ジョージィのおとなりさんたち

【個人史】「人生って、とっても楽しいもの」
そんな風に感じている今日この頃。Blogでメモっておきたい。

ジョージィの住環境と略歴(3)-2

2006年08月26日 01時20分56秒 | Weblog
(当時のニュータウンである)団地に引っ越すしばらく前から母も仕事に出ていた気がする。
家に帰っても誰もいないので(友人らが家に帰った後の)夕方は、私を身ごもった時の 暴漢に襲われた という公園内にある児童会館で遊びながら親の帰りを待っていた記憶がある。

それだから団地に引っ越すとすぐに「カギっ子」としてデビューしたとしてもつじつまが合うし、間もなく車を買えたことも理解が容易だ。
そして私の毎月の小遣いが増え「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」等の雑誌を毎週毎週買えたこともつじつまが合う。

<ほったらかし子育ての害> ・・・・
ということは...、
後年私が「子供を放ったらかしにして大きな小遣いを渡すことで償いをする家庭環境には問題がある」と非難してきたことが、実は自分自身もそうだったという事にたったいま気がついた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アパート暮らしの時から(母が外で仕事をするようになり)家人との交流の時間が少なくなり夜の家にたった一人の時間も多い。
誰かの気を引きたかったのかも知れないし、ひとりぽっちの寂しさも感じていたのかもしれない。
もしかすると私の気質はこのころ形成された可能性がある。

第一の気質 は、
「他人をビックリさせて’受け’を狙いたい」願望である。
『オバQ音頭』だって真っ先に習得し、父の職場の家族旅行などで披露しては 父の職場(国鉄関連事業、購買もあるし診療所もある)のお姉さんたちにも大好評だったのだ。
また、
いつものようにネタを探しては級友や友人達に披露するチャンスを狙っていた。
ある時いいネタを見つけた。
友人数人とバスを待って居るとき大人達も含め数人がいた。私が先頭である。
バスが来たとき友人の一人がちょうど良い言葉を発したので、私はすかさず
シェーッ!」とやってみた。

皆の注目は得たが理解はされなかった。(今風にいえば完全にスベった)
理解されないと言うことは、オリジナリティにできる。
事あるごとに学校でもどこでも「シェーッ!」とやっているうちに皆がやり出したので私は次の新しいネタを探し始めた。
学校でも職場でも誰かの二番煎じ(マネ)が大嫌いなのは、今に至ってもずっと続いている。

第二の気質 は、
ひとりでポツンとしている人を放っておけない。おせっかいなのだ。
団地に引っ越してきた子供は私と同じ小学校に転入する。
転校生には友達がいないからひとりでポツンとしがちだ。彼らの心情は私は経験済みなので良く理解が出来る。
転校してきた子には真っ先に接触して友達になる。「オレも同じ転校生だ(だった)」といえば共通点ができるからだ。
数日一緒に行動すれば性格もわかる。いくつかのグループから転校生に合いそうな集団を選んで一緒に遊びに参加すれば自然と仲間になるのだ。
ひとりぽっちの子がいなくなれば、また私自身はひとりぽっちを楽しむ。
何でも皆と一緒は性に合わないのだ。
(そしてこの方法は私のあらゆる職場でこれをやって行っている。)

父の転勤でこの小学校には五年生の終わりまでしかいなかった。

昨年(平成17年)、この街を訪れ小学校のあった場所近くの小売店に入った時だった。
『○○!○○じゃないか?おれだよ小学校の同級生だった△△だよ』と商店主に声をかけられた。
私は全く想い出せなかったが彼が説明する状況は断片的な私の記憶と合致する。
彼が転校してきたとき、そのときの私の行動が忘れられなくてずっと覚えて居てくれたのだという。

ジョージィの住環境と略歴(3)

2006年08月25日 20時21分26秒 | Weblog
(( 政治ネタより個人の記録に集中しなければ...))

小学校4年のときに、市営団地の入居権が当たった。
いまで云うニュータウンみたいなものだ。近くには始めての汚水処理場が建設され全戸水洗トイレなのだ。
私の住宅は2階屋棟で一階の居間と2階に二部屋の標準仕様で一棟には六戸ほどが連なっていた。
各戸には奥行き5mほどの庭があり、花壇にしたり子供の遊び場にしていた。
それだけではない。
玄関前の2m幅ほどの部分は隣との行き来に使う通路にして砂利が敷かれており、さらにその先の道路に至るまでの4~5mほどのあいだには物置小屋と空きスペースが並んでいた。
車を持つ人には駐車場にもなるのだ。 一戸に割り当てられたスペースはとても広かった。

団地への転居は、私にとって始めての「引っ越し」であり始めての「転校」であった。
小学校への通学は、
アパート住まいの時は 小学校敷地を取り巻く幅1m強ほどのどぶ川を飛び越えれば3分以内で教室に飛び込めたが、転校後は市街地にある小学校までバスで行かなければならない。
たんぼの中の道路を歩き、SLの走る線路を渡って国道へ出ると10棟ほどの平屋造りの初期の団地があり、その中ほどにバス停があった。

線路に沿って用水路が流れ、踏切横が私の釣りの遊び場だった。
踏切には遮断機は無く、線路を隔てる柵もない。
天気の良い夏の日は学校が終わるとすぐに釣りに行き、すぐそばをSLが走るので間近に見て遊んでいた。
線路に柵が無いのは、
例えば線路を歩いて居ても、汽車が来れば線路から離れて汽車をやり過ごせば良いだけだ。とういうのが当時の共通の世間常識である。
事故が起これば 線路を歩いて避けなかった者が悪いだけだ。(自己責任感覚が当然だった)
だから線路では自殺者や踏切で足が抜けなくなっての事故以外、線路を歩いての事故はほとんど無かったはずだ。

(続く)

ポスト小泉、改革路線継承の愚

2006年08月25日 17時10分53秒 | 格差社会と政治
安倍氏は次期総裁候補として「靖国参拝」を含め、小泉改革路線の継承を表明している。
自民党内には若手議員を中心に安倍氏を応援している模様である。

若手と言っても団塊ジュニア世代のような実年齢の若さなのか、議員経験の浅さ(若さ)なのかは私自身もはっきり判らない。
しかし、靖国参拝支持者が国民の若年齢層に最も多いことを考えれば、若者の共感を得やすい団塊ジュニア層の議員が票採りには優位と考えても不思議ではない。

靖国神社を冷静に考える (Blog.Yahoo) と、
近隣諸国からの批判を浴びている靖国参拝は、若者達に対して強国日本を象徴するには都合がよく、多くの批判を受けても強引に突き進む姿はヒーローそのものに映るのであろう。

しかし、
昨年の郵政解散となった衆院選挙では、郵政民営化の反対票が半数を超えており、自民党圧勝後の小泉政権下では、年金支給額の減額、介護保険料の増額、年金世帯の大増税などが行われ、弱者をより弱者に、強者をより強者にと 不公正な格差社会を政府主導で推進してきたのが小泉改革である。

小泉改革の総決算期である今年、
民営化された(元)道路公団が発表した収支は大幅黒字。
加えて、
年金や社会保険等までが 黒字計上 だと発表された。
(ただし来年(2007年)は赤字見通しというコメント付きでの発表である。)
現在はやりの 粉飾決算 ではないのかと思っている。

氷山の一角(勝ち組)になりたいと望む若者や、自分に都合良く政治を動かしてきた財界大企業。
反して、政治によって弱者に仕立て上げられた多くの底辺層。

改革と名付けた 財閥復活などの勝ち組に優位な日本の戦前スタイルへの復古が現実だ。

戦後、財閥解体と合わせて得た 国民の選挙権と民主主義。
改革路線の継承は、戦前戦中と同様に一般国民から選挙権を剥奪でもしなければ、政治生命を危険にさらすかも知れない。

始めてのパトカー体験

2006年08月24日 12時05分23秒 | Weblog
年末のことだった、
8月4日のBlog で記述したように、横浜での生活第2弾の滑り出しは上々だった。
その春からの業務内容も変えた転職であったが、仕事では、職場や顧客の評判も良い。
中途採用の新人教育は私の担当となり、実務も自分のやり方で仕事も進めることが出来ていた。

その日も仕事を終え、東京・浜松町駅から京浜東北線に乗り東神奈川で降りた。
仕事帰りは時間に余裕があるので品川と横浜で乗り換える必要のある東海道線ではなく、浜松町駅から座って来られる京浜東北線を利用するのである。
いつもの外食コースである 六角橋 を目指してブラブラ歩いていた。

そして途中にある東急・東横線東白楽駅のところで事件は起こった。
今は無くなってしまったようだが当時は刃物屋さんがあり、その店先を通り過ぎる時だった。対向してきた初老のおやじさんが肩をぶつけてきた。

突然おやじさんはオーバーコートの上から私の胸ぐらを掴み『何しやがる!』と言いがかりをつけてきた。

私は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、
”やれやれ、また面倒な事に巻き込まれたか..”と思いながら恐がりもせず応対していると、今度はいきなり商品の並ぶ店先の台の上に押し倒されてしまった。
近くにいた女性の二人組が悲鳴を上げたので店主も飛び出してきた。

私は立ち上がろうと台に手をつこうとしたが、むき出しの鎌(かま)や出刃包丁、ハサミのたぐいがびっしり並んでいて危ないったらありゃしない。
幸いにも怪我もしなければ衣類も一切破れはしなかった。
手をポケットにつっこんでいなければ、倒された拍子に台に手をついて大けがをしたことだろう。

私は咄嗟に思った。
安月給の身で眼鏡を壊されてはかなわない。壊される前に安全なところにしまって置こうと、ようやく立ち上がってからゆっくりと眼鏡を外した。
するとそのおやじさんは、私が本気でやる気になったと勘違いしたらしく慌てて出刃包丁と鎌(カマ)を取り上げて私に向けた。

その初老のおやじさんにとって不幸な事は、私にはトラブルは慣れっこなので相手から何をされても全然怖くないのだ。
しかしこのままでは、見ている女性達が怪我をするかも知れない。
女性たちが逃げないのには理由がある。
直前を歩いていた女性達がおやじさんが歩いてくるのを見て脇によけようとしたのだがおやじさんはなおも女性たちに近づいて行った。
その時私が肩を割り込ませておやじさんを止めたのだ。

店主は大慌てで店先の刃物を片づけ始めた。
私はおやじさんを店の横の人のいないところへと誘い出した。
それでもまだおやじさんは出刃と鎌(カマ)を振りかざして、私を脅してくる。

私は思った。
「ん?もしかすると刺されたときのヒトの心の動きを経験できるかも知れないなぁ..痛いんだろうなぁ..」と心を決めた。
正に、キチガイに刃物である。
しかしこの場合は「キチガイに刃物を向けても空しい」という意味で、本来とは別な意味だ。

おやじさんは、いくら脅してもコートのポケットに両手を突っ込んだまま全く動じないし、刃物を向けられているのに大声で怒鳴りつけてくるという全く予測不能な事態に困り果てている。
とうとう手に持っていた刃物を自分の足下に投げ捨てて、
『オレはヤクザでこのあたりでは顔だから、何かあればオレに云ってくれれば良いから』と照れ笑いしながら去って行った。
するとその方向から警官二人が歩いて来るのが見えた。

刃物屋の店主は警官に向かって私を指さしながら「この人と今そっちに逃げて行ったソイツです」と叫んでいる。
私は慌てて警官の元へ行き『いや、もう終わりましたから..(私は)大丈夫ですから..』と説明すると、
その警官は「ヤクザが二人、店先で喧嘩してると通報があったのだ。もう終わりましたじゃない!」とすぐ後からやってきたパトカーに私を押し込んだ。

車道側のドアに私を押しつけるように警官が横に座ったまま暫く待つと、もう一人の警官もあのおやじさんを連れて帰ってきた。
私とおやじさんを分つように警官が真ん中に座ったかたちでパトカーは警察署へと走り始めた。

たぶん後部座席は内側からドアは開けられないのであろう。
狭い後部座席の両窓側に被疑者らを座らせ、警官が真ん中に座れば身動きができない。
外に目をやりながら『私が被害者なんだけどなぁ~』『歩いて来たら助けにならないじゃん』と思いながら始めてのパトカー乗車を経験した。

感想:
 警察官監視下の車内は狭いしキツイし惨めな気分にさせられた。後部座席は乗っても大して面白くない。

連行された警察署では長い時間調べあげられたが、
あのおやじさんは観念したらしくありのままを自供したのでようやく私が被害者であると分ってくれた。

警官が、おやじさんは一泊させるが私は帰っても良いと云ったのでもう一度おやじさんと話がしたいと頼んだ。

嫌われ者ジョージィのかまし技、最後のシメ(嫌がらせ)を行うつもりだった。
私はしょぼんとしているおやじさんに手を差し出し握手を求めた。
相手の手を堅く握り、自分に引き寄せて、
「今後私以外のヒトに何かやっているところを見かけたらタダでは済まさないよ!」
と脅すつもりだった。

私は嫌気たっぷりにおやじさんの手をぎゅっと握った。..が、私はハッとしておやじさんの手を見つめた。
荒れてカサカサになっているしヒビ割れもある。

私は何も言えなくなって、そのまま手を放し帰ってきた。
見ていた警官には「ヤクザの身内同士の別れ方」に見えたかも知れない。
翌日から私の近所で聞き取り調査が入ったようである。

警察署からの帰り道、寒い夜道を歩きながら気がついた。
「あぁ~っ!また失敗しちゃった。おやじさんに私の手袋あげてくればよかった」
今から戻るには遠すぎる。相変わらずの自分の気の回りの悪さを情けなく思いながらそのまま歩いて帰ってきた。

※ 白黒模様のパトカーにはこのときが最初で最後。次回からは覆面パトカーの助手席にしか座らせてもらえなかった。

ジョージィの住環境と略歴(2)-2

2006年08月23日 17時33分50秒 | Weblog
何故、あまり親しくない人たちが(テレビを看に)来ていたのかを考えていたら思い出した。
私に対する父親の行動が背景にあった。

以下は母が話した内容である。
母の妊娠が判った時、「子供は嫌いだから堕してこい!」と父に云われたと言う。
母も素直に病院に行き「堕胎して欲しい」と頼んだところ医者から懇々と説教され、堕胎もしてもらえず、どうしたものかと困り果てての帰宅途中の夕方のこと、
近道の児童公園をしょんぼり歩いていると一人の暴漢が現れたそうだ。
抵抗したが無駄で、もうダメかと思ったとき「私のお腹には赤ちゃんがいる」と言うと、その暴漢ははじき飛ばされたかのように飛び退き、土下座して何度も何度も謝りながら去って行ったのだそうだ。

家に帰り、父に一切の事を話すと父も堕胎を諦め、私が誕生したという。
生まれてみると「子供は嫌い」と言っていた父が一番の子煩悩になったのだと。

私は成長し、近所の子供たちは市立の保育所(当時幼稚園は無かった)に行くのだが、私はひとりで遊ぶ方が楽しいので毎朝徹底的に逃げ回っていた。
しかしいつも捕まり、毎日泣きながら父の自転車の後ろに乗せられての強制登校(登所?)となった。嫌なことだからいまでもはっきり記憶がある。

そんな風だから、小学校に上がっても学校が嫌でたまらない。
授業が終わっても、皆と遊ぶよりひとりで遊ぶのが楽しいのだ。
木ぎれをノコで切って船型を作り、写真の川であれこれ工夫して遊んでいた。(おかげで「流体」に関する授業は人一倍理解が早かった)

私が「集団生活」に弱いと気づいた父は一計を案じ、勤務先から娯楽用の 16mm 映画を借りだし、自宅で映画会を開いたのだ。
最初は私の親しい友人だけを招いたが、評判を呼び 映画会は毎月開かれた。
父はガリ版でチラシまで作り、近所の誰にも声をかけたので大人も子供も 狭い部屋一杯に身体を寄せ合っての映画鑑賞会となったのだ。
また、新し物好きの父はあらゆるネタを探し、私は珍しい機械に強い興味を抱くようになった。

父のおかげで、私が道を歩けば近所のおじさんおばさんが声をかけるので大人たちとも誰とでも話をするのに抵抗はなくなり、同年代の友人らと遊ぶ楽しさも知った。

関連記事(追加)
'08.08/07 <女性を護る>出来ごと.. (母の回想)

ジョージィの住環境と略歴(2)

2006年08月23日 13時10分25秒 | Weblog
最近古い写真等を探しているのだが目的のものがなかなか見つからない。 目的のモノは見つからないのだが、珍しいものが出てきた。 以前母が「不要なモノを捨てていたら、こんなのが出てきた」と送って来たネガを焼いたモノだ。



時代は1960年代初頭頃だと思われる。 地方都市の中心である駅から1キロくらい離れた場所。 8月3日のBlog に記した住まい から奥へ50mほど離れた川にかかる橋の上だ。 (手前にある道路は現在、片側3車線ほどの大きな道路に変わっている)

川と言っても 用水路なので川幅は広くはない。しかし水量が多いので流れは早い。
この下流の百メートルほど先には 天然ワサビが群生していて誰でも自由に採っていた。私もよく 父のワサビ採りにつき合わされたものである。

母が座っているのが橋の4端を示す丸太のひとつである。
橋には欄干が無いからこの丸太と丸太の間を目印にして渡るのだ。 増水時を考慮して通常時でも橋上から川面までは1m以上もあるし、何か(事故等が)あっても運良く歩いている人はごく希だ。

たとえ小さな子供であろうと もし落ちたなら自力ではい上がる必要がある事は理解せざるを得なかった。 板張りの橋はところによっては穴(フシ)が空いているし、補修の板を打ち付けたところは出っ張っている。
子供心にも川を越えるときには 毎回必死の決意をして渡っていたものだ。

<持つ人が持たない人の為に>
写真を撮っているのは父ではない。
我が家は貧乏公務員であったから、たぶん仲良しだった友人のお父さんではないかと思う。

昔は持っている人が、持たない人のために何かするのはごく当然だった。

このときも母が頼んだか、私の友人のお父さんが気を利かせて記念写真を撮ってくれて、そのネガを渡してくれたものであろう。

後年、別な友人の家でテレビを買ったことで、私は連日あそびに行っては夕飯までも御馳走になってくるので、「迷惑をかけるから..」と我が家にもテレビが来た。 我が家にテレビが来ると、そんなに親しくないご近所さんでも「テレビを看せて」と気軽に頼みにくる時代だった。

外出中にトイレに行きたくなっても平気だった。
全く知らない家であってもノックをし「トイレ貸してください」と頼めば良いのだ。 1965年頃の団地住まいの時も、全く知らない人たちが我が家のドアを叩き、「トイレ」を頼みに来るので、その時には当然のごとく貸してあげていた。

<電話さえも..>
後年移り住んだ団地内のたった一件のスーパーには電話があった。 もし団地内に住む人と話がしたければ、スーパーに電話をかけ「○○棟△△号室のXXさんをお願いします」と頼めば店員さんはその家まで呼び出しに行ってくれるのだ。それがしごく当たり前だった。

この写真は私が、「将来の日本は変わる」と気づく8年ほど前の写真である。

日本漁船銃撃・だ捕事件で政府(外務大臣)報告がなかったが

2006年08月22日 23時06分20秒 | 格差社会と政治
時事通信記事によると、
自民党の武部勤幹事長が24日から6日間の日程でロシアを訪問することになったらしい。
目的は、北方領土周辺海域での日本漁船銃撃・拿捕(だほ)事件に関し、ロシア政府に乗組員の早期解放と謝罪・賠償などを要求するという。

銃撃事件直後の 外務副大臣と外務大臣政務官をロシアと北方領土へと送り、派遣したものの、遺体引き取り等を担当し当事者に会い北海道地元住民と接した外務大臣政務官の報告が無いと気になっていた。

事件発生から一週間、未だに事件の詳細報告がない。
さらに、よほど金(国費)が余っているのか、
今度は(北海道の)地元出身の武部幹事長自身がロシアへ向かうという。
犠牲となった乗員を含め、地元民へのアピールのつもりなのだろうが 小泉政権の「北方領土に関する対ロシア外交」の怠慢が許されるものではない。

それにしても6日間とは、
事件が起こったので 夏休みの行楽地がロシア(モスクワ?)になったという事か?
ロシア政府の農相と会談目的渡航のようだが、一人のロシア農相との会談で6日間?
随行者ご一行費用も含めた国費利用。6日間の行動内容報告と経費内容の開示等、国民への義務は果たされないまま、強国日本 を印象づける報道となるのだろうか?

新しいシェーバー BS4776

2006年08月22日 19時31分34秒 | Weblog

ようやく、新しくシェーバーを買った。
ブラウン(BRAUN)BS4776 だ。ブラウン製品としては2代目である。
開梱して商品を取り出したとき、一瞬「返却しようか」と考えた。
ハードケースが付属しているからなのか、ヘッドカバーが無いのだ。
電源コードも 100V-240Vの変換トランス付きらしく、コンセント差し込み側がデカイ。
しかも充電池は(マニュアルによると)ニッカド電池になっている。
中途の再充電に弱いじゃないか.....

とにかく、私の利用環境を考えるとヘッドカバーが無いのが致命的である。
初代機はよく床に落下させてたし、旅行に行く際は本体にカバー(キャップ)をつけただけで電源コードと一緒に洗面バッグに放り込んで持ち歩いていたからだ。

新機種はハードカバーといいトランス付きの電源プラグといい全体の容積が大きくなってしまう。
かつ、網刃や内刃 を破損してしまったときの費用を考えると ちょっとばかし(購入後だが)悩んでしまった。

しかし結局、そう高いモノでも無し(安いから買ったのだが)3枚刃の剃り味も気になって買ったのだからと、利用を決めた。

そして最初のひげそりと相成った。
購入したてなのに充電ができているので不思議に思ったが、ひげそりの途中でランプが赤く光り出し、バッテリー切れになってしまった。
スイッチを入れ直せば2~3秒は持つのだがとうとう充電が必要となった。

充電中、いつものブラウン(初代目)で残りを剃った。
案の定いつもの場所には剃り残しができた。ちょうどいい、この剃り残しがどうなるかが見物である。
一時間もすると、充電中のグリーンのランプが消え充電完となった。
早速剃り残し部分に充ててみた。

結果は?
どうやら剃れているようだ。いつも気になっていた剃り残しが解消されるのなら、しばらくコイツを使ってみよう。


私の初代ブラウンシェーバー。

BRAUN System-123 を20年近く使っていたことになるのかな?
(この3点が私の旅行時のセットだ)
最近というかこの一年近く、充電が不良になり、使用時は電源コードを使って剃っていた。
充電池を交換しようか、新しいシェーバーを購入しようかと迷っていたからだ。
しかし迷うのは一日おきだから、不便さは半分だった。
私の肌がデリケートなのか、肌に充てている時間がヒトの2倍だからなのか、
シェービングクリームをつけてのカミソリでも、電気カミソリでも、どちらも2日続けて使えない。連日続けると肌が痛んでしまうのだ。
シャワー後の電気カミソリとシャワー中の2枚刃カミソリ を交互に行っている。


最近の商品のなにごとでもだが、
旧製品のほうが非常によい設計であり、良い製造がなされていると感じている。

今回も2代目シェーバーを買ったおかげで、旧来製品(初代品)の良さも判った。
初代品は捨てずに活用していこうと思う。


ロシア領海での北海道漁船拿捕と愚民政策のツケ

2006年08月19日 03時29分23秒 | 格差社会と政治
ロシア領海で密漁を行い、ロシア国境警備隊の銃撃を受け、拿捕された北海道漁船の事件では、日本政府の対ロシア対応の後手後手がはっきりと現れている。

ロシア側が「遺体を返還する」と発表した後の夜、「遺体(と乗員)の早期返還を求める」と、副大臣をロシアに送り、次に(必要性がわからないが)大臣政務官を北海道に送った。
そして副大臣や政務官がロシア側との接触前に、ロシア側から船長以外の乗員の返還をも提示している。
そんな中(18日)には連立与党の公明党が「抗議文」を発表した。
政府与党の「愚民政策」なのだろう。
ロシアは日本側の要望をハナから理解しており、日本政府行動の前にロシア側から通知を繰り返してきている。
外務副大臣と政務官の派遣は「子供の使い」に等しい。

ロシアと北海道の友好関係の現実を教えないまま、日本政府はロシアを敵性国にしたいらしい。
当地の漁業関係者なら、銃撃による乗員死亡は「事故」で有ることは容易に理解できる。
また銃撃されるのもやむなしの密漁行為にも至っているのだ。
小泉改革の無策で、地方景気は最悪なのである。
対ロシア外交、とりわけ北方領土問題は置き去りにされたままの小泉改革なのだから、そんな中で、危険を冒してでも漁業を行わざるを得ない。

それにしても、無くなって始めて実感した事だが、
地元出身議員が武部幹事長に代る前の鈴木宗男氏の功績(対ロシア関係)は確かに有ったと多くの道民は感じていることだろう。
武部氏はそれを継承せず、失わせた結果となっている。

それでも北方四島(ロシア)と北海道の関係は決して悪くは無い。
政府のウソ(愚民政策)に惑わされず、しっかりした事実関係が報告されるのを待ちたい。

大やけどしたロシア人の子供を北海道に移送し助けた事がきっかけとなった信頼関係であるのに、日本国民全体のロシアに対する敵愾心高揚は、北海道民とロシア人との関係悪化を招きかねない。

行け行け、嫌われ者ジョージィ

2006年08月17日 00時20分16秒 | Weblog
私はとにかく嫌われる。
20代前半には「敵を作っても仕方がない」と、少しは努力もしたが、やっぱり嫌うヤツは嫌うのだと諦めた。

そもそも私が中学3年の時の10月、
小駅廃止政策で父親の転勤が決まり、(担任の教師は止めたが)小中学校合わせて130人(中3生徒18名)の過疎地から、中学3年生だけでも400名強の中学校に転校してからだった。

受け入れ校も心配した成績だが、中間テストの成績が数理とも一番だったのだ。
過疎地の学校では、中学からの担任教師が国語担当だったので国語の成績も悪くない。
文化祭での審査委員長として総評したときの出来事も理由して、私は生徒会の生活委員長にさせられてしまったのだ。

おかげで何事か生徒同士のトラブルがあると必ず私が呼び出される。
私が仲裁に入ると「気に入らないヤツだ!」と、私が身代わりに暴力を受ける羽目になった。
しかも何が因果か、校内一の乱暴者「番長」は同級生であり、私の転校初日以来彼の席は私の真後ろだった。

授業中も休憩中も私と彼とはイザコザの連続。
彼を支援する不良グループと、暴力を嫌うグループは私につくという構図が始まった。

(続く)