお願いして終わります。
以上
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