長い間、一生懸命ありがとう。赦さない、とかと言う意味ではありません。
あれだけ、危険な感じの学校ですから、社会的に、あなたは、あまりに、若さを、強調された年齢ですから、
私も、最初から、緊張感を、持って、見守っていましたが、理解を、超えた空間的な別の場所でのことについては、良くわかりませんでした。
初め、大変まじめに感じましたが、私も、教室の皆、教員の思いと言うものを、精一杯に、善意に、とらえようと必死でした。
ですから、年がいもなく、いろいろ驚きました。
その中で、USAの皆さんからの、そして、UK、ヨーロッパの皆さんからの励ましで、思い切って、結婚の話を出しました。
しかし、あの環境では、そのような問題をも、悲劇的なコメディアンにされた感じです。
たぶん、それが、日本社会の、普通のことなのだろうと思いますが、私の、ヨハネパウロ二世以来の、私の結婚についての相談や勉強は、
そんなに甘くないもので、しかし、強い愛を求められました。今でも「決してあきらめるな」と言われている感じです。
この二年の間に、私は、3人の司祭に話したと思います。
きっと、彼らは、もっと、私を、疑っていて、「暴力的に違いない」と思っていたことと思います。
ですから初めは、亡くなった東京修道院長だけが、長く私を、知っており・・・25年の間いろいろ叱責されながら、
この問題を、考えて、私を良く知っていました。
それで、初めは、H教員が、東京の話で、私に、近づいてきたのです。
長い間彼らの年代は、こちらの地域にいた、亡くなった東京修道院長に異常にお世話になったのです。
甘えを通り越していましたが、プライドの高い「神父」ですから、そのようなことは、小さなことで、どうでも良いことでした。
つまり、私のように、良く話を聞いて、自分の考えを、理解してくれる人を、求めていたわけです。
だから、私は、大変苦労して、ミサの流れや言葉の意味や、それぞれの立場での、ミサ中の動作の意味を、かなり、詳しく知っていて、
司祭か司教にも、なれるかもしれないほどの知識が、ありますが、私たちは、ほとんど英語を、使う環境になかったことと、
亡くなった東京修道院長は、フランス語圏の出身で、フランス語でしか、細やかなことは、話せなかったのです。
それでも、私は、彼の希望で、日本語で、かなり良く聞き取りましたが、それでも、細やかなことを、伝えられないと言って、私に、怒っていました。
郵便局は「真っ向サービス」なんていう、ポスターがあったほどに、日本中心の社会でしたから、
日本語、そして、仏教徒以外は、だんだんに、ほとんど無視されたのが、最近です。
それまでは、新しいこととして、子弟を「ザべりオ学園のようなミッションスクール」に入れることも多少、逸っていましたが、
だんだん、そんなことを、知らない人々が、年齢を重ねて役職についてきたりしていました。先日のJRの件すいませんでした。
さて、急に、私たちのことに入りますが、私側からすれば、あまりにも、会話不足です。
学校では、他の若い男子学生の興味本位の干渉から始まったとは言え、あれでは私の存在はありません。
それでも、経験を考え、きっと、いつか通じると思い準備しながら待っていました。
しかし、これまでの通りに、他者の干渉や、他者からの求婚のようなもの、悪意的な、性的な遊びに走るものばかりが、
まかり通ってしまっていたと言えます。授業のすすめ方の問題も、各教師ありますが。
私自身は、あなたを、かわいくないとか、きれいでないとかと思ったことは、ありません。
環境の問題で、最悪であったから顔に笑顔が、出なかっただけです。
とにかく、今後お会いできるのは、ミサのときだけです。
しかし、ミサには、細かく、様々な意味があって、教えないといけません。私が、あなたを、みかけたからと、席を、はずすのも一つの方法ですが、
一連のミサの流れが、ありますから、初めは多少、退屈でもわかれば結構楽しいものです。・・・信用してもらえればですが。
はっきり言って、信用したほうがいいです。間違いないです。
無理に信者になれとは言いません。とにかく、きたら、私を、見つけて、他人は、干渉しませんが、時が、来るまでは、他の人とも、
楽しく出来ないはずですが、無知だと思われて、軽く見られないようにしながら、私の横に座ってください。
では、長くなりました。このことはもう書きません。ご存知の方も宜しくお伝えください。
私としては、心変わりを、しないように頑張ります。しかし、求職中ですから、ご理解ください。
では、この世界中の皆様の神様の恵みと平安と祝福とが、ありますようお祈り致します。
Pietro Francisco Xavier 澤口 宏行
********************渡辺和子先生の愛と励ましの言葉366日から**********************
3月21日
教育者は「忘れられて喜べる人」でなければならない。
教え子が自分をこえて成長し、教師を忘れるまでに新しい人生にうちこんでいる姿を心から喜び、
祝福する心こそは教育者の心であろう。
美しい人に
***********************転記終わり************************************