あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
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神様が用意される「脱出の道」はかなり奇跡的な方法も。

2013年01月04日 | 聖書から
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
コリント第一の手紙 10章13節


聖書は「文脈で読むことが大切」とよく言われます。
有名な箇所だけ取り出して、その言葉をいろいろな状況に適用していくのも良いですが、
純粋に文脈から、シチュエーションから考えるのも大事ですね。
どうしても聖句だけ取り出して覚えてしまいますよね。


その時代・場所に自分がいて、自分に向けて書かれたと。(自分がコリントの教会員であると。)
どんなことをパウロは言いたかったのか、
例えば10章13節においては、この手紙では何を「困難」としていたのだろうか?
そう思って書簡全体を読むのは新たな発見がありますよ。

どんな困難が語られ、どんな解決があると言われていたのでしょう?
病気?いじめ?仕事がない?家庭内の不和?そのほか??
その解決策は神様が必ず用意してくれると?
でも、それはあくまで現代の私たち、現代の問題への適用なんですね。
(それも正しいことです。)

文脈をつかむと、パウロは第一義的にはそうではなく、「脱出」は言葉通りの脱出です。
「エジプトからの脱出を神様は成してくださったではないか。」ということです。
モーセに率いられたエジプトから脱出の旅においていろいろな困難がありました。
旅では不満を漏らしたくなることばかり、エジプト軍に追われ、食べ物や水の心配が有り。
こんなことなら「エジプトで奴隷をしていたほうが良かった」ということばかり。
これが「困難」でした。


しかし、神様は必要なものを与えて敵を殲滅し、無事に「脱出」させてくださるのです。

それを自分の生活に適用させるのが正しい解釈ではないでしょうか。
単に苦境から人間でも思いつくような方法で脱出させて下さったり、解決策を与えてくださるのではない。
もちろん食べ物のことのような日常的なことの解決もあるでしょう。
でも、出エジプトのエピソードを知っている方は、どんなに奇跡が行われたか知っておられるでしょう。
天候が守られて食物が畑で育った、なんて方法ではなく、天からマナです。

また、命の危険の時には、紅海がわれた時のようにありえないことをして下さってまで、私たちを安全に導いてくださるのです。

何てものすごい方法を取られるのでしょうか。
そんな方法・そんな力を持っておられるお方が味方についているのです。
家族の救い、本当に壁が高く厚いように見えます。
でも、その脱出・解決の道が「自分の力で」、なんて考える方がおかしく思えます。
出エジプトを思い出してみてください。
緊急事態には奇跡的な方法も必ずや神様はとってくださいます。
(神様がやってくださるから自分は何もやらないでおこう、って慢心につながってはいけませんが・・・。)

言いたいことが伝わったら嬉しいです。
ではおやすみなさい。。。



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