出産して、3日後に両親が、実家石川から北海道の病院にかけつけてくれた。
初孫を手に抱いて、両親の喜びは、全身から静かに伝わってきた。
このときほど、親孝行したという思いは、今でもないくらいだ。
生む前の赤ちゃんの性別を聞くことはしなかったので、孫が男の子ということで、母はよくやったと褒めてくれた。ここが昔の人だなあと思うが、五体満足なら、女の子でも良いなあと思いつつ、両親を喜ばしたことに、純粋に喜んでいた。
病院に私が入院して、家事を母にしてもらって、入院が長引いてしまっていることに、前夫は、イライラしていた。怒りを病室でぶつけることもあり、母乳は悲しみで出なくなったと思う。
母もコミュニケーションできない前夫に対して、イライラしていて、病室にいる私に愚痴をこぼしていた。父はなるだけ聞き役になっていたと思うが、自分たちが遠くから駆けつけて家事をしていても、口も聞かずに母が用意した食事を食べたり食べなかったりしていたようだ。母は皿に残したおかずをみて、一人気をもんでいた。前夫は、味付けが良くないと、無理して食べることはない。自分に気をつかっていることが一番嫌だったのだろうと思う。
そういう家庭状況で、私も早く子供を連れて帰宅したいが、血圧等の数値は良くならず、気をもんでいた。
産後5日目で息子が私の手元にやってきて、おむつを替えたりほとんど出ない母乳を含ませて粉ミルクを作って母親業を始めた。
おむつも替えてミルクもあげて、身の回りの整理を終えると、1時間くらいあっというまに立つ。あと1時間くらいでまたお腹を空かせて泣くだろうから、眠れないまま起きていようとしていつの間にか眠ってしまい、息子の号泣の声に気付かず、同室の母親たちに夜中に起こされて、劣等感にまみれた病院生活だった。
そういう生活をそれから1週間続けて、産後12日後にやっと退院した。
家族がみな、喜んだ。家庭にコミュニケーションが通うようになった。
帰宅して、母乳を少しでも多くあげたい自分のために、メニューを考えスーパーで買い物をする。ほこりアレルギーの私がつい掃除をして、洗濯だけを母にお願いした。すると両親用のメニューと私たちのメニューを作ることになり、私の疲労はたまってきた。両親に合わせると、前夫は機嫌が悪くなり、双方のハザマで、オタオタしながら休まらないなあと思いつつ、赤ちゃんを育てていた。
ある日、そういう状態で、私が強烈な腹痛になった。冷たい汗をかいて、どうにもならないので、入院していた病院に前夫の運転する車でかけつけた。
病院に着いてしばらくすると、腹痛は治まってきたので、帰宅した。
生後2週間の息子は、私がいないことを察知したのか、私が家にいない間は、大泣きで、面倒をみていた両親も疲れ果てていた。私が家のドアを開ける数10分前に、泣くのを止めて寝入ったというのは、偶然ではないように思う。
それほど、母子はつながっているということか。
産後は、仕事を続ける私の希望は、同居する方向を考えていたが、両親はいる場所が無いような気分でいたようだ。
前夫は、私がいるなら、別に私の両親と関わらなくても良いと思ったらしく、どちらでも良いというような答えだったように記憶している。
両親は、翌月10月の末に、実家に帰ってしまった。
これで、孫ができたきっかけに、同居する機会を無くした。
11月には、勢いで前夫が購入してくれた新居のマンションに引越しをし、次は、息子の保育園に入るまでのいきさつを語る。
感謝
初孫を手に抱いて、両親の喜びは、全身から静かに伝わってきた。
このときほど、親孝行したという思いは、今でもないくらいだ。
生む前の赤ちゃんの性別を聞くことはしなかったので、孫が男の子ということで、母はよくやったと褒めてくれた。ここが昔の人だなあと思うが、五体満足なら、女の子でも良いなあと思いつつ、両親を喜ばしたことに、純粋に喜んでいた。
病院に私が入院して、家事を母にしてもらって、入院が長引いてしまっていることに、前夫は、イライラしていた。怒りを病室でぶつけることもあり、母乳は悲しみで出なくなったと思う。
母もコミュニケーションできない前夫に対して、イライラしていて、病室にいる私に愚痴をこぼしていた。父はなるだけ聞き役になっていたと思うが、自分たちが遠くから駆けつけて家事をしていても、口も聞かずに母が用意した食事を食べたり食べなかったりしていたようだ。母は皿に残したおかずをみて、一人気をもんでいた。前夫は、味付けが良くないと、無理して食べることはない。自分に気をつかっていることが一番嫌だったのだろうと思う。
そういう家庭状況で、私も早く子供を連れて帰宅したいが、血圧等の数値は良くならず、気をもんでいた。
産後5日目で息子が私の手元にやってきて、おむつを替えたりほとんど出ない母乳を含ませて粉ミルクを作って母親業を始めた。
おむつも替えてミルクもあげて、身の回りの整理を終えると、1時間くらいあっというまに立つ。あと1時間くらいでまたお腹を空かせて泣くだろうから、眠れないまま起きていようとしていつの間にか眠ってしまい、息子の号泣の声に気付かず、同室の母親たちに夜中に起こされて、劣等感にまみれた病院生活だった。
そういう生活をそれから1週間続けて、産後12日後にやっと退院した。
家族がみな、喜んだ。家庭にコミュニケーションが通うようになった。
帰宅して、母乳を少しでも多くあげたい自分のために、メニューを考えスーパーで買い物をする。ほこりアレルギーの私がつい掃除をして、洗濯だけを母にお願いした。すると両親用のメニューと私たちのメニューを作ることになり、私の疲労はたまってきた。両親に合わせると、前夫は機嫌が悪くなり、双方のハザマで、オタオタしながら休まらないなあと思いつつ、赤ちゃんを育てていた。
ある日、そういう状態で、私が強烈な腹痛になった。冷たい汗をかいて、どうにもならないので、入院していた病院に前夫の運転する車でかけつけた。
病院に着いてしばらくすると、腹痛は治まってきたので、帰宅した。
生後2週間の息子は、私がいないことを察知したのか、私が家にいない間は、大泣きで、面倒をみていた両親も疲れ果てていた。私が家のドアを開ける数10分前に、泣くのを止めて寝入ったというのは、偶然ではないように思う。
それほど、母子はつながっているということか。
産後は、仕事を続ける私の希望は、同居する方向を考えていたが、両親はいる場所が無いような気分でいたようだ。
前夫は、私がいるなら、別に私の両親と関わらなくても良いと思ったらしく、どちらでも良いというような答えだったように記憶している。
両親は、翌月10月の末に、実家に帰ってしまった。
これで、孫ができたきっかけに、同居する機会を無くした。
11月には、勢いで前夫が購入してくれた新居のマンションに引越しをし、次は、息子の保育園に入るまでのいきさつを語る。
感謝
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます