植松努さんの投稿より抜粋
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自信のない人は、自分以下を作らないと、自分を保てません。
だから、がんばって人を見下し、さげすみます。
そして、日本人は、世界的に自己肯定感が低い。
だから、自分の趣味や、好きなことをしゃべろうものなら、否定され、バカにされる。
それじゃあ、自信の増やしようがないです。
だも、幸福度が低いわけだわ。
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うん、人を見下して話す人だなあと思うと自分はその方と話すのを止めて去ります。
その人を見下す話を聞くに堪えないから。
話を聞いていると自分もその話に同調しているようにならないか、そして、その見下す毒にまみれてしまうような気がして、気分が良くない。
一番気をつけたいのは、自分も知らずに人を見下すような話をしていないか、その人が暗に知らせてくれているような気がして、すぐに反省したいのだ。
人を非難したり、ちょっと迷惑だと感じている点を話すと、見下したように話していないか、と気にする。
相手には相手のすごく素敵なところがあるってどんな人にも見つける。
でも人間だから、欠点は必ずあるし、すぐに見つけやすい。
自分とて、見下される欠点や弱点が、自分で強く意識していて、そこをなんとかしたいと少しでも解決したいと、自分を行動づける。
だから、そういう話の場になったら、トイレに立つようにして場を離れる。
でないと、何か反論してその場を乱しそうだから。
木鶏になりたい。
下記、参考までに。
『木鶏子夜(もっけいしや)に鳴く』
★ 趣旨
努力を重ねた本当に強い人は、自然体でいるだけでも勝てるという意味。
つまり、強そうに見えているうちはまだまだ本物でなく、どーんと構えて無為自然であれば相手の敵対心は無くなり、戦わずして勝てる。これこそが本当の強さだということ。
昔、中国で闘鶏を育てる名人が王の依頼を受けて、鶏の訓練していた。
王が「そろそろほかの鶏と戦わせて見たいが、どうだ」と尋ねるたびに、名人は「鶏が虚勢を張るから」「ほかの鶏を見て興奮するから」「気負い立っているから」などといって断る。
それからしばらくして、ようやく王に鶏を献上した。
その鶏は、まるで木で作られた鶏のように無為自然。
虚勢を張ったり、ほかの鶏を見て興奮したり、気負ったりすることはまったくない。
強そうに見えるだけでは、まだまだ本物ではないということ。
ただ、自然にしているだけで相手の敵対心がなくなり、戦わずして勝てる。
これこそが本当の強さ。
人間も同じ。
肩書きや持ちもの、着ているものや言動によって、相手を打ち負かそうとしているうちはまだまだ。
本当に強い人間は、みなが寝静まった誰にも見えぬところで精進、努力を重ね、どのようなときも泰然自若でいられるもの。
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自信のない人は、自分以下を作らないと、自分を保てません。
だから、がんばって人を見下し、さげすみます。
そして、日本人は、世界的に自己肯定感が低い。
だから、自分の趣味や、好きなことをしゃべろうものなら、否定され、バカにされる。
それじゃあ、自信の増やしようがないです。
だも、幸福度が低いわけだわ。
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うん、人を見下して話す人だなあと思うと自分はその方と話すのを止めて去ります。
その人を見下す話を聞くに堪えないから。
話を聞いていると自分もその話に同調しているようにならないか、そして、その見下す毒にまみれてしまうような気がして、気分が良くない。
一番気をつけたいのは、自分も知らずに人を見下すような話をしていないか、その人が暗に知らせてくれているような気がして、すぐに反省したいのだ。
人を非難したり、ちょっと迷惑だと感じている点を話すと、見下したように話していないか、と気にする。
相手には相手のすごく素敵なところがあるってどんな人にも見つける。
でも人間だから、欠点は必ずあるし、すぐに見つけやすい。
自分とて、見下される欠点や弱点が、自分で強く意識していて、そこをなんとかしたいと少しでも解決したいと、自分を行動づける。
だから、そういう話の場になったら、トイレに立つようにして場を離れる。
でないと、何か反論してその場を乱しそうだから。
木鶏になりたい。
下記、参考までに。
『木鶏子夜(もっけいしや)に鳴く』
★ 趣旨
努力を重ねた本当に強い人は、自然体でいるだけでも勝てるという意味。
つまり、強そうに見えているうちはまだまだ本物でなく、どーんと構えて無為自然であれば相手の敵対心は無くなり、戦わずして勝てる。これこそが本当の強さだということ。
昔、中国で闘鶏を育てる名人が王の依頼を受けて、鶏の訓練していた。
王が「そろそろほかの鶏と戦わせて見たいが、どうだ」と尋ねるたびに、名人は「鶏が虚勢を張るから」「ほかの鶏を見て興奮するから」「気負い立っているから」などといって断る。
それからしばらくして、ようやく王に鶏を献上した。
その鶏は、まるで木で作られた鶏のように無為自然。
虚勢を張ったり、ほかの鶏を見て興奮したり、気負ったりすることはまったくない。
強そうに見えるだけでは、まだまだ本物ではないということ。
ただ、自然にしているだけで相手の敵対心がなくなり、戦わずして勝てる。
これこそが本当の強さ。
人間も同じ。
肩書きや持ちもの、着ているものや言動によって、相手を打ち負かそうとしているうちはまだまだ。
本当に強い人間は、みなが寝静まった誰にも見えぬところで精進、努力を重ね、どのようなときも泰然自若でいられるもの。
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