日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十六
・百舌鳥耳原の由来
・吉備国の大虬
・天皇の崩御
六十七年冬十月五日、
河内の石津原に幸し、
陵地を定めました。
十八日、
始めて陵を築きました。
この日、
鹿が忽然に野中から起きあらわれ、
走って役民の中に入り、
倒れて死んでしまいました。
時に、
その忽然と死んだことを異(あや)しんで、
その瘕(きず)を探しました。
百舌鳥が耳から出て飛び去りました。
それで耳の中を見ると、
ことごとく咋(く)い裂かれていました。
そこを名づけて
百舌鳥耳原(もずのみみはら)
と名づけました。
これが由縁です。
この年、
吉備の中(みちなか)の国の
川島河の川股(かわまた)に、
大虬(みつち)がいて人を苦しめました。
路ゆく人が、
その処にふれて行くと、
かならずその毒をうけて、
多くが死亡しました。
笠臣の祖の県守(あがたもり)は、
人となりが勇敢で力が強く、
川股の淵に臨み、
三つの全な瓢(ひさご)を水に投げ、
「汝はしばしば毒を吐いて、
路ゆく人を苦しめた。
余は汝、虬(みつち)を殺す。
汝がこの瓢を沈めたなら、
余は避(さ)るとしよう。
沈めることができなければ、
汝の身を斬る」
といいました。
水虬(みつち)は、
鹿と化して、
瓢を引き入れようとしました。
瓢は沈みませんでした。
すなわち剣を掲げて水に入り、
虬(みつち)を斬りました。
さらに虬の党類(ともから)を求めると、
諸々の虬の族(やから)が、
淵底の岫穴(いわあな)に満ちていました。
ことごとく斬りました。
河水が血と変わりました。
故に、
その水を県守の淵と呼びます。
このときにあたり、
妖気がわずかに動いて、
反者が一、二始めて起こりました。
ここに天皇は、
夙興夜寝(しゅくこうやしん)し、
賦(みつき)を軽くし、
斂(おさめもの)を薄くして、
民萌(おおみたから)を寛(ゆるや)かにし、
徳を布き、
恵を施して、
困窮したものを救い、
死を弔い、
疾(やむもの)を問い、
孤孀(やもおやもめ)を養いました。
ここをもちて、
政令は流行し、天下は太平でした。
二十余年も事無しでした。
八十七年春正月十六日、
天皇が崩御しました。
冬十月七日、
百舌鳥野陵に葬りました。
・河内の石津原
大阪府堺市石津町
・川島河
高梁川
・瓢(ひさご)
ひょうたん、ゆうがお、とうがんなどの果実の総称
・党類(ともから)
なかま
・夙興夜寝(しゅくこうやび)
朝早くから起き、夜半に寝るという意味
・賦(みつき)
労役
・斂(おさめもの)
租税
・孤孀(やもおやもめ)
孤児とその母、未亡人
(感想)
仁徳天皇67年冬10月5日、
河内の石津原に行幸し、
陵地を定めました。
18日、
始めて陵を築きました。
この日、
鹿が忽然に野中からあらわれて、
走って役民の中に入り、
倒れて死んでしまいました。
この時、
その忽然と死んだことを怪しんで、
その瘕(きず)を探しました。
その時、
百舌鳥が耳から出て飛び去りました。
そこで耳の中を見ると、
ことごとく喰い裂かれていました。
そこを名づけて百舌鳥耳原と名づけました。
これが由縁です。
この年、
吉備の中の国の
川島河の川股に、
大虬がいて人々を苦しめました。
路をゆく人が、
その処にふれて行くと、
必ずその毒をうけて、
多くの者が死亡しました。
笠臣の祖の県守は、
人となりが勇敢で力が強く、
川股の淵に臨み、
三つのヒョウタンを水に投げると、
「お前はしばしば毒を吐いて、
路ゆく人を苦しめた。
俺はお前、虬を殺す。
お前がこの瓢を沈めたなら、
俺は立ち去ることにしよう。
だが、沈めることができなければ、
お前の身を斬る」
といいました。
水虬は鹿に化けて、
ヒョウタンを水の中に
引き入れようとしました。
しかし、
ヒョウタンは沈みませんでした。
そこで、
剣を挙げて水に入り、
虬を斬りました。
さらに虬の仲間を探し求めると、
諸々の虬の仲間が、
淵底の岩穴に満ちていました。
それをことごとく斬りました。
河水が血と変わりました。
こういうわけで、
その水を県守の淵と呼びます。
この時にあたり、
妖気がわずかに動いて、
叛く者が一、二、起こりました。
ここに天皇は、
朝早くから起き、
夜半に眠り、
労役を軽くし、
租税を薄くして、
民衆をゆるやかにし、
徳を布き、
恵を施して、
困窮したものを救い、
死を弔い、
病人を見舞い、
孤児とその母たちを養いました。
ここをもちて、
政令は滞りなく治められ、
天下は太平となりました。
二十余年も事無しでした。
仁徳天皇87年春1月16日、
天皇が崩御しました。
冬10月7日、
百舌鳥野陵に葬りました。
日本書紀 巻十一 仁徳天皇の条
いかがだったでしょうか?
炊煙のお話は有名ですね。
それ以外のお話も仁徳天皇の
人となりがいかに素晴らしい方だったのかが
よく分かりました。
この条を読むと
仁徳天皇の陵が大きいことに納得しますね。
ソリャ、
こんなにおおみたからに
尽くした天皇はいない。
そんな天皇に恩返しがしたい
その思いが
あの様な大きい陵になった理由でしょう。
一説には、
田を潤すために溝を掘って
余った土を盛り上げただけ、
というのもありますがね。
その説が真実であったとしても、
朝廷側が富を独占した場合には、
治水工事なんてしませんから。
朝廷が民を優先した結果だと
私は思います。
まさに聖王ですね。
それではまた。
読んで頂き
ありがとうございました。
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