リートリンの覚書

日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 五十三 ・百済の王子・惠の帰国 ・惠を護送する ・屯倉を置く



日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 五十三

・百済の王子・惠の帰国
・惠を護送する
・屯倉を置く



十七年春正月、
百済の王子・惠(けい)が、
帰国を請いました。

なお、
兵仗(つわもの)、
良馬を甚だ多く、

また、
頻(しき)りに賞禄(しょうろく)を賜り、

衆は欽(うやま)い、
嘆(たた)えました。

ここにおいて、
阿倍臣(あへのおみ)、
佐伯連(さえきのむらじ)、
播磨直(はりまのあたい)を遣わして、

筑紫国の舟師(ふないくさ)を率いて、
衛(まも)って送り国にいたりました。

別に筑紫火君(つくしのひのきみ)
遣わして、
(百済本記は云う、筑紫君の子で、火中君(ひのなかのきみ)の弟とあります)

勇士、一千人を率いて、
衛(まも)って弖(みて)に送りました。
は津の名です)

因って、
津の路の要害之地(ぬみのところ)を
守らせました。

秋七月六日、
蘇我大臣稲目宿禰
(そがのおおおみいなめのすくね)等を、

備前(きびのみちのくち)の
児嶋郡(こじまのこおり)に遣わして、
屯倉を置きました。

葛城山田直端子
(かつらぎのやまだのあたいみつこ)
をもって、
田令(たつかい)としました。
(田令、これは陀豆歌毗(たつかい)といいます)

冬十月、
蘇我大臣稲目宿禰等を
倭国の高市郡(たけちのこおり)に遣わして、

韓人大身狹屯倉
(からひとのおおむさのみやけ) と、
(韓人というのは百済です)

高麗人小身狹屯倉
(こまびとのおむさのみやけ)
を置きました。

紀国に海部屯倉を置きました。

(一本は云う、所々の韓人を
大身狹屯倉(おおむさのみやけ)
田部(たべ)としました。

高麗人の
小身狹屯倉(おむさのみやけ)
田部としました。

ここでただちに
韓人・高麗人をもって田部にしました。
故に屯倉の呼び名のもとになりました)



・兵仗(つわもの)
兵器
・賞禄(しょうろく)
ほうびとして与えられる禄
・舟師(ふないくさ)
海軍
・要害之地(ぬみのところ)
防御・戦闘性に富んでいる場所



(感想)

欽明天皇17年春1月、
百済の王子・惠が、
帰国を請いました。

なお、
兵器、良馬を大変多く、

また、
しきりに賞禄を与え、

諸人は敬い讃えました。

ここにおいて、
阿倍臣、佐伯連、播磨直を派遣して、
筑紫国の海軍を率いて、
護衛して国に送り届けました。

別に筑紫火君を派遣して、
勇士、千人を率いて、
護衛してに送りました。

よって、
津の路の防御・戦闘性に富んでいる場所を
守らせました。

秋7月6日、
蘇我大臣稲目宿禰らを、
備前児島郡に派遣して、
屯倉を置きました。

葛城山田直瑞子を田令としました。

冬10月、
蘇我大臣稲目宿禰らを
倭国の高市郡に遣わして、

韓人大身狭屯倉と、
(韓人というのは百済人です)

高麗人小身狭屯倉を置きました。
紀国に海部屯倉を置きました。

(一本は云う、所々の韓人を大身狭屯倉の田部としました。高麗人を小身狭の屯倉の田部としました。ただちに韓人・高麗人をもって田部にしました。故に屯倉の呼び名のもとになりました)

明日に続きます。

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