日本は、戦後生まれの世代、高齢化社会に直面しています。
日本はすでに多死社会を迎えようとしています。
年間の死亡者数は1970年代の70万人前後から、現在は126万人と増えています。
2040年には、167万人と推計されています。出生率のおよそ2.5倍に相当します。
かっては、自然災害、戦争、疫病、飢えなどにより死亡するのが当然のような時代でした。
人生を不本意に終わらせられる、やむを得ない時代だったんでしょうね。
子供たちの死亡率が高く、天寿を終えるのは、とても難しいことだったと聞きます。
貧しい国では、この現象がまだ維持されています。
解決するには、戦争をやめ、医療と衣食住を確保することです。
日本では、医療の進歩や栄養の確保により、人の寿命が延びています。
しかし、認知症を含む慢性疾患を抱え、衰えていく心身と折り合いながら生きています。
どう生きるか、どう死ぬかの考える時間が長くなりました。
死に関しては、誰もが意識して少なからず、恐怖は抱いているでしょう。
いつ死ぬか、誰もが知りたいと思います。
癌などの病気を患えば、死期が近いと自ら自覚できます。
戦争にかり出されば、死ぬ確率が高くなったことを認識します。
災害による死は検討づかずで、危ういと感じます。
死刑囚は、死は確定していて、執行のときを恐怖を抱きながら待つだけです。
多岐にわたり、死に関する認識と認知が異なります。
しかし、死にたくない、それが基本ではないでしょうか。
重度の病気を患い入院したとします。
「寝たきりの生活が長くなると、もう生きていたくない」
「家族に迷惑をかけたくない」
「いっそう、死んだほうがいい」
などと考える人も多いと思います。
その時に、効力を発揮するのが、「安楽死」です。
海外では、安楽死を合法とする国が増えています。
個人の意思が明白で、家族の了承があれば、様々な方法を提示してくれます。
致死量の睡眠導入薬を処方してもらい、自分で決めた時間に死を迎える方法もあります。
しかし、この様な行為は、自殺幇助と指摘する人もいます。
「死にたくても、死ねない」そんな人が沢山いると思います。
日本でも、安楽死については、議論が分散しています。
「生と死」深くて、とても大切な問題です。
私は現在、下肢全廃で上肢はかろうじて機能を維持しています。
しかし、私の病気は進行性で全廃は時間の問題です。
いまも体の痛みは、日常的です。
将来は、呼吸器を使用しての生活を覚悟しています。
そんな状態で生きることは、望みまません。
我ままな考えですが、それが本音です。
今は、少しでもやりたいことが出来ます。
出来なくなった自分の身を考えると耐えられません。
私は仏教を信仰しています。
自殺はけして仏界では、認められません。
しかし、自らの命を医師と相談できて、法律の下で終えるなら成仏と考えます。
消極的な考えですが、有効的な行動と判断します。
臓器提供(すべて)に登録しています。
私の死により、誰かの人生の手助けになるかもしれません。
これは、仏教の教え「布施」の精神を大切にしています。
とにかく、頑張ります。
限界まで頑張って私の意志を尊重してくれる、そんな世になれば幸せです。
両親は健在です。
親より早く死ぬのは、不本意です。
両親が死ねば、私には身寄りがありません。
無縁仏ですね。
それでも仏は仏、いいと思います。
ただ残念なのは、元気な若者の自殺です。
様々な理由や悩みがあると思います。
できれば死なないでください。
私も幾度無く自殺行為をしました。
しかし、死にませんでした。
人には生きている意味があります。
どうせ死ぬなら自分の力を発揮してください。
「必死」必ず死ぬと書きます。
あせらずとも、必ず死にます。
「もう頑張ったからいいや」
そう、自尊しての死を迎えてください。
そうすれば、必ず来世へと命は飛躍します。
お互い頑張って、充実した死を迎えましょうね。
それが、久遠のいのちです。