リートリンの覚書

日本書紀 巻第五  御間城入彦五十瓊殖天皇 十一


日本書紀 巻第五  
御間城入彦五十瓊殖天皇 十一


六二年、秋七月二日、
詔して、
「農業は天下の根源である。
民がこれをたのみに生きている。

今、河内の狭山(さやま)の埴田は
水が不足していて、

その国の百姓(おおみたから)は、
農事を怠っている。

すぐに、
溝を多く開き、
民の生業をゆとりあるものにしなさい」
といいました。

冬十月、
依網池(よさみのいけ)を造りました。

一一月、
苅坂(かりさか)の池、
反折(さかおり)の池を造りました。

一伝では、
天皇は桑間(くわま)の宮に居て、
この三つの池を造ったと伝えられています。

六五年、秋七月、
任那国(みまなのくに)が、

蘇那曷叱知(そなかしち)を派遣して、
朝貢させました。

任那は、
筑紫の国を去ること二千余里。
筑紫から北方、海をへだて、
鷄林(しらき)の南西にあります。

天皇は践祚(せんそ)して
六十八年の冬一二月五日に、
崩御しました。

時に年百二十歳。

翌年の秋八月一一日に、
山辺道上陵(やまのべみちのえのみささぎ)
葬りました。



給排水を目的とした人口の小規模な水路。

・河内狭山(さやま)
大阪府南河内郡狭山町

依網池(よさみのいけ)
大阪市住吉区

・任那国(みまなのくに)
朝鮮半島南部の百済と新羅に挟まれた地域

鷄林(しらき)
新羅

践祚(せんそ)
即位

山辺道上陵
(やまのべみちのえのみささぎ)
天理市柳本町か?



感想

今回のお話は、
崇神天皇が百姓(おおみたから)の為に
水路と池を造るお話と、

任那国から蘇那曷叱知が派遣され、
朝貢してきたお話しですね。

崇神天皇の御代。
すでに戸籍が調べられ、
課税がされ、
さらに公共の設備が造られ、

と、今とほとんど変わらない政治が
行われていたことに

ちょっと驚きです。
古代のイメージが大分変わりました。

しかし、
任那国のことは、
崇神天皇の条でいきなり出てきましたね。

朝貢してくる以前の状況が
記載されていないのがちょっと残念。

どういった経緯があったのか?
気になりますね。

そして、
120歳まで生きた
崇神天皇。
長生きですね。

本当かどうかはわかりませんが、

魏志倭人伝では、
倭人は、
八、九十まで生きる者もいると
記されていますから、

当時の日本の人々は、
他国より、長生きだったのかも知れません。

さて、
本日で崇神天皇の条、終了です。
いかがだったでしょうか?

今までの条より、
天皇のことが細かく書いてあり、
崇神天皇の人柄がよくわかりました。

また、
他の人物のお話も興味深いお話が
沢山ありました。
面白かったです。

明日からは、
日本書紀巻第五に登場した人物を
調べていきたいと思います。

また、お付き合いいただけたら嬉しいです。

日本書紀巻第五。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


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