日本書紀 巻第二十六
天豊財重日足姫天皇 十一
・唐国に使者を派遣する
・伊吉連博徳の書 一
秋七月三日、
小錦下(しょうきんげ)の
坂合部連石布
(さかいべのむらじいわしき)、
大仙下(だいせんげ)の
津守連吉祥
(つもりのむらじきさ)を
唐国(もろこし)に
使者として遣わしました。
なお道奥(みちのく)の
蝦夷の男女の二人を
唐の天子に示しました。
(伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書は云う、
「同じ天皇の世に、小錦下の坂合部石布連(さかいべのいわしきのむらじ)、大山下(だいせんげ)の津守吉祥連(つもりのきさのむらじ)等の二船は、呉唐(くれもろこし)の路に使わされました。
己未の年七月三日、
難波の三津の浦から発しました。
八月十一日、
筑紫の大津の浦を発しました。
九月十三日、
百濟の南畔の嶋に行き到ました。嶋の名は、明らかではありません。
十四日寅の時、
二船が相従って、大海(おおうなはら)に放たれ出ました。
十五日、日の入の時、
石布連(いわしきのむらじ)の船は、逆風を横にうけて、漂い南海の嶋に到ました。嶋の名は、爾加委(にかい)。なお、嶋の人のために滅ぼされました。東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたいありま)、坂合部連稲積(さかいべのむらじいなつみ)等五人は、嶋人の船を盗み、乗って、逃げて、括州(かつしゅう)に到ました。州県(しゅうけん)の官人は、洛陽の京に送り、到ました。
十六日、夜半の時、
吉祥連(くさのむらじ)の船が、越州(えつしゅう)の会稽県(かいけいけん)の須岸山(しゅがんさん)に行き到ました。東北の風で、風は太(はなは)だ急でした。
二十二日、
余姚県(よえうけん)に行き到ました。乗ってきた大船及び諸々の調度の物を、彼の所に留め置きました。
潤十月一日、
越州の底に行き到ました。
十五日
駅(はやま)に乗って京に入りました。
二十九日、
馳せて東京に到ました。天子は東京に在ました。
・呉唐(くれもろこし)
揚子江下流
・大海(おおうなはら)
東シナ海
・括州(かつしゅう)
現・中国浙江省麗水
・越州(えつしゅう)
杭州湾南岸
・会稽県(かいけいけん)
現・浙江省興紹
・余姚県(よえうけん)
現・浙江省余姚
・駅(はやま)
早馬
(感想)
(斉明天皇5年)
秋7月3日、
小錦下の坂合部連石布、
大仙下の津守連吉祥を
唐国に使者として派遣しました。
なお、
道奥の蝦夷の男女の二人を
唐の天子に示しました。
(伊吉連博徳の書は云う、
「同じ天皇の世に、小錦下の坂合部石布連、大山下の津守吉祥連らの二船は、呉の路を経由して唐に派遣されました。
己未の年7月3日、
難波の三津の浦から出発しました。
8月11日、
筑紫の大津の浦を出発しました。
9月13日、
百済の南辺の島に到着しました。島の名は、明らかではありません。
14日午前4時、
二船が連れ立って、大海に乗り出しました。
15日、日没の時、
石布連の船は、逆風を横にうけて、南海の島に漂着しました。嶋の名は、爾加委。なお、島の人によって殺されました。その際、東漢長直阿利麻、坂合部連稲積ら五人は、島人の船を盗み、乗って、逃げて、括州に到着しました。州県の官人は、洛陽の京に送り、到着しました。
16日、夜半の時、
吉祥連の船が、越州の会稽県の須岸山に到着しました。東北の風で、風ははなはだ急でした。
22日、
余姚県に到着しました。乗ってきた大船および諸々の調度の物を、彼の所に留め置きました。
潤10月1日、
越州の底に到着しました。
15日
早馬に乗って長安に入りました。
29日、
馳せて洛陽に到着しました。天子は洛陽に在ました。
明日に続きます。
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