安房・上総・下総。
現在の千葉県を構成する旧令制国(りょうせいこく)です。
しかし、安房だけはみ子になっていますね。
令制国の国名は、都(畿内)に近いほうから「上」「前」、遠いほうが「下」「後」になるルールがあります。
「越の国」の場合は、越前・越中・越後になります。
後述する「総」(ふさ)の国も、「上総」「中総」「下総」にどうしてならなかったんでしょうね?
不思議だと思いませんか?
さらに、このルールでいくと、上総のほうが距離的に都(畿内)に近いことになります。
これも長年疑問でしたが、今日はその解答編です。
実は房総半島に最初にあったのは「安房」だったのです。これはまだ8世紀に律令制が布かれ、令制国ができる前の話です。
以下、ウィキペディアより(読みや読点などを補っています)。
『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命(あめのとみのみこと)は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏(いんべうじ)らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し、開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという。また、『古語拾遺』の説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門(あわのみなと)に因むとする説もある。
この忌部氏の始祖である天富命は、橿原神宮も作ったことになっています。古代におけるゼネコン開発一族のようなものでしょうか。
というわけで、伝説上は、房総半島の開発は安房から始まったことになっています。そうしてできたのが、「よき麻の生いたる土地」という意味の捄国/総国(ふさのくに)でした。
この総国(ふさのくに)は、「かみつふさ」(上総)」「しもつふさ」(下総)に分割されます。
そして、上総は「かみふつさ」→「かむづうさ」→「かづさ」、下総は「しもつふさ」→「しもふさ」→「しもうさ」と転じていったわけです。
令制国がスタートした時点では、安房国のエリアは上総国の一部でした。上総風土記、下総風土記のタイトルは伝わっていますが(写本の存在は不明)、安房風土記のタイトルが伝わっていないのは、風土記の編纂の命令が出た713年(和銅6年)の時点で、安房は上総の一部だったからでしょう。
Wikipediaによれば、房総半島では、西国からの移住や開拓は黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となったということです。
熊野から銚子まで、黒潮に乗ると、朝に出て夕方には到着したという話を読んだことがあります。
しかし西国からの移住・開拓が外房側から始まったというのは、無理があるんじゃないかな。
外房、すなわち房総半島の東方海上は、現在でも船の難所です。特に冬季は、強い西風の影響を受ける上に、親潮と黒潮の影響を受けて、船は必ず東に流され、米国の西海岸までまっしぐらです。令制国ができた時点で、天富命が上陸した館山湾は上総国の版図(はんと)でした。伝説どおり、穏やかな内湾の内房側から開発が始まったと考えるのが自然かと思います。
その後、718年(養老2年)、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国なります。742年(天平13年)、安房国は上総国に吸収されますが、757年(天平宝字元年)に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされました。そして明治に至ります。
安房国が分離独立して、吸収されてもまた再独立した歴史には、そこには執念のようなものを感じますね。地元勢力の抵抗があったんでしょうか。何が上総じゃ下総じゃ、わしら、安房が房総開発のルーツじゃ、と。
安房の「房」も、もちろん「ふさ」と読みます。「房総」は、訓読みするなら「ふさふさ」になるわけですね。
常陸国の鹿島神宮、下総国の香取神宮は、藤原氏の始祖である中臣氏と深い関わりを持ちました。常総エリアと中央との古代からの結びつきは、なかなか面白いです。
しかし、房総のルーツの安房は、日蓮を生み、『南総里見八犬伝』の舞台になったことを除けば、歴史から取り残されている感があります。北斎の『富嶽三十六景 上總ノ海路』も、あの位置に三浦半島と富士山が見えるのは、鋸南町から館山にかけてだと思うのですが、江戸っ子に有名なのは木更津だから、「上総沖」にされちゃいました。そういう風にないがしろにされてきた安房ですが、木更津キャッツアイより、氣志團より、結局、館山出身の X Japanのほうがクールなジャパンでグローバルなんでしょ? そういうことです。
江戸幕府開府時点で、里見氏は、後北条氏が滅んで以降、関東で唯一の自立した土着武装勢力でした。結局、足利公方の子孫の足利家や、那須七党(那須七騎)のように、関東で外様大名として生き残るのには、名家枠であることが必至で、一時は房総半島を支配した里見氏は脅威で危険分子だったでしょう。最後の里見家当主・里見忠義は、舅(しゅうと)である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、関ケ原で加増された鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となりました。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易になります。
今回、いろいろ調べて、安房と房総半島を開拓した忌部氏には興味が出ました。圧倒的史料不足なのですが、なにか書けたら面白いなと思いました。
ところで、私が小学生の頃に読んだ実話系ホラーに、館山の内陸部の資産家の家が、何かの祟りで一家全滅するお話があったのですよ。あれ、何かモデルになる話があったんだろうか?と検索すると、こんなサイトに辿り着きました。
館山恐怖倶楽部 臨怪荘 (tateyama-obake.com)
地方再生のモデルケースがとしていいですね! 関東最果ての絶叫スポットかー。
里見八犬伝の怨霊伝説と、廃墟になって残された臨海学校施設をうまく組み合わせていますね。リノベーションした臨海学校施設が惨劇の舞台になるのです。
うん。これは怖いです。
宿泊できるし、BBQもできるようです。いま話題の『ゆるキャン△』劇場版のテーマ「再生」と一緒ですね。
関東方面のみなさん、臨階荘、ぜひ利用してあげてください!
>安房と房総半島を開拓した忌部氏
本当に資料がない部分ですね。是非とも頑張って下さい。資料がない、という点がヒントだろうと思っています。
また忌部氏も決して一枚岩ではなく、「古語拾遺」編纂時すでに、蟠踞した地域により幾つかの系に分かれていたのでは。その一つが「安房」を拠点に生活していたと。
また、黒潮漂流説だけで説明しきれるとは思いません。奈良朝成立頃すでに朝鮮半島や古代中国からやって来て暮らしていた人々がいます。「万葉集」の大供旅人の歌に「濁酒」とあり、古代中国で「濁酒」=「賢人」。例えば、「白酒ヲ以テ賢人ト為シ、清酒ヲ聖人ト為ス」(『魏略』)。
さらに平城宮跡から出土した酒壺を見るともろに古墳時代以降のものが多いようです。八世紀後半に当たるわけですが、今の福岡県、岐阜県、愛知県、岡山県、さらには宮城県など広範囲にわたり、当時に作られた同形態の焼き物が出土していますし。
>実話系ホラー
明治維新以前は幽霊譚や妖怪譚ばかりでした。それが近代以降、にわかにスプラッタ系ホラー全盛期を迎えますよね。戦後経済成長期になると廃墟系ホラー、学校内ホラー、職場の夜勤ホラーと、日常生活のあらゆるシーンでホラーが出てきます。
でも、これって肉体の商品化と同時進行で、人間の肉体が軽視されればされるほど、その逆襲めいた感じで、切り刻まれた肉体とか撲殺された悲惨な肉塊とかという形で流行していませんか?
ホラーの真似をした殺人者ではなく、逆にデジタル化すればするほど肉体を軽視されるばかりの人間の無意識的情念のネガではないかと。
ではでは。
これは奈良朝成立以前の話です。関東でも6世紀に高句麗滅亡後に亡命民が住んだ場所が、今も「高麗山」という地名になって残っています。
忌部氏が何でわざわざ阿波から安房へ渡ったのか?
「開拓」と参考資料のどおりに書いていますが、われわれの立場でいえば侵略・植民です。
上総と下総が当時の地理感覚でもテレコになってしまったのも、上総(安房)から上陸したたというのがヤマトにとって重要な歴史だったということだと思います。そのあたりはこうではないかという考えがありますが、話を拡散しないため、スルーしています。
ホラーの話は興味深いですね。
館山の実話系怪談を思い出したのも、日野日出志がイラストを手がけた銚子電鉄の「まずい棒」を食べたこと、そしてお目にかかった方が舞台と同じ安房の内陸部でフィールドワークされているからです。廃墟の少年自然の家をキャンプ場に再生する『ゆるキャン』に感心されていましたから、この話にも興味を持ってくれるかと思いました。