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ドールと少女 澁澤龍彦『少女コレクション序説』とその時代

2023年12月07日 | 作家論・文学論
フランスの懐メロアイドルソングを引用したり、源氏物語を引用したり、少女=人形論批判の続きです。前振りが長く続いてしまいました。


◆少女コレクションとその時代

何年か前、仕事のお付き合いで、『文豪ストレイドッグス』劇場版を観に行きました(いろいろな付き合いがあるのです)。

映画の内容についてはとやかく申しません。ただ、澁澤龍彦が芥川、太宰、ドストエフスキーと同格のラスボスなのには、「ふむ?」でした。

澁澤龍彦の再評価の動きでもあるのでしょうか。澁澤を卒論に取り上げたという若者にも出会いました。

「澁澤龍彦は、もう学術的研究の対象なんだ」と感心したものですが、若者さんいわく、まだ文学的な評価は定まっておらず、かなりイレギュラーだったようです。

私も澁澤龍彦は一時期好きでよく読んでいました。

絵本作家・グラフィックデザイナーの堀内誠一に関連して、こんな思いでを書いています。

小学生のころに読んだ澁澤訳『シャルル・ペロー童話集』が、70年代前半の『an・an』に連載されたものだったことを知って、また驚きを新たにした。
 
小学4年生だった私は、名古屋の郊外の図書館で、この本を見つけた。片山健の妖しく残酷でエロティックな装画に惹かれたのはいうまでもない。私は本書の訳者解説で、「ロリータ」「エロティシズム」「少年愛」「カニバリズム」「クリトリス」「フロイト」などのことばを覚えた。


マルクス主義フェミニズムの立場に立って、『源氏物語』を論じ企業中心社会を批判してきた私と、永井荷風や谷崎潤一郎や宇能鴻一郎を高く評価する私が、同じ人格の中に共存しています。

革命家(!)にあるまじきプチブル的退廃かもしれませんが、私はそのどちらも否定しないで生きて来ました。マルクス主義に接近したのも、フランス象徴派やシュルレアリスムとの出会いがあったからで、サドやバタイユを訳した澁澤龍彦は、その入り口周辺にいた、ある意味恩義(!)ある人です。

初めて読んだ澁澤龍彦は、『シャルル・ペロー童話集』でしたが、その次はなんだったろう? 『黒魔術の手帖』? 『秘密結社の手帖』? 

もしかしたら、『少女コレクション序説』かもしれません。




表紙画は、四谷シモンの球体関節人形です。

等身大の球体関節人形の元祖、ハンス・ベルメールは、ナチスに対するプロテストとして等身大の関節人形を発表したのですね。人体を変形させた形態と型破りなフォルムを通して、当時ドイツで盛んだった「健全で優生なるアーリア民族」を象徴する行き過ぎた健康志向を批判したのだそうです。

澁澤龍彦からは、そうした関節人形のアクチュアルな面は伝わってきません。

『少女コレクション序説』は本棚奥深くにしまい込み(処分している可能性もあります)、見つかりません。

ある時期からこの本に見向きもしなくなったのは、この本がミソジニーの産物だと気づいたからでした。

以下、Amazonレビューからの孫引きになりますが、引用します。

「なにも私たちが剥製師の真似をして、少女の体内に綿をつめ、眼窩にガラスの目玉をはめこまなくても、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体[オブジェ]であるという点を強調したかったのである」(p11)。

女から一切の人格や主体性を剥ぎ取り男の観念の標本箱に少女のまま永遠に閉じ込めておこうとする暴力的な欲望は、まさにミソジニーそのものであるし、さらにそうした欲望を、自分の人格や主体性が無化されてしまうかもしれないという恐怖など微塵も感じないでいられる特権的な位置から、やれ文学だの芸術だのと衒学的な御託を並べながら仲間内の読者や文学者連に語るとき、それは男性性からくる自己の欲望をホモソーシャルな関係性の中で正当化しようとしているようにも見える。


◆PEACH-PIT『ローゼンメイデン』というカウンター
この『少女コレクション序説』に、この本をリアルタイムで読んだ少女当該からなされたアンサーあるいはカウンターが、PEACH-PIT『ローゼンメイデン』だったと思います。

『ローゼンメイデン』は幻冬舎「月刊コミックバーズ」で2002に連載を開始し、その後、集英社「週刊ヤングジャンプ」に移行し、連載完結しました。

主人公のひきこもりの中学生・桜田ジュンを「下僕」とする第五ドールの「真紅」を含めた七体のドール「ローゼンメイデン」シリーズたちの目的は、アリスゲームと呼ばれるバトルロイヤルに勝ち残り、究極の少女「アリス」となることです。アリスとなり、彼女らドールズの製作者であるローゼン、通称「お父様」の愛を手に入れることが彼女らに課されたバトルロイヤルの勝利の報酬なのです。

『ローゼンメイデン』は、澁澤が紹介した四谷シモンやハンス・ベルメールの球体関節人形の世界から多くを受け取りながら、その乗り越えをめざした作品ではなかったでしょうか。

不思議な力を持つ7体のアンティークドールが争う「アリスゲーム」は、どのドールも「至高の存在」でないから、「娘たち」に争わせて決めようという「父」のドメスティック・バイオレンスと評するしかない動機でした。

私も『ローゼンメイデン』を最後まできちんと追えたとはいえないのですが、ラストは、ドールたちが「父親」の支配から解放され、自由を勝ち取る結末だったと記憶します。



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