日本書紀 巻第十五 弘計天皇 十二
・紀生磐宿禰の野望
(顕宗天皇3年)この歳、
紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)が、
任那を拠り所にして、
高麗と交通しました。
西の三韓(みつのからくに)の
王になろうとして、
官府(みやつかさ)を整え、
神聖(かみ)を自称しました。
任那の左魯(さる)、
那奇他甲背(なかたこうはい)等が
計を用いて、
百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を
爾林(にりむ)で殺しました。
(爾林は高麗の地です)
帯山城(しとろもろのさし)を築いて、
東道をふせぎ守りました。
糧(かて)を運ぶ津(みなと)を断(た)ち、
軍を飢えらせ困らせました。
百済王は、
大いに怒り、
領軍(いくさ)の古爾解(こにげ)、
内頭莫古解(ないとうまくこげ)等を
遣わして、
衆を率いて帯山におもむき攻めました。
ここにおいて、
生磐宿禰は、
進軍して逆襲しました。
膽氣益壯(いきおいますますさかり)、
向かうところ皆破りました。
一で百に当たりました。
俄に兵(つわもの)が尽き、
力も使い尽くしました。
事がならない事を知り、
任那へと帰りました。
これによって、
百済国は、
佐魯、那奇他甲背(こうはい)等
三百余人殺しました。
・帯山城(しとろもろのさし)
全羅北道井邑郡郡泰仁
・兵(つわもの)
兵器
・甲背(こうはい)
百済や任那における称号
(感想)
顕宗天皇3年、
この歳、
紀生磐宿禰が、
任那を拠点にして、
高麗と交通しました。
西の三韓の王になろうとして、
官府(みやつかさ)を整え、
神聖(かみ)を自称しました。
任那の左魯、
那奇他甲背らが計略を用いて、
百済の適莫爾解を爾林で殺しました。
(爾林は高麗の地です)
帯山城を築き、
東道を防ぎ守りました。
食糧を運ぶ港を断(た)ち、
軍を飢えらせ困らせました。
百済王は、
大いに怒り、
将軍の古爾解、内頭莫古解らを派遣して、
軍衆を率いて帯山に行き攻めました。
ここにおいて、
生磐宿禰は、
進軍して逆襲しました。
勢いが益々盛り、
向かうところ皆破りました。
一人で百人に当たりました。
しかし、
俄に兵器が尽き、
力も使い尽くしました。
事がならない事を知り、
任那に帰りました。
これによって、
百済国は、佐魯、那奇他甲背ら
三百余人殺しました。
顕宗天皇が崩御された年のお話ですから、
チャンスと思い始めた
生磐宿禰の反逆でしょうね。
失敗に終わった様ですが。
彼が任那に帰った後の話は、
記載されていないので、
のちに、
彼がどのように生きたのかは
わかりません。
さて、
明日からは、
仁賢天皇の条に進みます。
また、
お付き合い頂けたら幸いです。
それではまた。
読んで頂き
ありがとうございました。
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