リートリンの覚書

麁服と繒服 23  忌部氏とは?


忌部氏


古代朝廷の祭祀を始めとして
祭具作成・宮殿造営を担った氏族です。

記紀では、
天岩戸の神話において
天太玉命と
天児屋命(あめのこやねのみこと)が
祭祀県警に携わったことが記されています。

両神は天孫降臨においても付き従っています。

そのうち天太玉命が忌部氏の祖、
天児屋命が中臣氏の祖とされています。

両氏は記紀編纂当時の
朝廷の祭祀を司っていました。

古代は忌部氏と中臣氏が両立していました。

忌部は祭祀の支度をする祭祀官。

一方、
中臣氏は、神の声を人に伝え、
人の声を神に伝える役割をした
シャーマン的な人たちでした。

天太玉命の出自については
「古語拾遺」では
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子
であるとし、

「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」
でもこれにならっていますが、

記紀には出自の記載はなく
真偽は明らかではありません。

忌部氏は、
5世紀後半から6世紀前半ごろに
その地位を確立したとされています。

大和国高市郡金橋村忌部
(現在の奈良県橿原市忌部町周辺)を
本拠地としていました。

また出雲、紀伊、阿波、讃岐等に
設置されていた品部を掌握して
物資の徴収したほか、

祭具の作製や神殿・宮殿造営に
携わっていました。

各地の忌部を率いて中臣氏とともに
古くから朝廷の祭祀を司ってきました。

忌部という名は、
祭祀を行うにあたり6世紀に
天皇がつけたものです。

550年頃の仏教が入ってきたころまでは、
神様の名前同士で呼んでいたようです。

忌部とは
「穢れを忌み嫌い、
神聖は仕事に従事する集団」
を意味し、

大和朝廷の祭祀を
司ってきたことでも知られています。
 
忌部は祭祀官でしたので、
天皇家の祭祀関係すべてを
取り仕切っていました。

そのため、
どのように麁服を作るとか、
大嘗祭をどのように行うとか、
天皇が崩御された際には
どうするかということも、

全部忌部が形作っていったのではないかと
考えられています。

しかし、
奈良時代頃から勢力を増長させた
中臣氏に地位は押されぎみとなり、

固有の職掌にも就けない事態が
増加していきました。

平安時代前期には、
氏を忌部から「斎部」と改めました。

しかし勢い戻すことなく、
祭祀氏族は
中臣氏・大中臣氏に占有されていきました。



感想

大嘗祭の主な決まり事は、
おそらく天武天皇の時代に
整えられたと思われます。

その時代は、
政治的な力関係は中臣氏が握っていましたが、
祭祀関係の準備等は、
忌部氏が担っていました。

つまりは、
大嘗祭の様々なことを
忌部氏がまとめた可能性が高い。

忌部氏は以前から気になっている氏族です。

忌部氏は、
表舞台は中臣氏に譲り
自分達が動きやすいよう
裏方に回ったのではないかと
自分は考えています。

日本が危機に面すると
裏でコッソリと
危機を乗り越えるために
色々とやっていたのではないかと?
と勝手に妄想。

今回は麁服と大麻を重点に
調べていますので忌部氏のことは
いずれじっくり調べてみたいです。

本日は、
「麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布」
(著)中谷 比佐子・安間 信裕 
監修 門家 茂樹と
Wikipediaを参考に書かせていただきました。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。

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