実は、昨日見ていた映画がある。
高倉健演じる主人公が、自分の殺した男の娘を育てる。
いや、育てると言っても、その殺人を犯してから
15年間刑務所暮らし。
親父殺しの償いに、養育費を送り続けたのだ。
🌟🌟🌟
事件当時幼子だった娘は、主人公が出所してみたら高校生。
娘は主人公に手紙を書き続けており、
彼は刑務所に届けてもらって読んでいた。
🌟🌟🌟
届く手紙はエアメール。
娘は、相手が刑務所にいるなどつゆ知らず、
ブラジルにいると思っている。
そして、恩人である「おじさま」に向け、
信頼と熱い感謝の思い、
会いたい気持ちを手紙に綴っている。
父親を殺めた当人とは、夢にも思わずに……
🌟🌟🌟
そう、最初は償いのつもりだった。
しかし、娘から親愛の情のこもった手紙を受けとるうち、
(彼からは決して返事は書かない)
紛れもない、娘に対する愛情が芽生えていた。
そして気がつくと、主人公は娘に会う日を夢見るようになっていた。
🌟🌟🌟
堅気になって、彼女と暮らせたらどんなにか……
しかし、自らの正体を明かすことは、彼女に憎まれることを意味する。
出所してからというもの、成長した娘の姿をこっそり垣間見、
今にも飛び出していって名乗りをあげたい衝動をこらえる・・・・
🌟🌟🌟
これだってほかでもない。
「あしながおじさん」ベースの物語ではないですか。
「あしながおじさん」と違うのは、それが庇護される少女の側ではなく
パトロン側の物語ということ。
🌟🌟🌟
そして、これを見てわかるのは、このシチュエーションに
甘美な夢を抱くのは、少女だけではない。
まぎれもなくパトロンである男性もということ。
🌟🌟🌟
「キャンディ・キャンディ」には、
ウィリアム大おじさまの気持ちは描かれなかった。
でも、「ガラスの仮面」にはあったよね。
紫のバラの人こと、速水真澄の心のうちのモヤモヤ。
これでもか!というほどてんこ盛りであった。
庇護されるマヤには、パトロンである紫のバラの人に対しては、
ただただほとばしる熱い思いだけしかない。
しかし、その思いを寄せられる真澄には、
どれほどの葛藤があったか。
🌟🌟🌟
マヤほど正直に思いのたけをぶつけることはできない。
しかし、彼女に負けず劣らずの熱い思いを、彼女に対して抱いている。
禁じられれば禁じられるほど、身分を明かし、
気持ちを打ち明けたい欲求は膨らむ。
しかしそれができない!!(。≧Д≦。)
身をよじるようなもどかしさなのだ。
ね?「おじさま」は辛いのである。
🌟🌟🌟
「冬の華」の娘は、結局主人公の子分とできてしまう。
それを知ってショックを受ける主人公。
所詮は、男性として彼女の前に立ち、
堂々と気持ちを打ち明けられる身ではない。
自らの立場を思い知らされ、そして苦しむ。
あしながおじさんは、最後はジュディと結ばれるんでしょ?
そして、「ガラスの仮面」もたぶん。。。。
「キャンディ・キャンディ」も、あのままいくと、ひょっとして。
「冬の華」は、悲劇的結末に終わってしまったけど、
主人公の願いは明らかだったよね。
🌟🌟🌟
陰ながら成長を見守る、遠くから幸せを願う……はずだったんじゃ?
パトロンと、庇護される者の関係は、おのずとそっちに向かうのか?
うーーん、わかんないけど!!
「あしながおじさん」は、女の子の夢のみならず、男の夢でもあったのね。