日本書紀 巻第三十
高天原廣野姫天皇 二十四
・吉野宮への行幸
・新羅の送使への対応についての詔
・大伴部博麻への慰労
冬十月五日、
天皇が吉野宮に幸しました。
十日、
大唐の學問僧の智宗等が、
京師(みやこ)に至りました。
十五日、
使者を遣わして、
筑紫大宰の河內王等に詔して、
「新羅の送使(そうし)の
大奈末の金高訓(きんこうくん)等を
饗(もてな)すのは、
學生の
土師宿禰甥(はじのすくねおい)等を
送使した例に准えるように。
その、慰勞に物を賜るのは、
詔書に依るように」
といいました。
二十二日、
軍丁の筑紫国の上陽咩郡の人の
大伴部博麻(おおともべのはかま)に
詔して、
「天豊財重日足姫天皇
(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
七年に、
百濟を救うための役(えだち)で、
汝は、
唐軍のために虜(とりこ)とされた。
天命開別天皇
(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)
三年におよび、
土師連富杼
(はじのむらじほど)、
氷連老
(ひのむらじおゆ)、
筑紫君薩夜麻
(つくしのきみさちやま)、
弓削連元宝
(ゆげのむらじがんほう)の
子、四人は、
唐人の計りを
奏聞(そうもん)したいと思ったが、
衣粮(いろう)の緣も無く、
達することもできず憂いていた。
ここにおいて、
博麻が土師富杼等に語って、
『我は、
汝と共に本朝(みかど)に
還向(げこう)したいと思っていたが、
衣粮の緣も無く、
倶に去ることができずにいる。
願わくは、
我が身を売り、
衣食に当てて欲しい』
といった。
富杼等は、
博麻の計りに依り、
天朝に通じることができた。
汝は独り、
他界(たかい)に淹滯(えんたい)し、
今まで、三十年である。
朕は、
その朝を尊び国を愛(おも)いて、
己を売って忠を顕にしたことを喜ぶ。
故に、
務大肆、あわせて絁(ふとぎぬ)・五匹、
綿・一十屯、布・三十端、稻・一千束、
水田四町を賜る。
その水田は、
曾孫に至るまで及ぶ。
三族の課役を免し、
その功を顕すことにする」
といいました。
二十九日、
高市皇子が、
藤原宮の地を観ました。
公卿百寮が従いました。
・天豊財重日足姫天皇
(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
=斉明天皇
・天命開別天皇
(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)
=天智天皇
・奏聞(そうもん)
天子に申し上げること。奏上
・衣粮(いろう)
衣服と食糧
・他界(たかい)
自分が属さない世界)
・淹滯(えんたい)
物事が順調に進まないで、とどこおること。遅滞
(感想)
(持統天皇4年)
冬10月5日、
天皇が吉野宮に行幸しました。
10日、
大唐の学問僧の智宗等が、
京師(みやこ)に到着しました。
15日、
使者を派遣して、
筑紫大宰の河内王らに詔して、
「新羅の送使の
大奈末の金高訓らを饗応するのは、
学生の土師宿禰甥らを送使した例に
倣うように。
その、
慰労し物を与えるのは、
詔書に倣うように」
といいました。
22日、
兵士の筑紫国の上陽咩郡の人の
大伴部博麻に詔して、
「斉明天皇7年に、
百済を救援する戦役で、
汝は、
唐軍のために捕虜とされた。
天智天皇3年におよび、
土師連富杼、氷連老、
筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子ども、
四人は、
唐人が計画していることを
通報したいと思ったが、
旅費も無く、
朝廷に到達することもできず憂いていた。
この時、
博麻が土師富杼らに語って、
『我は、
汝と共に朝廷に帰還したいと思っていたが、
旅費も無く、
ともに唐から去ることができずにいる。
願わくは、
我が身を売り、
衣食に当てて欲しい』
といった。
富杼らは、
博麻の計画によって、
天朝に通報することができた。
汝は独り、
他国に留まること、
斉明天皇7年から、
今、持統天皇4年にいたるまで、
30年。
朕は、
その朝廷を尊び、
国を愛して、
己を売って忠誠をあらわしたことを喜ぶ。
であるから、
務大肆、
あわせて、絁・5匹、綿・10屯、
布・30端、稲・1000束、
水田四町を与える。
その水田は、
曾孫にいたるまで及ぶ。
三族の課役を免除し、
その功績をあらわすことにする」
といいました。
29日、
高市皇子が、
藤原宮の地を観ました。
公卿百寮が従いました。
明日に続きます。
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