日本書紀 巻第四
神渟名川耳天皇
(かんぬなかわみみのすめらみこと)
綏靖天皇
(すいぜいてんのう)
神渟名川耳天皇は、
神日本磐余彦天皇天皇
(かんやまといわれひこ・神武)の第三子です。
母は、
媛蹈韛五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめ)といい、
事代主神(ことしろぬし)の長女です。
天皇の風貌は秀でていました。
幼い頃から雄々しく、
抜きんでた気力がありました。
壮年になると
容姿は大きく立派になられ、
充実した身体になりました。
武芸は人より優れ、
志は高く落ち着き
動じることがありませんでした。
四十八歳になった時、
神日本磐余彦天皇が崩御なされました。
その時、
神渟名川耳尊は、
親を思う心が純真で、
深く悲しみ慕いやみませんでした。
特に葬送の事に哀れみ心を留めました。
庶兄である手研耳命(たぎしみみのみこと)は、
すでに大人になっており、
長きにわたり政をあずかってきました。
また、その事を任され自分で行ってきました。
しかし、
王は、操も懐も元から仁義に反していました。
ついに諒闇(りょうあん)に際し、
(臣下でありながら天皇の)
威服を自由にしてしまいました。
禍々しい心を包み隠し、
二人の弟を殺そうと謀りました。
時に、太歳は己卯(つちのとう)。
冬・十一月、
神渟名川耳尊と
兄の神八井耳命(かんやいみみのみこと)は、
密かにその暗殺計画を知り、
なんとか防ぐことにしました。
まず(神武天皇の)山陵(みささぎ)
の事が終わるとすぐに、
弓部稚彦(ゆげべのわかひこ)に弓を造らせ、
倭鍜部天津真浦(やまとのかぬちべあまつまら)
に真麛(まかご・鹿)の鏃(やじり)を作らせ、
矢部(やはぎべ)に箭󠄀と弓矢を作らせました。
弓矢が完成すると、
神渟名川耳尊は、
手研耳命を射殺しようと思いました。
たまたま、
手研耳命は、
片丘(かたおか)の大窟(おおむろ)の中で、
ひとり床に臥していました。
神渟名川耳尊は神八井耳命に、
「今がその時です。
言葉は話さず、事は慎重に。
我々の密謀は
誰も助けてくれる者はおりません。
今日の事は、
私と兄さんとが
自分で行うべきです。
私が窟の戸を開けますので、
兄さんが矢を射ってください」
といいました。
そこで二人は大窟に侵入し、
神渟名川耳尊がその戸を突いて開きました。
神八井耳命は、
戦慄を失い手足が震えて、
矢を放つことができませんでした。
そこで、
神渟名川耳尊は、
兄が持つ弓矢を奪い取り、
自ら手研耳命に矢を射りました。
一発は胸に当たりました。
二発目は背中に当り、
ついに(手研耳命を)殺しました。
神八井耳命は、
自分の非をもだえ悩み、
自ら(弟に皇位を譲り)服従しました。
「私はお前の兄だが、
意気地がなくやり遂げることができなかった。
今、
お前は特に優れていて
神武(あやしくたけし)がある。
自ら元凶を誅殺した。
お前が天皇の位に光臨し、
皇孫の業を受け継ぐがいい。
私はお前を助け、
天神地祇を司り祀ることにしよう」
といいました。
これ即ち(神八井耳命は)
多臣(おおのおみ)の始祖です。
元年、春・正月八日、
神渟名川耳尊は即位しました。
葛城に都を造りました。
これを高丘の宮といいます。
(神武)皇后を尊び皇太后としました。
この年、太歳は庚辰(かのえたつ)。
二年、春・正月、
五十鈴依媛(いすずよりひめ)を
皇后としました。
一書では、
磯城(しき)の県主(あがたぬし)の
娘・川派媛(かわまたひめ)と。
また別の一書では、
春日の県主大日諸(おおひもろ)の
娘・糸織媛(いとりひめ)と伝えています。
即ち天皇の伯母である后は、
磯城津彦玉手看天皇
(しきつひこたまてみのすめらみこと)
を生みました。
四年、夏・四月、
神八井耳命が崩御なされました。
そこで畝傍山の北に葬りました。
二十五年、春・正月七日、
皇太子、
磯城津彦玉手看尊
(しきつひこたまてみのみこと)を
皇太子としました。
三十三年、夏・五月、
綏靖天皇が病気になられました。
癸酉(みずのととり)の日に、
崩御なされました。
ときに御歳八十四歳でした。
・諒闇(りょうあん)
天皇の喪に服す期間
今日から
日本書紀 巻第四
シリーズ始まります。
兄弟での争い、悲しい事です。
まぁ、兄である
手研耳命は、
父・神武天皇の東征を手伝い
また、政をあずかってきた人物ですから
弟に皇位を譲ることが
出来なかったのでしょう。
しかし、
手研耳命は地方の豪族の娘の子。
対して弟たちは中央の事代主神の娘の子。
家臣がどちらに着くか明白でしょう。
悲しかな、
天皇家の皇位争いは後々も続きます。
さて、本日はこれにて。
明日も日本書紀 巻第四
続きます。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。