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飛騨王国関連を探す 続☆51 2021-07-12

2023年11月16日 | 続☆歴史の中の「経緯」

飛騨王朝なるものは、どういうものであったか?

を、調べてこようと思い

まず、ウィキ。

飛騨国を見る。

しょっぱなから、引っかかる。

飛騨国(ひだのくに、旧字体: 飛驒國)

飛驒の驒

あしげに灰色のまだらもようのある馬。連銭あしげ。

「驒驒(たんたん)」は、馬が疲れてあえぐさま。

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まず、浮かぶのは、高天原でのスサノオの暴挙。

斑駒を機織り機に投げ込んだ・・・

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なんだか、飛驒=空飛ぶ斑馬と読めてくる。

馬を投げ込めるわけがなかろう。と、いつか、かいたが

本当は、空飛ぶ斑馬にのって、あたりを巡った?

機織り機の近くにも巡った。

驚いた機織女が・・・

と、いう想像が浮かんでくる。

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「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『続日本紀』に文武天皇の治世下の大宝2年(702年)夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『万葉集』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。

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「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」

巨勢

許勢、居勢にもつくる。大和(やまと)国高市(たけち)郡巨勢郷(奈良県高市(たかいち)郡高取(たかとり)町から御所(ごせ)市にかけての地)を本拠とした古代豪族。『古事記』(孝元(こうげん)記)に建内宿禰(たけしうちのすくね)の子許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)は許勢臣(おみ)、雀部(ささきべ)臣、軽部(かるべ)臣のとある。巨勢氏の氏人は『日本書紀』では継体(けいたい)朝の大臣(おおおみ)巨勢男人(おひと)以降に集中的にれ、6世紀に入って台頭した新興氏族と想像される。男人の大臣就任は、その女(むすめ)の紗手媛(さてひめ)、香香有媛(かかりひめ)が安閑(あんかん)天皇妃(ひ)とされたこととあわせて疑いがもたれるが、欽明(きんめい)朝以降の氏人の活動を点検すると、朝鮮問題に関与し、軍事氏族として大きな勢力を有したらしい。蘇我(そが)氏政権下では大臣を補佐する大夫(まえつきみ)の要職にあり、649年(大化5)には徳陀(とこだ)が左大臣に任ぜられた。壬申(じんしん)の乱(672)では近江(おうみ)朝側に属したが、684年(天武天皇13)朝臣(あそん)の賜姓にあずかり、その後も平安朝初期まで一族から黒麻呂(くろまろ)、麻呂(まろ)、邑治(おうじ)、堺(さかい)麻呂、奈氐(なて)麻呂、野足(のたり)ら公卿(くぎょう)を輩出した。

#733 ぬばたまの 斐太の大黒 見るごとに ・・・ 続く返歌 : 万葉歳時記 一日一葉 (livedoor.jp)

真っ黒な飛騨の大黒を見るたびに、
巨勢の小黒を思い出してしまうよ。

 飛騨地方の万葉歌です。元々はこの地方を表すのに「斐太」あるいは「斐陀」の字が当てられていました。「ぬばたま」は黒にかかる枕詞。『続日本記』の記録には702(大宝2)年に斐太国が神馬を献じたとあります。この歌にある大黒というのがその馬のこと。文武天皇がこれを瑞祥として天下に大赦を行ったのを機に「飛騨」の文字になったといいます。ただ、この歌は巨勢豊人(こせのとよひと)と巨勢斐太いう二人の友人を「小黒」と呼んで揶揄した戯笑歌です。二人とも相当色が黒かったようです。ただし、豊人さんはやられたらしっかりやり返しています。

駒造る 土師《はじ》の志婢麿《しびまろ》 白くあれば
諾《うべ》欲《ほ》しからむ その黒色を
  ~巨勢豊人 『万葉集』 巻16-3845 雑歌
埴輪の黒馬を作っている土師(土器造り)の志婢麿(水通の字名)だが、せっかく作った馬の色が白すぎるから、
きっと欲しがっているのだろうよ、こんな黒色をね。
 
土師

土師氏は、「土師」を氏の名とする氏族。 天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。

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斑駒ー黒馬

???????

斑駒の産地?であるのに、黒馬????

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阿多由太神社(あたゆたじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社

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阿須波之神 >

座摩神(いかすりのかみ/ざまのかみ、坐摩神)は、神祇官西院において祀られた次の5柱のの総称。

  • 生井神(いくゐのかみ/いくいのかみ)
  • 福井神(さくゐのかみ/さくいのかみ) - 「栄井神」とも
  • 綱長井神(つながゐのかみ/つながいのかみ)
  • 波比祇神(はひきのかみ) - 「婆比支神」とも
  • 阿須波神(あすはのかみ)

平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である

「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、『古事記』においては大年神天和迦流美豆比売の間に生まれた御子神としており、宮中の敷地を守る神々とされる。『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している

神祇官西院では、最重要視される大御巫8神は八神殿に東向きで祀られていたが、他の座摩巫5神・御門巫8神・生島巫2神は北庁内に南向きで祀られたと見られる。座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている

 

古くは『続日本紀』において天平9年(737年)に「坐摩御巫」が爵を賜ったと見える。また、前述のように大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』で記述が見えるほか、貞観元年(859年)には同じく宮中奉斎の櫛石窓神・豊石窓神・生島神・足島神とともに神階を従四位上に叙せられている。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている

座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる

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阿多由太神社(あたゆたじんじゃ)

阿 ー我・私 多ー田(祭祀ー口の中に十字架)ー(崇神天皇) 由太(ユダ)

さすだけの 刺すだけ(たけ)の・・・(佐須太気能)から、太は「ダ」

::太夫も(だ)ゆう。

阿多由太 私はユダを奉る

と、取れる。

ユダとは𐤉𐤄𐤅𐤄(ヤハウェ)に感謝するという意味。

創建時期は不明である。日本三代実録によると貞観9年(867年)に従五位上を授けられており、古くから位の高い神社であったことが確認できる

:ただし、あとからの配神として、合祀。

:香椎神社にも・・・

(ここは、シナツヒコを祀っているー春分秋分をはかるー神功皇后とともに?三韓征伐に赴いたときに

崇神天皇が亡くなっているとかで、中国式?

霊廟とともにあるようである)

ーユダ王国とは、関連がないのか?

スピカ(シナツ星)を計測したのは

スピカは秋分点の近くにある1等星であるため、しばしば歳差運動の観測に利用されてきた。古代ギリシャの天文学者ヒッパルコスはスピカの位置を観測することで初めて分点の歳差運動を発見した。テーベの神殿は紀元前3200年前に建てられた時、スピカの方向を向いていた。時代を経るにつれてその歳差運動により、神殿の建設された頃の方位からスピカの方向が異なっていたのである。のちの時代の天文学者コペルニクスも、歳差運動の研究のために、手製の望遠鏡でスピカを何度も観測している。

テーベ

「古代都市テーベとその墓地遺跡」はエジプトのナイル川沿い、ルクソール近郊にあり、地中海からおよそ800㎞南方に位置しています。テーベは約1,000年もエジプトの首都として栄華を誇り、現在ではルクソールと呼ばれています。

カルナック神殿やルクソール神殿の他、ツタンカーメンの墓がある「王家の谷」や数々の葬祭殿が点在しており、考古学的価値が非常に高い一大遺跡地区です。1979年、世界遺産に登録されました。

エジプト系?ユダ王国の考え?+中国ー秦 経由?

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いろいろ、ありすぎて、飛騨王朝にいきつけないじゃないか・・・

大物主がでてくるし~~~~~~wwww

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