2015年、謎は今も謎のままのエネルギーが仮令岩手を離れようとも
岩手県の面白さに変わりはないため、
今年もまだまだ、岩手地本を追いかけていこうと思いつつある台風の夜、いかがお過ごしでしょうか。
先日行った岩手県で撮った写真を自衛隊岩手地方協力本部の復興の兆しというコーナーに応募したら、掲載されました!
「陸前高田「希望の架け橋」見学と三鉄南リアス線」というツアーは、株式会社のびあが企画した旅行で、通常では入れない工事現場に入れるという、特別感を味わいたい気持ちが満たされる内容でした。
満たされるといっても、被害に遭った地域なので、なんとなくどこまでカメラを向けていいものか、ちょっとボーっとしてしまうこともありましたが、見逃したら二度と見られないし、まだ生まれていないなどの理由で、あとになって知りたい人の代わりに見ている気持ちになり、今回は、遠慮会釈なく、ばんばんばんばん、写真を撮り続けた一日でした。
テレビの特集や本では読んでいたけれど、実際それぞれの駅にいながらその時の話をきくと、車内がプラネタリウムではないけれど、
当時の情景を映し出しそうで、メモなどを取ってみて自分を保つのが精いっぱいでした。
メモより
・クエートからの支援を日本円にかえた時、三陸鉄道の車両になったのは、全部で3台。
・「釜石の奇跡」と呼ばれた児童の被害が少なかった要因に、群馬県で津波を専門にしている教授が、津波からいかに避難するかの指導を徹底したからで、学校にいた子は全員無事であった。この時、被害にあった5名は、学校を休んでいた子と、地震に驚き可愛いわが子をお父さんが連れて帰り、そのまま父子は流されてしまった子であったそう。この教訓から、今後は絶対に引き渡さない、【てんでんこ】を徹底する。
・唐丹駅 昔の津波の時にはなかったスーパー堤防が災いし、波の動きが読めず、思わぬところに被害があった。
トンネルの中で地震が起き、2時間経っても停電で、電波も悪くさっぱり分からない。服務規程を犯すことなのだそうだけど、乗客を残したまま、線路沿いに歩くと、通りすがりの人に、津波で全滅だということを聞く。ヒッチハイクで避難所へ着いたという。
当時、ラジオでは行方不明と報じられた車両は、ここで助かっていたそう。
・吉浜駅 過去の事例より、ここに家を建てるなという教えを守り、被害もっとも少ない。
車両から朝日が拝めるほど風光明媚。田んぼに塩水が入ったため、震災後4年半たった今年やっと収穫の時期を迎えている。
・三陸駅 お年寄りの施設で逃げ切れず、多くの人が犠牲に。黙とうをした。波打ち際の位置がかわった。秋には干し柿がかかる。
・甫嶺駅 三陸鉄道の線路が防波堤の役をして、その先に被害が広がらなかったそう。
・恋し浜駅 もともとは駅ではなかった。熱い要望で駅になったため、停車中の鉄道は斜めに傾いてしまう。ホタテ絵馬で有名。
震災後いち早くホタテ漁を再開させた。元気源みたいな駅。
・稜里駅 明治にあった津波で国内最大級の高さの波をあびたところ。震災前から津波に警戒し、子ども達は津波から逃げる劇をするのがならわしになっている。震災の時、このホームが高いところにあるのでと子ども達が集まったが、身の危険を感じもっと高いところへ逃げて助かったという。これを「津波の二度逃げ」と呼ぶ。
・三陸鉄道南リアス線には19のトンネルがある。
・沖合の海底のガレキ処理は進んでいないけれど、小魚が住みついているので、そのままの予定だそう。(海底も震災学習などの観光名所となる予感がします)
このあたりのアワビは高級中華食材の材料となっているそう。知らずに中国で食べている方、たくさんいるはずです。
続いて、陸前高田市の工場見学。
巨大ベルトコンベアーを最初に見たのは、たかたのゆめちゃんのツアーの時でした。
何もない土地に真っ白な、妙にかっこいい橋が渡る姿は、テキサス州とかロサンゼルスとか、そういう単語が出て来る景色です。
たまにしか行かないし、たまにしか見ないので、かっこいいという気持ちを抱いてしまいます。
ベルトコンベアーだけでも、普段見られない場所にいったと思えるのですが、今回もっとも衝撃的だったのは、
道の駅「高田松原」タピック45の裏側を見て、そこを登るというものでした。
強烈でした。射抜かれた気持ちです。
それでいて、コワイと思っているものをちゃんと目にして脳が認知した、さっぱりした気持ちにもなりました。
不思議です。
ここでは助かっています。どうやってそこにあがったのかさっぱり分からない高さのところへ逃げて、助かったそうです。
多分、ひとりでも怪我人が出たら二度と入れない場所だと思います。道の駅から防潮堤工事現場をパチリ。
この、陸前高田市に入ってからツアーにガイドがつきました。
まるごとりくぜんたかた協議会の方だそうです。
実際に被災された現地の方が集まった市の組織だそうで、陸前高田市はそのあまりの被害ぶりに、ふるさと納税もストップしていたのですが、今年から再開されています。この案内組織は昨年4月にはじまったようです。
ここまでの長文を読んでくださっている皆様、震災についての思い出を、親しくなった人から無料で聴こうなどと思っていませんか?
思い出も商売になるんです。応援になるんです。また、きちんと正確に下調べされた内容を拡散するために、お金を払ってきくというのを、心がけてみませんでしょうか。誰だって個人のことなど、しゃべりたくないことがあります。でも、ガイドは話すことを仕事にしています。
様々な被害の例で、頭に残っているのは、波をかぶっても逃げおおせた園児たちの上に雪。寒さで、亡くなったこと。
高校受験も終わった春休み、風光明媚な陸前高田をサイクリング中、土地勘もなく逃げる場所が分からず亡くなった中学生。
お昼はレストラン…ではなく、昔から陸前高田にお住まいで、おうちは見事な気仙大工の手による村上さん宅でご馳走になりました。
なんだかあんなに見知らぬ人の食事の用意をするなんて、自分だったら釈然としないだろうに、いくら震災があったからといって、
今度はレストランとかで、村上さん一家も誘っていきたくなる想いがわきました。でも、すっごくおいしかったです。
ホタテも大きいのを31名分、2個ずつ用意してあり、どれほどの手間であったかがしのばれます。
お茶も大変だったと思います。本当にありがとうございます。また何度も旅行で行きます。お宅に立ち寄らなくても行きます。
田んぼができてるといっても、海水がかぶった場所をボランティアなどの人々の手により、復活した米栽培、リンゴ農園、葡萄農園。
そういうことを改めて思うと、もっともっと時間ができたら行って、写真を撮って、本当においしいし、何か買ったり食べたりしなければ、移りゆく景色を見てみたいと思わされます。
で、話は戻りまして、今回のツアーを企画している株式会社のびあ代表取締役の高橋さん曰く、のびあで今後も継続していきたい震災学習的なツアーは2つあって、今回の南リアス線と陸前高田市、そして、私は昨年のに参加したのですが、あまちゃんのロケ地ツアーというのも、震災学習ツアーなのだそうです。三陸鉄道北リアス線沿線も、多くの被害に見舞われたそうです。
特に駅からもすぐに体感できる野田村が目に入ることで、震災があったことを意識して欲しいという意向なのだそうです。
岩手県の久慈市ことモデルになった北三陸市はドラマの中でもそんなに大きな被害はなかったという紹介をされていますが、おそらくそれは港のすぐそばに民家がなかったなどの防災が働いていたからかもしれませんし、細かい紹介がその程のツアーでは、語られるのかもしれませんので、来年、もしさんさ踊りとか、何かと重ならなければ、また参加したいと思いました。
今回のツアー中、代表の高橋さんも同行されていたのですが、ご自身が企画運営されたチャリティーで陸前高田の学校に寄付金を手渡しする時、学校の先生から聞いた話に、「ことあるごとに黙とうをするのですが、やめたんです。哀しい記憶がある年頃の子だから、ことあるごとに思い出させるのでやめたんです。一年に一度にしたんです。でも、当時小さくて記憶がない子が登校してくる年齢になったら、知ってもらうために、ことあるごとに黙とうをするつもりです」と言ったそうです。
また、関東から来て、他のツアーにも参加したことがあったということで、夜、盛岡にある、陸前高田 俺っ家という被災されて盛岡でお店を出しているお店で、代表の高橋さんと、他の県外からの参加者の方数名とで一緒にお酒を呑んだのですが、その時きいた話の、ある家の子どもが地震の後津波から避難するとき、おばあさんが子ども達のお尻をひとりひとり押しあげてくれ崖をあがって波から逃れた。その家の子は最後の一人で、お尻をおされ、のぼったあと振り返ったら波の中、おばあさんが遠く手をあげて流れて行った。そのことを、震災から一年たってようやくその子のおじいさんに語った。家族の誰も知らなかった。
おじいさんは、心に(記憶に残って)いるそのおばあさんが喜ぶように生きていきなさいといったようなことを言ったところ、その子はみるみる明るく積極的な性格になり、行動的になった、という話、お酒をたくさん呑んでしまいました。
岩手県に旅行に行くときは、岩手県が主催した岩手県の企画による旅行を選択すべく、また行きたいツアーがあった時、参加したいと思います。
岩手県の面白さに変わりはないため、
今年もまだまだ、岩手地本を追いかけていこうと思いつつある台風の夜、いかがお過ごしでしょうか。
先日行った岩手県で撮った写真を自衛隊岩手地方協力本部の復興の兆しというコーナーに応募したら、掲載されました!
「陸前高田「希望の架け橋」見学と三鉄南リアス線」というツアーは、株式会社のびあが企画した旅行で、通常では入れない工事現場に入れるという、特別感を味わいたい気持ちが満たされる内容でした。
満たされるといっても、被害に遭った地域なので、なんとなくどこまでカメラを向けていいものか、ちょっとボーっとしてしまうこともありましたが、見逃したら二度と見られないし、まだ生まれていないなどの理由で、あとになって知りたい人の代わりに見ている気持ちになり、今回は、遠慮会釈なく、ばんばんばんばん、写真を撮り続けた一日でした。
テレビの特集や本では読んでいたけれど、実際それぞれの駅にいながらその時の話をきくと、車内がプラネタリウムではないけれど、
当時の情景を映し出しそうで、メモなどを取ってみて自分を保つのが精いっぱいでした。
メモより
・クエートからの支援を日本円にかえた時、三陸鉄道の車両になったのは、全部で3台。
・「釜石の奇跡」と呼ばれた児童の被害が少なかった要因に、群馬県で津波を専門にしている教授が、津波からいかに避難するかの指導を徹底したからで、学校にいた子は全員無事であった。この時、被害にあった5名は、学校を休んでいた子と、地震に驚き可愛いわが子をお父さんが連れて帰り、そのまま父子は流されてしまった子であったそう。この教訓から、今後は絶対に引き渡さない、【てんでんこ】を徹底する。
・唐丹駅 昔の津波の時にはなかったスーパー堤防が災いし、波の動きが読めず、思わぬところに被害があった。
トンネルの中で地震が起き、2時間経っても停電で、電波も悪くさっぱり分からない。服務規程を犯すことなのだそうだけど、乗客を残したまま、線路沿いに歩くと、通りすがりの人に、津波で全滅だということを聞く。ヒッチハイクで避難所へ着いたという。
当時、ラジオでは行方不明と報じられた車両は、ここで助かっていたそう。
・吉浜駅 過去の事例より、ここに家を建てるなという教えを守り、被害もっとも少ない。
車両から朝日が拝めるほど風光明媚。田んぼに塩水が入ったため、震災後4年半たった今年やっと収穫の時期を迎えている。
・三陸駅 お年寄りの施設で逃げ切れず、多くの人が犠牲に。黙とうをした。波打ち際の位置がかわった。秋には干し柿がかかる。
・甫嶺駅 三陸鉄道の線路が防波堤の役をして、その先に被害が広がらなかったそう。
・恋し浜駅 もともとは駅ではなかった。熱い要望で駅になったため、停車中の鉄道は斜めに傾いてしまう。ホタテ絵馬で有名。
震災後いち早くホタテ漁を再開させた。元気源みたいな駅。
・稜里駅 明治にあった津波で国内最大級の高さの波をあびたところ。震災前から津波に警戒し、子ども達は津波から逃げる劇をするのがならわしになっている。震災の時、このホームが高いところにあるのでと子ども達が集まったが、身の危険を感じもっと高いところへ逃げて助かったという。これを「津波の二度逃げ」と呼ぶ。
・三陸鉄道南リアス線には19のトンネルがある。
・沖合の海底のガレキ処理は進んでいないけれど、小魚が住みついているので、そのままの予定だそう。(海底も震災学習などの観光名所となる予感がします)
このあたりのアワビは高級中華食材の材料となっているそう。知らずに中国で食べている方、たくさんいるはずです。
続いて、陸前高田市の工場見学。
巨大ベルトコンベアーを最初に見たのは、たかたのゆめちゃんのツアーの時でした。
何もない土地に真っ白な、妙にかっこいい橋が渡る姿は、テキサス州とかロサンゼルスとか、そういう単語が出て来る景色です。
たまにしか行かないし、たまにしか見ないので、かっこいいという気持ちを抱いてしまいます。
ベルトコンベアーだけでも、普段見られない場所にいったと思えるのですが、今回もっとも衝撃的だったのは、
道の駅「高田松原」タピック45の裏側を見て、そこを登るというものでした。
強烈でした。射抜かれた気持ちです。
それでいて、コワイと思っているものをちゃんと目にして脳が認知した、さっぱりした気持ちにもなりました。
不思議です。
ここでは助かっています。どうやってそこにあがったのかさっぱり分からない高さのところへ逃げて、助かったそうです。
多分、ひとりでも怪我人が出たら二度と入れない場所だと思います。道の駅から防潮堤工事現場をパチリ。
この、陸前高田市に入ってからツアーにガイドがつきました。
まるごとりくぜんたかた協議会の方だそうです。
実際に被災された現地の方が集まった市の組織だそうで、陸前高田市はそのあまりの被害ぶりに、ふるさと納税もストップしていたのですが、今年から再開されています。この案内組織は昨年4月にはじまったようです。
ここまでの長文を読んでくださっている皆様、震災についての思い出を、親しくなった人から無料で聴こうなどと思っていませんか?
思い出も商売になるんです。応援になるんです。また、きちんと正確に下調べされた内容を拡散するために、お金を払ってきくというのを、心がけてみませんでしょうか。誰だって個人のことなど、しゃべりたくないことがあります。でも、ガイドは話すことを仕事にしています。
様々な被害の例で、頭に残っているのは、波をかぶっても逃げおおせた園児たちの上に雪。寒さで、亡くなったこと。
高校受験も終わった春休み、風光明媚な陸前高田をサイクリング中、土地勘もなく逃げる場所が分からず亡くなった中学生。
お昼はレストラン…ではなく、昔から陸前高田にお住まいで、おうちは見事な気仙大工の手による村上さん宅でご馳走になりました。
なんだかあんなに見知らぬ人の食事の用意をするなんて、自分だったら釈然としないだろうに、いくら震災があったからといって、
今度はレストランとかで、村上さん一家も誘っていきたくなる想いがわきました。でも、すっごくおいしかったです。
ホタテも大きいのを31名分、2個ずつ用意してあり、どれほどの手間であったかがしのばれます。
お茶も大変だったと思います。本当にありがとうございます。また何度も旅行で行きます。お宅に立ち寄らなくても行きます。
田んぼができてるといっても、海水がかぶった場所をボランティアなどの人々の手により、復活した米栽培、リンゴ農園、葡萄農園。
そういうことを改めて思うと、もっともっと時間ができたら行って、写真を撮って、本当においしいし、何か買ったり食べたりしなければ、移りゆく景色を見てみたいと思わされます。
で、話は戻りまして、今回のツアーを企画している株式会社のびあ代表取締役の高橋さん曰く、のびあで今後も継続していきたい震災学習的なツアーは2つあって、今回の南リアス線と陸前高田市、そして、私は昨年のに参加したのですが、あまちゃんのロケ地ツアーというのも、震災学習ツアーなのだそうです。三陸鉄道北リアス線沿線も、多くの被害に見舞われたそうです。
特に駅からもすぐに体感できる野田村が目に入ることで、震災があったことを意識して欲しいという意向なのだそうです。
岩手県の久慈市ことモデルになった北三陸市はドラマの中でもそんなに大きな被害はなかったという紹介をされていますが、おそらくそれは港のすぐそばに民家がなかったなどの防災が働いていたからかもしれませんし、細かい紹介がその程のツアーでは、語られるのかもしれませんので、来年、もしさんさ踊りとか、何かと重ならなければ、また参加したいと思いました。
今回のツアー中、代表の高橋さんも同行されていたのですが、ご自身が企画運営されたチャリティーで陸前高田の学校に寄付金を手渡しする時、学校の先生から聞いた話に、「ことあるごとに黙とうをするのですが、やめたんです。哀しい記憶がある年頃の子だから、ことあるごとに思い出させるのでやめたんです。一年に一度にしたんです。でも、当時小さくて記憶がない子が登校してくる年齢になったら、知ってもらうために、ことあるごとに黙とうをするつもりです」と言ったそうです。
また、関東から来て、他のツアーにも参加したことがあったということで、夜、盛岡にある、陸前高田 俺っ家という被災されて盛岡でお店を出しているお店で、代表の高橋さんと、他の県外からの参加者の方数名とで一緒にお酒を呑んだのですが、その時きいた話の、ある家の子どもが地震の後津波から避難するとき、おばあさんが子ども達のお尻をひとりひとり押しあげてくれ崖をあがって波から逃れた。その家の子は最後の一人で、お尻をおされ、のぼったあと振り返ったら波の中、おばあさんが遠く手をあげて流れて行った。そのことを、震災から一年たってようやくその子のおじいさんに語った。家族の誰も知らなかった。
おじいさんは、心に(記憶に残って)いるそのおばあさんが喜ぶように生きていきなさいといったようなことを言ったところ、その子はみるみる明るく積極的な性格になり、行動的になった、という話、お酒をたくさん呑んでしまいました。
岩手県に旅行に行くときは、岩手県が主催した岩手県の企画による旅行を選択すべく、また行きたいツアーがあった時、参加したいと思います。