日本書紀 巻第二十六
天豊財重日足姫天皇 十
・紀温湯から帰る
・吉野に行幸
・陸奥と越の蝦夷を饗応
・蝦夷国を討伐
五年春正月三日、
天皇は紀温湯(きのゆ)から至りました。
三月一日、
天皇は吉野に幸して、
肆宴(とよのあかり)をしました。
三日、
天皇は近江の平浦に幸しました。
(平、これは毗羅(ひら)といいます)
十日、
吐火羅人(とからのひと)が
妻と舍衞(しゃえ)の婦人と共に来ました。
十七日、
甘檮丘(あまかしのおか)の東の川上に、
須彌山(しゅみせん)を造り、
陸奧と越の蝦夷を饗(もてな)しました。
(檮、これは柯之(かし)。川上、これは箇播羅(かわら)といいます)
この月、
阿倍臣(あへのおみ)
(名を欠く)を遣わして、
船師(ふないくさ)、
百八十艘を率いて、
蝦夷国を討ちました。
阿倍臣は、
飽田(あぎた)、渟代(ぬしろ)の
二郡の蝦夷、
二百四十一人とその虜、三十一人、
津輕郡の蝦夷百十二人とその虜四人、
胆振鉏(いふりさえ)の蝦夷二十を
一つの所に簡(えら)び集めて、
大いに饗(もてな)して祿を賜りました。
(胆振鉏、これは伊浮梨娑陛(いふりさえ)と言います)
すなわち、
船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)を、
彼の地の神に祭りました。
肉入籠(ししりこ)に至りました。
この時、
問菟(とびう)の蝦夷の
膽鹿嶋(いかしま)、菟穗名(うほな)の
二人が進んで、
「後方羊蹄(しりへし)で
政所(まつりごとどころ)とするのが
いいでしょう」
といいました。
(肉入籠、これは之々梨姑(ししりこ)といいます。問菟はこれ塗毗宇(とひう)といいます。菟穗名はこれ宇保那(うほな)といいます。後方羊蹄はこれ斯梨蔽之(しりへし)といいます。政所(まつりごとどころ)おそらく蝦夷の郡ではないでしょうか)
膽鹿嶋等の語に随って、
遂に郡領を置いて帰りました。
道奧と越の国司に、
位を各々に二階を、
郡領と主政とに
それぞれ一階を授けました。
(或本は云う、阿倍引田臣比羅夫(あへのひけたのおみひらぶ)、粛慎(みしはせのくに)と戦い帰りました、虜を四十九人を献(たてまつ)りました)
・肆宴(とよのあかり)
朝廷などの儀式の後で行われる酒宴
・平浦(ひらのうら)
滋賀県滋賀郡志賀町辺。合併により2006.03.20から大津市
・甘橿丘(あまかしのおか)
奈良県中部、高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある小丘陵。標高148メートル。味橿丘(うまかしのおか)ともいい、甘檮岡、甘樫丘とも書く
奈良県中部、高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある小丘陵。標高148メートル。味橿丘(うまかしのおか)ともいい、甘檮岡、甘樫丘とも書く
・綵帛(しみのきぬ)
染め分けた絹
・船師(ふないくさ)
水軍
・飽田(あぎた)
秋田
・渟代(ぬしろ)
能代
・粛慎(みしはせのくに)
異民族
(感想)
斉明天皇5年春1月3日、
天皇は紀温湯から帰りました。
3月1日、
天皇は吉野に行幸して、
酒宴をしました。
3日、
天皇は近江の平浦に行幸しました。
10日、
吐火羅人が妻と舍衞の婦人と共に来ました。
17日、
甘檮丘の東の川上に、
須彌山を造り、
陸奧と越の蝦夷を饗応しました。
この月、
阿倍臣を派遣して、
水軍・180艘を率いて、
蝦夷国を討ちました。
阿倍臣は、
飽田、渟代の二郡の
蝦夷241人とその捕虜31人、
津軽郡の蝦夷112人とその捕虜4人、
胆振鉏の蝦夷20人を選んで、
1つの所に集めて、
大いに饗応して祿を与えました。
そして、
船1隻と染め分けた絹を、
彼の地の神に祭りました。
肉入籠に到着しました。
この時、
問菟の蝦夷の膽鹿嶋、菟穗名の二人が
進み出て、
「後方羊蹄を、
政所とするのがいいでしょう」
といいました。
(政所は、おそらく蝦夷の郡ではないでしょうか)
膽鹿嶋らの言う通りに、
遂に郡領を置いて帰りました。
道奧と越の国司に、
位を各々に二階を、
郡領と主政に
各々一階を授けました。
(或本は云う、阿倍引田臣比羅夫が、異民族と戦い帰りました、捕虜を49人を献上しました)
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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