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トナカイを幻獣だと思い込んでいた、伊藤かな恵さんの話の続き。
先のエントリをアップしてから、インタビューを読んで、頭がよく、気遣いもできる人と知って、もしかしたら、伊藤かな恵さんは、いわゆる「アホの子」を演じているだけではないのかと思ったのですよ。
芸能界も、アニオタ界隈も、ミソジニー(女性蔑視)の強い世界ですからね。「アホの子」を演じていたほうが、安全なのかもしれない、と。つまらない社会ですね。
しかし、ラジオ番組のやりとりを詳しく書いたファンの方のブログを見ると、どうやら「天然」「本物」のようで、うれしくなってしまいました。
かな恵語録。
「トナカイと鹿の違いって、何ですか。空を飛べることですか?」
なんてかわいらしく、楽しく、愛すべき人なのでしょう。
しかし、みなさんも、トナカイと鹿の違いを説明できますか?
私は両者の違いがどこにあるのか、知りませんでした。
いろいろ調べていくうちに、北米のカリブーが「トナカイ」を意味するカナダフランス語だと知りました。『ゆるキャン△』のイヌ子ちゃんが大好きなカリブーくんは、トナカイだったんですね。私はそんなことも知りませんでした……と、書きましたが、おまえ、荒俣組三次組織の末端として世界の動物図鑑やカナディアンロッキーのガイドブックの編集を手伝い、つくったゲームにはカリブーをモデルにした幻獣も登場したではないか、と、あとで思い出しました。人間の記憶って、いい加減なものですね。
しかしトナカイと鹿の違いが、どこにあるのか、正確に認識していなかったわけですから、かな恵さんを笑うことはできません。両者の違いは、トナカイはシカ科で唯一、オスもメスも角が生えるところだそうです。ただし、オスは春に角が生え秋から冬にかけて抜け落ち、メスは冬に角が生え春から夏にかけて角が抜け落ちます。だからサンタクロースのトナカイはメスなんだそうですよ。おもしろいと思いませんか?(れんちゃんの口ぐせ)
かな恵さんのおかげで、自分の「知っているつもり」をアップデートすることができました。
幸か不幸か、私は、社会党シンパだった母親が「サンタはデパートの神様なんさ。びんぼう人の子には関係ないのさ」と資本主義社会の真実(!)を告げる人であったので、サンタの夢に惑わされることはなく、図鑑も大好きだったので、トナカイが実在する動物であることは知っていました。「不幸か」というのは、トナカイもサンタと同様に空想上の産物だと思っていたほうが、幸せで楽しい人生だったと思うからです。
しかし幼児期の理解力ですから、リアルもファンタジーもないまぜです(愛読した恐竜図鑑には、ダーウィンの進化論もガメラも出てきたものでした)。トナカイのイメージは、今に至るも、何度も読み返したアンデルセンの『雪の女王』に尽きます。雪の女王に連れ去られたカイを探しに冒険の旅に出たゲルダは、山賊の娘が用立ててくれたトナカイに乗って雪の女王のお城にたどり着くのでしたね。
『アナと雪の女王』にトナカイとともに生きてきたサーミ人をモデルにしたキャラクターが出てきました。アンデルセンの「山賊」は、実はこのサーミ人をモデルにしたものではなかったでしょうか。そこにロマ(いわゆるジプシー)に対するのと似た、差別や偏見はなかったか。
『サーミの血』(2016年作品。日本公開2017年)という、少数民族差別が当たり前だった時代のサーミ人の少女を主人公にした作品を観に行ったのも、「山賊」に貶められてしまったサーミ人のほんとうの姿や暮らしについて知りたいと思ったからでした。
トナカイは実在するのか。
詩人の吉本隆明の最後の著書となったインタビュー本『フランシス子へ』の最終章は、最晩年の吉本隆明が、ホトトギスの実在を疑っていたことが語られます。ラストで、編集者たちがホトトギスの鳴き声を吉本に聞かせ、「すごいなあ。いやあ、はじめてだなあ。はじめて『いる』という感じを与えられた」と吉本が大喜びし、「さあ、みんな呼んで。みんな呼んで」と家族を集め、みんなにホトトギスの鳴き声を聞かせるところで本書は終わっています。
このエピソードは、「常識」「前提」を疑い続けた吉本の徹底性をうかがわせると同時に、化学者でもあった吉本が、専門外のことには無知で愚鈍で非常識な人だったことを示すエピソードです。おからの原料をコメと思い込んでいたとか、鍋料理では、火の通りやすい食材も通りにくい食材も「まとめてザーッ」だったという逸話も伝えられています。吉本は元祖イクメンで、ツッカケに買い物かごで夕飯の食材を買う姿がよく知られますが、その料理の腕は超適当なものだったでしょう。
私は吉本を詩人としては高く評価してきましたが、思想家・批評家としては、あまり評価してきませんでした。このブログにも、4年前、大病をしたのに機に、人生の棚卸しの意味で、吉本批判のエントリをあげています。
しかし、「知」ならざるもの、「非知」を繰り込めない思想や運動は退廃するという吉本思想は、私の根幹になってきました。労働者は、カネ、おねーちゃん、クルマとパチスロと焼肉にしか興味のない顔をしているけれど、それだけじゃないのですよ?
『文学少女 五十鈴れんの冒険』ヴェルレーヌ編には、いわゆる中二病の御園かりんが、ある理由で、ランボーとヴェルレーヌ、またある手塚治虫作品に興味を持って、れんの父親の蔵書を借りに訪ねてくるところから始まります。
その頃、れんの父親は、フランス文学の超権威の先生に向かって、高名なヴェルレーヌの『秋の歌』について、「僭越ながら、上田敏から金子光晴まで『monotone』(モノトヌ/モノトーン)の訳は、グラフィックアーツの観点からすれば、すべて誤訳です」と、暴言を吐いて、自らオリジナル訳に取り組んでいる最中でした。
「ヴィオロン」を「ギロチン」と勘違いし、原詩の Les sanglots (レ・サングロ すすり泣き)を「レ・ガングロ」と聴き間違え、「ラン×ヴェル」(ランボー×ヴェルレーヌのカップリング)という謎ワードを口にする中二病全開のかりんは、れんをハラハラ・ドキドキさせる一方で、かつてシュルレアリスムを信奉したれんの父親はその間違いを面白がり、新たなヴェルレーヌ像を広げていき、意気投合して、漫画を描くのが大好きかりんのために、ランボーとヴェルレーヌが活躍する「文豪ストレイキャッツ」という新作漫画のプランを披露するのです。
私は「アホの子」が大好きなんです。
このブログの「幻の大坂幕府構想」という記事も、元は、大坂城を信長が死んだ場所と勘違いしていた「アホの子」との対話を通じて生まれたものです。
大阪城は秀吉が築城したということになっていますが、現存する大坂城は徳川期の遺構です(天守閣は昭和の再建)。豊臣大坂城は廃却され現存しません。石垣も全部埋め立てられ、その上に今の城が建っているのです。いまの大阪城が、秀吉とは関係なく、徳川期の遺構だなんて、大阪人の大半は知らないでしょうね。
このブログは、「常識」を既知のものとして受け入れない、伊藤かな恵さんのような人に楽しんでもらえるようなコンテンツの提供をめざしたいと思います(でもそれは、希少価値すぎる?)。
そして若い頃の父親は社会党のシンパであらゆる信仰やオカルトを否定していました(信仰を拒否してるのは今もみたいです)。
ゲルダにトナカイを用立ててくれたのが「山賊」なのはサーミの人への蔑視が背景に?という説は、確かに現実感ありますね。
常識や先入観、偏見や固定観念から完全に解放された人というのは、私自身含めまだ一人も出会ったことがないです。でもそこからできる限り自由になりたいという思いは個人的に強いですし、私のブログの一番大きなテーマでもあります。
トナカイといえばサンタでなく、『雪の女王』という説に賛同してくださる方がいて、うれしいです。
しかし映画『サーミの血』の、バレエの授業のシーンは残酷でした。
サーミ人の主人公は、われわれアジア人と同じずんぐりむっくり体型ですが、他の生徒はスラリとしたブロンド美少女ばかりなのです。
『絢爛たるグランドセーヌ』を愛読してきましたが、今でもヨーロッパ人と非ヨーロッパ人間の差別はあるようですね。
カリブー(カリブ)は某自動車メーカーで製造されていたワゴンの名称だったのでそれは知っていましたけど。