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さらぎ徳二とその時代(2) ブントと千葉正健との出会いまで

2021年05月06日 | 革命のディスクール・断章
再び、『さらぎ徳二著作集』のプロフィールより。

〈1962年社会主義青年運動参画を経て、1966年の共産主義者同盟再建の際に政治局員。〉

ところで、1960年代の終わりに「スパルタクス・ブント」という名のバンドがあったのをご存知だろうか。PANTAとTOSHIが頭脳警察を結成する前に属していたバンドである。

「バンドを一緒にやろう」とPANTAを誘ったのが、千葉正健氏(1940-2011)である。千葉がキーボードで、PANTAがベースを弾きながら唄い、TOSHIがドラムというオルガン・トリオだった。千葉が中央大学で社学同に属した左翼活動家だったことを「ブント」も「白」も知らないノンポリだったPANTAは知らなかった。当然、「スパルタクス」がローザ・ルクセンブルクの「スパルタクス団」から来ていたであろうことも知らなかっただろう。元左翼のミュージシャンは多数いるが、現役でグループサウンズをやっていたのは千葉くらいではないだろうか。

◆結成50周年を見据えた“中継地点”に立つ時代の叛逆児
https://rooftop.cc/interview/180904122004.php?page=2

PANTAとTOSHIが組むきっかけを作った千葉氏は、ある意味「頭脳警察」の産みの親といえるかもしれない。

同時に千葉氏は、社会主義青年運動のリーダーとして、第二次ブント再建の功労者でもあった。青年労働者を率いた千葉青年との出会いが、第一次ブントと個人として共闘していたさらぎさんが第二次ブント再建に乗り出す直接のきっかけになる。

◆千葉正健さんを偲ぶ会を行います(ちきゅう座)

http://chikyuza.net/archives/14218

千葉氏は第二次ブントに加わることなく、さらぎさんと袂を分かつことになる。そして、1972年2月15日、建築用火薬式鋲打機(びょううちき)をベースにした改造銃による警察官拳銃奪取闘争に単身決起し、獄中8年。さらぎさんの死後『さらぎ徳二著作集』の編集主幹を務めた。著作集の刊行が途中でストップしてしまったのは、千葉の逝去によるものか。著作集編集委員会のブログも千葉さんお別れ会の告知を最後に更新が止まっている。

ここで時間を遡り、さらぎさんと第一次ブントとの出会いまでを追ってみたい。

1956年2月のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判は、日共の人々には青天の霹靂だっただろう。立花隆氏の言葉を借りれば、昭和天皇は神から人間に変わっただけだが、スターリンは神から悪魔になったのだ。

しかしスターリン批判を冷静に受け止めた人たちもいた。『ブント私史』の島成郎は、「国際権威主義」こそ最大の誤りであり、フルシチョフ主義も批判の対象であり、表層の塗り替えで登場してきた革共同の「スマートな反スターリン主義」に対する嫌悪を振り返っている。

さらぎさんも、スターリン批判を「やっばり」と醒めた思いで受け止めた一人だった。
スターリンによるブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、そしてトロツキー派の粛清・弾圧・処刑の事実を隠し通すのは無理に決まっていた。日本の敗戦過程で中国東北部でソ連軍が行った掠奪・強姦・殺人などの暴虐はソ連への期待と幻想を叩き潰した。さらぎさんの身内にもソ連軍の暴虐により亡くなった人がいる。そしてジイドの『ソヴィエト旅行記』もすでに読んでいた。

1936年に発表され西欧の知識人に衝撃を与えた本書は、日本でもすぐ邦訳が出て岩波文庫に収録され、1940年の絶版まで広く読まれたという。さらぎさんが読んだのは戦後1952年に版を改めた新潮文庫版だろう。現在はKindleで読むことができる。

〈しかるに、今日、ソヴェトで強要されてゐるものは、服従の精神であり、順應主義(コンフォルミズム)である。したがって現在の情勢に満足の意を表しないものは、トロツキストと見なされるのである。われわれはこんなことを想像してみる。たとへレーニンでも、今日ソヴェトに生きてかへつてきたら、どんなに取扱はれるだらうか……と。〉
(『ソヴェト旅行記』小松清訳)

さらぎさんはこう語る。

〈ジイドが、ソ連人民の悲惨な生活に直面して、一つまた一つ、心の中の期待と幻想が崩れて行く様を悲しみの筆にたくして綴った紀行文を読んだとき、私の心の中でも「ソ連社会主義」という「嘘の化けの皮」は剥げ落ちてゆきました。だから私は五六年六月にポズナン暴動が勃発し、同年十月二十三日にハンガリア動乱が始まった時にも、これは単なる暴動や動乱ではなく、民衆の蜂起であり「革命だ」と直感しましたね。〉
(『革命に生きる』 『情況』1997年10月)

しかしハンガリア蜂起の翌日にはソ連軍が介入を始め、11月14日にはジューコフ戦車軍団がブタペストを蹂躙する。労働者人民に発砲するようなソ連は敵である。さらぎさんは診療所の先輩の紹介で就職していた産業労働調査会の『産業月報』にソ連を糾弾する短文を掲載する。スターリン主義との対決に踏み出した始発点だった。

そして安保闘争へ。1959年11月27日の全学連を先頭とした国会議事堂突入闘争が、ブントとの出会いとなる。国会周辺の静かな請願モを「お焼香デモ」と罵倒し、ジグザグデモを貫徹する学生たちに「彼らは革命をやる気だ」と直感する。デモ隊の後尾についたさらぎさんは、学生たちから58年12月10日に共産主義者同盟が結成されたことを知る。学生に人脈のないさらぎさんは、ブント結成に至るまでの日共内部の党派闘争を知らないまま安保闘争を迎えたことになる。

さらぎさんは独力で獲得してきた権力論、戦略論、安保闘争論がブントの理論と主張に極めて近いことを知り、ブントと共闘していく。この中で破防法裁判の主任弁護士となる葉山岳夫氏、相被告となる藤原慶久氏らを知ることになる。

しかし樺美智子が殺された6・15国会突入闘争を最後に解体過程に入り、安保の自動承認を許した6・18闘争の総括を巡って、ブント中央は三分裂する。東大細胞の蔵田計成氏・服部信司氏らの革命の通達派、全学連書記局の清水丈夫氏・姫岡玲治氏(青木昌彦)らのプロレタリア通信派、そして労対の田川和夫氏・陶山健一氏らの戦旗派である。このうちプロ通派や戦旗派の大半が1961年までに革共同に合流してしまう。

しかし革共同移行を潔しとせずブントの旗を守り抜いた人々もいた。社会主義青年運動(SM)のリーダーだった千葉青年もその一人である。千葉氏との出会いがさらぎさんの運命を変える。

第二次ブント再建と分裂の過程は次回に譲りたい。画像はネットで見つけたさらぎさんのスナップ。

(続く)

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