リートリンの覚書

日本書紀 巻第十二 去来穂別天皇 六 ・即位 ・入れ墨の刑 ・瑞歯別皇子を儲君とする ・妃と子どもたち ・磐余池を作る ・稚桜宮の由来 ・国史をおく



日本書紀 巻第十二 去来穂別天皇 六

・即位
・入れ墨の刑
・瑞歯別皇子を儲君とする
・妃と子どもたち
・磐余池を作る
・稚桜宮の由来
・国史をおく



元年、春二月一日、
皇太子は
磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)
即位しました。

夏四月十七日、
阿曇連濱子(あずみのむらじのはまこ)を
召して詔して、
「汝は、仲皇子と共に逆を謀り、
まさに国家を傾けようとした。

罪は死に相当する。

然るに、大恩を垂れて、
死を免じ、墨(ひたひきざむつみ)を科す」
といい、

即日のうちに黥(めさききざむ)しました。

これによって、
時の人は、
「阿曇目(あずみめ)」
といいました。

また、
濱子に従った野嶋の海人等の罪も免じて、
倭の蔣代屯倉(こもしろのみやけ)で
役しました。

秋七月四日、
葦田宿禰(あしだのすくね)の娘、
黒媛を立てて皇妃としました。

妃は、
磐坂市辺押羽皇子
(いわさかのいちのへのおしはのみこ)、
御馬皇子(みまのみこ)、
青海皇女(あおみのひめみこ)

一書では、
飯豊皇女(いいとよのひめみこ)と

を生みました

次の妃の幡梭皇女(はたびのおうじょ)は、
中磯皇女(なかしのひめみこ)を生みました。

この年、太歳は庚子(かのえね)。

二年、春正月四日、
瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)を立てて
儲君(ひつきみこ)としました。

冬十月、
磐余に都をつくりました。

この時に当り、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、
蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、
物部伊莒弗大連
(もののべのいこふつのおおむらじ)、
圓大使主(つぶらのおほみ)が、
共に国事を執りました。

圓これは豆夫羅(つぶら)といいます

十一月、磐余池を作りました。

三年冬十一月六日、
天皇は両枝船(ふたまたぶね)を
磐余市磯池(いわれいちしのいけ)
泛(う)かべました。

皇妃は各、分かれて乗って遊宴しました。

膳臣(かしわで)余磯(あれし)が
酒を献じましたが、

時に桜花が、
御盃に落ちました。

天皇はこれを不思議に思い、
則、物部長真胆連(もののべのながまい)を
召して、

詔して、
「この花は、
花の季節でもないのに来た。
どこの花か。
汝が、自ら求めよ」
といいました。

ここにおいて、
長真胆連は、
独り花を尋ねて、
掖の上の室山で獲て、
これを献じました。

天皇は、
その希(めずらしき)ことを
歓(よろこ)んで、
宮の名としました。

故に、
磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)
というのは、
これが起源です。

この日、
長真胆連の本姓を改めて、
稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)
としました。

また膳臣余磯を名づけて
稚桜部余磯(わかさくらべのあれし)
としました。

四年、秋八月八日、
はじめて諸国に
国史(ふみひと)を置きました。

言事を記して、四方の志(ふみ)を
達(とど)けさせました。

冬十月、石上溝を掘りました。



・稚桜宮(わかざくらのみや)
奈良県桜井市池内か?
・墨(ひたひきざむつみ)
顔の入れ墨
・黥(めさききざむ)
目にいれずみすること
・儲君(ひつきみこ)
皇太子
・磐余池
市磯の池と同じ、桜井市池内、香久山東北
・室山
御所市室付近の山
・志(ふみ)
記録



(感想)

元年春2月1日、
皇太子は磐余稚桜宮で即位しました。

夏4月17日、
阿曇連濱子を召して、詔して、
「お前は、仲皇子と共に反逆を謀り、
まさに国家を傾けようとした。

罪は死に相当する。
しかしながら、

大恩を垂れて、
死を免じ、
入れ墨の刑を科す」
といい、

翌日のうちに目に入れ墨をしました。

これによって、
時の人は、
「阿曇目(あずみめ)」
といいました。

また、
濱子に従った野嶋の海人等の罪も免じて、
倭の蔣代(こもしろ)の屯倉で使役しました。

秋7月4日、
葦田宿禰の娘の黒媛を立てて皇妃としました。

妃は、
磐坂市辺押羽皇子
御馬皇子、
青海皇女、
飯豊皇女を生みました。

次の妃の幡梭皇女は、
中磯皇女を生みました。

この年、太歳は庚子(かのえね)。

二年、春1月4日、
瑞歯別皇子を立てて皇太子としました。

冬10月、
磐余に都をつくりました。

この時に当り、
平群木菟宿禰、
蘇賀満智宿禰、
物部伊莒弗大連、
圓大使主が、
共に国事を執り行いました。

11月、
磐余池を作りました。

履中天皇3年11月6日、
天皇は両枝船を磐余市磯池に浮かべました。

皇妃は各々、
分かれて船に乗り遊宴しました。

膳臣余磯が酒を献じましたが、
この時、桜花が御盃に落ちました。

天皇はこれを不思議に思い、

すぐに、
物部長真胆連を召して、詔して、
「この花は、花の季節でもないのに来た。
どこの花なのか。お前が、自ら求めよ」
といいました。

そこで、長真胆連は、独り花を尋ねて、
掖の上の室山で得て、
これを献上しました。

天皇は、
その珍しいことを慶んで、
宮の名としました。

故に、
磐余稚桜宮というのは、
これが起源です。

この日、長真胆連の本姓を改めて、
稚桜部造としました。

また膳臣余磯を名づけて稚桜部臣としました。

四年、秋八月八日、
はじめて諸国に国史を置きました。

言事を記して、
四方の記録を届けました。

冬十月、
石上溝を掘りました。

無事、
天皇に即位したようで、
何よりです。

さて、
この条だけ
皇后ではなく皇妃の字が使われています。

何故?

と思って調べてましたが、
皇后=皇妃

たいした違いもないようです。

書き手の好み?

この条を読んで疑問に思ったことは、
天皇が自分の子ではなく、
弟を後継者に選んだこと。

今までとは違い、
空気がガラリと変わったように感じます。

この時代に何があったのだろう…
気になります。

今日はこの辺で。
明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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