リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十九 天命開別天皇 三十七 ・皇后、不豫となる ・薬師寺の建立 ・天皇、病となる



日本書紀 巻第二十九 
天命開別天皇 三十七

・皇后、不豫となる
・薬師寺の建立
・天皇、病となる



十一月一日、
日蝕となりました。

三日、
戌(いぬのとき)から
子(ねのとき)に至るまで、
東方が明るかったです。

四日、
高麗人十九人が本土に返りました。

これは後岡本天皇
(のちのおかもとのすめらみこと)の
喪に当たり、
弔いの使が留まり還らなかった者です。

七日、
百官に詔して、
「もし、国家に利をもたらし、
百姓を寛(ゆる)やかにする
術(みち)があるならば、

闕(みかど)に詣でて、
自ら申すように。

則ち、
詞が理が合ったなら
法則(のり)として立てよう」
といいました。

十日、
西方で雷がなりました。

十二日、
皇后の體が不豫(ふよ)となりました。

則ち、
皇后のために誓願(せいがん)をして、
初めて藥師寺を興しました。

かさねて、
百の僧を度(わた)らせました。

これによって、
平安を得ました。

この日、
罪を赦しました。

十六日、
月蝕がありました。

草壁皇子を遣わして、
惠妙僧の病を訊(たず)ねました。

明日、
惠妙僧が終わりました。

乃ち、
三の皇子を遣わして弔いました。

二十四日、
新羅が、
沙飡(ささん)の
金若弼(きんにゃくひつ)、

大奈末(だいなま)の
金原升(きんげんしょう)を遣わして、
調(みつき)を進めました。

則ち、
習言者(ことならひひと)の三人が、
若弼に従って至りました。

二十六日、
天皇が病となりました。

よってもって、
百の僧を度(わた)らせました。

俄(にわ)かに癒えました。

三十日、
臘子鳥(あとり)が、
天を蔽(おお)い、

東南から飛び、
西北にわたりました。



・戌(いぬのとき)
時刻の数え方で、現在の午後8時の前後2時間頃を指す語
・子(ねのとき)
1日の始まりである現在の午前0時の前後2時間
・後岡本天皇
(のちのおかもとのすめらみこと)
斉明天皇
・闕(みかど)
朝廷
・不豫(ふよ)
天子、また貴人・長上の病気。不例
・誓願(せいがん)
神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと
・沙飡(ささん)
新羅の官位のひとつ
・大奈末(だいなま)
新羅の官位のひとつ
・習言者(ことならひひと)
日本語学習者をさす
・臘子鳥(あとり)
冬鳥として秋にシベリア方面から渡来する、渡り鳥。



(感想)

(天武天皇9年)

11月1日、
日蝕となりました。

3日、
戌の刻から子の刻にいたるまで、
東方が明るかったです。

4日、
高麗人、19人が本土に帰りました。

これは斉明天皇の喪に当たり、
弔いの使が留まり帰国しなかった者です。

7日、
百官に詔して、
「もし、
国家に利益をもたらし、
百姓を豊かにする術策があるならば、

朝廷に詣でて、
自ら申すように。

則ち、
言うことが道理に合ったなら
法則(のり)として立てよう」
といいました。

10日、
西方で雷がなりました。

12日、
皇后が病気となりました。

こういうわけで、
皇后のために誓願をして、
初めて薬師寺を建立しました。

かさねて、
百の僧を得度させました。

これによって、
平安となりました。

・得度(とくど)
出家して受戒すること

この日、
罪人を赦しました。

16日、
月蝕がありました。

草壁皇子を派遣して、
惠妙僧の病を見舞いました。

翌日、
惠妙僧が亡くなりました。

そこで、
三人の皇子を派遣して、
弔いました。

24日、
新羅が、
沙飡の金若弼、大奈末の金原升を派遣して、
調(みつき)を献上しました。

この時、
日本語学習者の三人が、
若弼に従って来ました。

26日、
天皇が病気となりました。

よって、
百の僧を得度させました。

にわかに癒えました。

30日、
臘子鳥が天をおおい、
東南から飛び、
西北にわたりました。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。






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