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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-5

2019年02月18日 | 陸上自衛隊レポ
さて、前回の続きといきましょう…



どど〜んときました大型ですねえ。
これは何でしょうか?

九一式十糎(センチ)榴弾砲 です!
第一次大戦当時のヨーロッパ戦線において、
各国が100mm級の軽榴弾砲を使用して戦果をあげていたことから、日本陸軍は
榴弾砲を軍装備として考えたようです。

九一式十糎榴弾砲(きゅういちしきじっせんちりゅうだんほう)は、1930年代初頭に大日本帝国陸軍が採用した榴弾砲。
日中戦争(支那事変)・ノモンハン事件・第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における帝国陸軍の主力軽榴弾砲として、
主に師団砲兵たる野砲兵連隊(軍隊符号:A)が運用した。
試製砲は1930年(昭和5年)に完成し、同年末から翌年始にかけて5門がフランスから到着した。
待ち焦がれていた陸軍は早速各種試験を実施し、その結果性能は概ね良好と認められ、
1931年(昭和6年)3月には九一式十糎榴弾砲として仮制式制定され、
条件通りシュナイダー社に300門の完成砲を発注した。
その後、1933年(昭和8年)3月に制式制定され、国産化された。
閉鎖機は通常の水平鎖栓式で、装薬可変式の分離薬筒を用いる。装薬号は多い順に
一号装薬・二号装薬・三号装薬が設けられている。開脚砲架を持つ近代的なデザインで、
各国の同級砲と比べて射撃性能の面で特に優る点はないが大きく劣る点もなく、
特に前車を軽く作ってあることから、運行重量(接続砲車重量)では同世代設計のうちでは最も軽量の部類に入る。
ただ、フランスの設計を全くそのままに採用していたため、当時の日本人兵士の体格にとっては明らかに過重で、
各部が人間工学的配慮に欠けるものとなっていたとする指摘もある。
1936年(昭和11年)から本格的に部隊配備がなされ、野砲兵の主火器として整備され、
特に1940年(昭和15年)以降は野砲・山砲の生産を極度に緊縮して本砲の生産に努めた。
ドイツ陸軍の方式に倣い、師団砲兵を本砲と九六式十五糎榴弾砲で構成する構想であったが、
その後の情勢変化や国力の差によりこれを完全に実現することは出来ず、
太平洋戦争中の師団砲兵の多くは既存の75mm野山砲と本砲との混成であった。
本砲は九七式中戦車を車台のベースとする自走砲である、一式十糎自走砲ホニIIの備砲としても転用された。
(出典:ウィキペディア)

《装甲貫徹力》
徹甲弾の場合、鋼板貫通限界厚は射距離1500mで63mm、射距離1000mで70mm、
射距離500mで76mm、射距離100mで83mmであった。また、1945年(昭和20年)
8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料によれば、鹵獲した本砲の装甲貫徹能力の数値は一式徹甲弾を使用し、
弾着角90度で命中した場合は射距離750yd(約685.8m)/2.7in(約69mm)、
500yd(約457.2m)/2.8in(約71mm)、250yd(約228.6m)/2.95in(約75mm)となっている。

ではお隣へ…

41式野山砲
四一式山砲(よんいちしきさんぽう)は、1910年(明治43年)前後に開発・採用された大日本帝国陸軍の山砲。
1930年代中期からは歩兵砲として、小改修を施した本砲が歩兵連隊に配備されたため、連隊砲(聯隊砲)とも称された。
(出典:ウィキペディア)



四一式山砲は日露戦争における主力山砲であった三十一年式速射山砲の射程不足、発射速度不足、
方向射界皆無といった欠点の解消のために開発された。三十一年式速射山砲は本格的な駐退復座機を
備えていなかったため、発射のたびに反動で射撃位置から後退した砲を元の位置に戻す必要があり、
当然照準も1発撃つごとにやりなおすものであった。故に「速射砲」という名称を持ちながらも
実際の射撃速度は2 - 3発/分程度であった。日露戦争後、陸軍技術審査部は同審査官・島川文八郎陸軍砲兵大佐に対し
後続山砲の開発を命じ、1908年(明治41年)に大阪砲兵工廠で試製砲が完成、1911年(明治44年)に
四一式山砲として制式制定された。四一式山砲は駐退復座機を備えていたため射撃速度は10発/分程度まで
上げることに成功した。また、当初の分離薬筒方式を完全弾薬筒方式に改めてからは、最大20発/分が可能となった。
重量540kg、馬6頭で分解運搬(駄馬)ないし、馬2頭で牽引運搬(輓馬)可能。山砲として開発されたため人力による
分解運搬も可能であり、山岳戦や森林・密林地帯で威力が発揮された。また、構造が比較的簡単であるため
組み立てや操作が容易であった。-23℃でも使用可能。
採用・配備以降、帝国陸軍の主力山砲として主に師団砲兵たる山砲兵連隊で運用された。
1920年(大正9年)には本砲の欠点であった威力と安定性を向上させた後続山砲の開発を研究開始、
1930年代初中期には(四一式山砲と比べ)さらに組み立てや操作が容易かつ細かく分解でき、
近代的な開脚式砲脚を備える高性能山砲である九四式山砲が開発・採用された。九四式山砲は旧式となった
四一式山砲を順次更新していったが、戦前日本の国力の低さから完全に置き換えるまでには至らず、
第二次世界大戦においては九四式山砲とともに主力山砲のひとつとして終戦まで運用が続けられ、
また、太平洋戦争(大東亜戦争)では作戦地の地形や道路の状況から九四式山砲ともども野砲兵連隊などに配備される例も多く、
各戦線に投入された。なお、本砲は海軍陸戦隊でも使用されている。
また、本砲をベースとする戦車砲・九九式七糎半戦車砲を搭載する砲戦車(自走砲)として、
二式砲戦車 ホイが開発・生産されている。 靖国神社遊就館には、比較的保存状態の良好な四一式山砲が展示されている。
(出典:ウィキペディア)



41式山砲と91式10センチ榴弾砲の後ろ姿〜
こげな案内もございました。↓



さらには図面もございました↓



ではお次に参りましょう。

九四式37mm速射砲



九四式三十七粍砲(きゅうよんしきさんじゅうななみりほう)は、1930年代初中期に大日本帝国陸軍が
開発・採用した対戦車砲(速射砲)。九四式三十七粍速射砲(きゅうよんしきさんじゅうななみりそくしゃほう)とも呼ばれるが制式名称ではない。
開発当初から発達しつつある装甲戦闘車両への対処に主眼が置かれており、帝国陸軍初の本格的な対戦車砲として
日中戦争(支那事変)・ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)で使用された。

本砲登場以前の37mm級火砲としては、歩兵砲である狙撃砲や十一年式平射歩兵砲が存在した。
後者はフランスのプトー37mm歩兵砲に影響され、1920年代初期に開発・採用された口径37mmの歩兵砲であり、
直射による機関銃陣地(銃座)撲滅を目的としていた。十一年式平射歩兵砲は砲身長(口径長)28口径で初速450m/秒と、
比較的砲身が短いため初速も遅かったが、本砲の使用する十二年式榴弾は当時の装甲車両に対し十分な威力を持っていた。
また、1931年(昭和6年)12月に伊良湖試験場にて現制歩兵火器の戦車・掩体・鉄条網など各種目標に対する効力試験を実施したが、
試験では供試されたルノー甲型戦車に対し13mm機関砲の鋼心実包はもとより37mm以上の火砲の徹甲弾や榴弾、
更には歩兵砲のような低初速の火砲ですら効力を有することが認められた。
一方で日本製鋼所製の鋼板(「ニセコ鋼板」)に対する侵徹試験によって供試戦車の装甲板は新型のものに比べて
著しく劣っていることが認識され、将来出現する新型戦車に対して十分な効力を持つ対戦車砲徹甲弾の研究促進を
要するとの判決を得た。また1932年(昭和7年)11月にはルノー乙型戦車及び八九式軽戦車の装甲板の
各種弾丸に対する抗力試験を実施した結果、より新型の戦車に対しては7.7mmや13mm等の小口径火器の
徹甲弾や平射歩兵砲の十二年式榴弾ではそれほど効力を期待できないことが判明した。
これらを経て陸軍では装甲板の研究を進めると共により大きな弾丸効力を持つ火砲及び弾丸の開発を進めた。
(出典:ウィキペディア)

《構造》

本砲は第一線で運用する野戦対戦車砲として設計されており、約700m/秒の高初速を以て距離1,000mで
20mmの装甲を貫徹し車内に破片効力を及ぼすことが可能である。また高速で移動する目標に対し
直接射撃を実施するために大きな方向射界を有する。本砲の砲身は単肉自緊砲身であり全長1706.5mmで
約46口径、腔線は深さ0.4mmで傾角6度の12条である。高い発射速度を実現するために閉鎖機は半自動式を採用している。
閉鎖機は試作段階で垂直式や右開き式などが試されたが、最終的には右側砲手に対応するために左開き式として制式化された。
放列砲車重量は327kgで馬1頭により牽引されるが、戦場では砲手3名により人力で牽引することも可能である。
また必要に応じて重量100kg以下の部品に分解し、4頭の馬に駄載して輸送するか人力で運搬した。車輪は鋼鉄製で、
木製車輪のように乾燥時に間隙が発生することはない。射撃時は必要に応じて左車輪を広げることが可能であるが、
これは方向射界を大きくした際に砲の左側に位置する砲手の操作性が低下しないための工夫であった。
防盾は特殊鋼製で厚さは4mmである。照準器は直覘式単眼鏡で倍率は2.5倍、接眼部に緩衝用のゴム環を有する。
照準線の横線両端及び縦線下部は太線となっており、薄暮黎明時など中央十時線の目視が困難な場合に照準の補助とすることが可能である。
本砲弾薬車である九四式三十七粍砲弾薬車の車台は一双の横梁と4つの横匡で枠型に構成され、梁横中央部に車軸托板を有する。
梁横前端は上方向に屈折して轅棹室を形成し、一双の轅棹を取り付けて使用する。左方轅棹室下部には支棹吊鉤を有する。
車体内部は界板乙で仕切られた3つの部屋から成り、中央部には弾薬箱8箱と属品箱2箱を収容する。
前後の2室は曳索や槌等の属品類を収容する。なお、車輪は砲と同一のものを使用する。
弾薬箱は鞄型で中央より2つに分かれ、蝶番で接続される。各箱は6発の砲弾を収容し、弾薬箱全体で12発の砲弾を運搬した。
(出典:ウィキペディア)



長らく引っ張ってまいりました土浦駐屯地レポ
やっと!ほんとに!次回で最後になります〜〜〜
その次どうしよ…(汗

コメント (11)
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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-4

2019年02月16日 | 陸上自衛隊レポ
お疲れ様です〜〜〜
三寒四温とはよく言ったものですが…
こういった時期に風邪をひきやすい!
油断なさらず、マスク着用、手洗いうがい、お忘れなく〜〜

さて、そろそろほんとに終わりに近づいてまいりました、武器学校土浦駐屯地レポ
今回は……ごろんたはもう、わけがわかりません!
(写真の撮り方が悪いのです…)
一体どの装備品がなんなのか??!!…という状態であります。
…が、進まねばならないこの道を〜♪ということで、ドゾ



ドドン!!! その名も火砲館! 何が置いてあるかすぐわかります!
では入ってみましょう…





三八式野砲 (写真向かって左)& 改造式三八式野砲(写真右)

三八式野砲(さんはちしきやほう)は、1900年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍の野砲。
日露戦争中の1904年(明治37年)、日本陸軍はドイツのクルップ社に砲身後座式の駐退復座機を装備した
4種類の新型火砲[3]を発注した。その中には三十一年式速射野砲の後継たる75mm野砲の完成品400門及び
半成品400門が含まれていたが、1905年(明治38年)に納品された頃には日露戦争は終局に向かっていたため、
日露戦争でこれらの砲が使用されることはなかった。
三八式野砲は一部に小改良を加えた上で1907年(明治40年)に制式採用された。のちには大阪砲兵工廠で
約3,000門(当初から改造三八式野砲として製造された約500門を含む)が生産され、
日本陸軍の師団砲兵(一般の野砲兵連隊)の主力野砲となった。また騎砲兵向けに三八式野砲を軽量化した四一式騎砲も生産・配備されている。
三八式野砲の駐退復座機はクルップ社が設計したバネ圧復座式であるため、フランス製Mle1897野砲の気圧復座式に比べて容積が嵩張るのが難点であった。
弾薬は薬莢と弾頭が固定され規定量の装薬が装填された固定薬莢(完全弾薬筒)式であるため、弾頭だけでなく薬莢の大きさと形状が一致しないと砲弾は
使用できなかった。このため同じ日本陸軍の口径75mmの砲でも、三八式野砲は四一式騎砲とのちの九五式野砲とは砲弾の互換性があったが、
四一式山砲や九〇式野砲、九四式山砲とは弾薬の互換性がなかった。
実戦投入は第一次世界大戦が最初であり、青島攻略戦やドイツ植民地の南洋諸島攻略作戦で使用されたが、
第一次大戦における日本の参戦は限定的なものであったため余り活躍できてはいない。ロシア革命への干渉と白衛軍の支援を目的としたシベリア出兵でも使用された。
(出典:いつものごとくウィキペディアより)



ここに注目!ということなので注目しましょう…なぬなぬ?
ふむふむ…ということで(どゆこと?)改良の余地があった三八式野砲、改良図面を見ると…



図面にペダルのようなものが見えますね…



これですね〜〜〜この茶色の物体。木製なんですね。
ではここで、改造式三八式野砲の解説を…

改造三八式野砲

第一次大戦から戦間期において、欧州各国では急速に野砲の長射程化が進んだ。
この時代の流れに対応するため新型野砲の整備が求められたが、それまでの繋ぎとして既存の三八式野砲を改修して
射程を延伸させることとなり、改造三八式野砲が開発された。既存の三八式野砲から逐次改修され、またこれとは別に新規に約500門が生産された。
改造三八式野砲は、高仰角を取っても砲身と砲脚が干渉しないように砲脚を中央部に穴のあいた刺又(音叉)状のものに改修したほか、
高仰角での砲撃時に後退した砲身を前進させられるように駐退復座機を強化し、砲耳(砲身の俯仰角を取るための軸)の位置も変更した。
このため改造三八式野砲の駐退復座機は、改造前の三八式野砲のそれに比べてやや前方に延長されている。その為、
未改造の三八式野砲と比較して最大射程を3,000mほど延伸させることに成功したが、反面重量は190kgほど増大している。
前述のように本砲は将来的に新型砲が整備されるまでの暫定的な野砲として開発されたが、部隊配備以後、
駐退複座機と砲架を中心に故障・事故が相次ぎ、また仰角を43度まで増やしたものの、改造された砲の中には仰角35度以上では
復座力が不足して手で復座させる事例も出るなど、信頼性に問題を抱えることとなった。
1935年(昭和10年)前後頃には、三八式野砲の後継となる九〇式野砲が開発・採用されたが、九〇式野砲は重量が大きいため機動力低下を懸念した
参謀本部は、九〇式野砲の設計を基に射距離を犠牲にして軽量化を推し進めた九五式野砲を制式採用する。しかしながら、1940年(昭和15年)頃の日本陸軍は、
ドイツ陸軍とアメリカ陸軍の師団砲兵に倣い、師団砲兵の編制を従来の75mm野砲・105mm軽榴弾砲(九一式十糎榴弾砲)から、
105mm軽榴弾砲(九一式十糎榴弾砲)・150mm重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲)装備へと改編し火力を向上させる構想を抱いており、
野砲や山砲の生産は機械化牽引野砲である機動九〇式野砲を除いて縮小されていた。その為、九〇式野砲の総生産数は約200門(機動九〇式野砲は約600門)、
主力野砲となるべき存在である九五式野砲で約320門以上程度であったため、改造三八式野砲は完全に更新されること無く終戦まで運用が続けられた。
(出典:もちろんウィキペディアより)



後ろから見るとこんなに長い物体であります…
FH70も長いですよね〜、そういえば…

これから先似たような物体が出てまいります…識別するだけでもしんどいっす〜〜〜
でもがんばりまっす。よろしければおつきあいください〜〜〜♪
コメント (6)
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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-3

2019年02月14日 | 陸上自衛隊レポ
皆様お疲れ様で〜〜〜す
まだまだ寒い日が続きますね。
でも時々は、「春?」な空気が漂っていたり。
早く暖かくなって欲しい、イベントシーズン来て欲しい〜〜〜

あ、その前に…早くラインスタンプこさえないと〜〜〜!!
あ、でもその前に検定試験だ…(ガクっ)

さてさて、残りもあとわずか
本日は、旧軍の装備品ならびに鹵獲品となります。
ではドゾ



えっと…左から

手前にいるのが九四式三十七粍砲 
車輪のホイールが、木製とのことです。

九四式三十七粍砲
(きゅうよんしきさんじゅうななみりほう)は、
1930年代初中期に大日本帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
九四式三十七粍速射砲(きゅうよんしきさんじゅうななみりそくしゃほう)とも呼ばれるが制式名称ではない。
開発当初から発達しつつある装甲戦闘車両への対処に主眼が置かれており、
帝国陸軍初の本格的な対戦車砲として日中戦争(支那事変)・ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)で使用された。
本砲登場以前の37mm級火砲としては、歩兵砲である狙撃砲や十一年式平射歩兵砲が存在した。
後者はフランスのプトー37mm歩兵砲に影響され、1920年代初期に開発・採用された口径37mmの
歩兵砲であり、直射による機関銃陣地(銃座)撲滅を目的としていた。
十一年式平射歩兵砲は砲身長(口径長)28口径で初速450m/秒と、
比較的砲身が短いため初速も遅かったが、
本砲の使用する十二年式榴弾は当時の装甲車両に対し十分な威力を持っていた

そしてその後ろが
82ミリ迫撃砲(ソ)
ソ連軍の迫撃砲ですね。
94式の鉄板に阻まれてお姿見えませんね…(´Д` )

82mm迫撃砲BM-37
フランス製のブラント81mm迫撃砲Mle27/31の改良型に当たるが、
砲本体の形状はごく一般的なもので外見上特にこれと言って目立つ特徴は無い。
最大の特徴は口径がオリジナルの81mmよりもやや大きめの82mmとなっていることである。
このため、外国軍で一般的に使用されている81mm迫撃砲ではソ連の82mm迫撃砲弾を
鹵獲しても流用できないが、ソ連の82mm迫撃砲は鹵獲した敵の81mm迫撃砲弾を発射可能である。
この特徴は、大祖国戦争序盤においてドイツの8 cm sGrW 34への82mm迫撃砲弾の流用を不可能とし、
ドイツの戦力増強にならないようにすることができた[1]だけでなく、後の冷戦時代でも
これを供与された共産系反政府ゲリラ組織が親米・親西側政府軍から奪取した81mm迫撃砲弾を利用した
弾薬調達を容易とし、ゲリラ戦遂行に対する大きな一助となった。
しかし、大祖国戦争序盤の劣勢時にはかなりの数の「砲」そのものが接収され、
BM-36には8.2cm迫撃砲274/1(r)の名称が、BM-37には8.2cm迫撃砲274/2(r)の名称が、
BM-41には8.2cm迫撃砲274/3(r)の名称がそれぞれ与えられ、ドイツ軍によって使用されている。
なお、これらの砲から81mm迫撃砲弾を発射した際の命中率は著しく低下する。
(以上ウィキペディアより出典)

そして右側のは日本軍陸上自衛隊の
155ミリ迫撃砲なんですが
試作ということで制式化なし、そのせいでしょうか資料がみあたりませんでした。

と言っていたら、ありがたいことに〜情報頂戴しました!
毎度お世話になっております。ブログ「薬を飲み忘れないようにしないとね」の掘倫さん
ありがとうございました〜〜〜〜♪

「68式155mm迫撃砲で、
陸上自衛隊が107mm迫撃砲の後継で神戸製鋼所が作ったみたいです。
口径:155mm
砲身長:1,365mm
重量:900kg
最大射程:6,000m
制式化されたものの量産されず終わったみたいです。
そりゃこのスペックで120mm迫撃砲RTと比べたら…
重いし射程半分だし。
今じゃ120mm迫撃砲RT大好き陸上自衛隊ですよね〜」

とのことです〜

では次!

120ミリ迫撃砲(ソ)
(写真のものと内容があっているか、ちょと自信がないのですが…)
1938年に正式採用された、1941年には3000門が配備されていたという。
後にА. А. Котова の手で再設計された物が後継の120mm迫撃砲PM-43として採用されている。
独ソ戦でソ連側は多数を使用したが、序盤の劣勢期には多数がドイツ軍に鹵獲されている。
ドイツ軍はコピー品の12 cm GrW 42まで製造するほどにこの迫撃砲を重宝した。
大戦後は東側諸国に供与され、ベトナム戦争でも南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が
アメリカ軍や南ベトナム軍の野戦部隊や基地の攻撃に使用している。

重量:280 kg
砲身長:1,862 mm
仰角:45°~80°
水平射角:6°
初速:272m/s
最大射程:6,000m
連射速度:10発/分
砲弾重量:16 kg

(以上ウィキペディアより出典)





それではお次です…

M27型105mm 無反動砲(米)
105mm口径のM27は第二次大戦には間に合わず、戦後に完成して朝鮮戦争に投入され、
後に改良されてM40 106mm無反動砲となった。
…ということで、これ以上の資料はなかったです〜





次にいきます…





これまた資料が見つからない〜〜〜(泣)
仕方がないので次へ

45ミリ対戦車砲(短)(ソ)
う〜〜〜んこれも資料見つからず…砲が短いというのはわかる





お隣におそらく(長)であろう物体がおりました(その向こうはなんだったんだろう…わからん)




では次…

76mm師団砲M1942 (ZiS-3)(
ロシア語: 76-мм дивизионная пушка образца 1942 года (ЗИС-3))は、
第二次世界大戦中にソビエト連邦が開発した師団砲兵用軽カノン砲(野砲)である。
この砲は、ドイツの88mm高射砲と同様に対戦車砲としても高い性能を有していたため、
対戦車砲としての知名度も高い。
1940年、赤軍はそれまで保有していたF-22(M1936) 76mm野砲とF-22USV(M1939) 76mm野砲よりも
軽量かつ低コストな76mm野砲の開発を開始し、翌1941年にはナチス・ドイツが
ソ連への侵攻を開始したことにより、大祖国戦争が勃発した。
当時のドイツ軍の主力戦車であったIII号戦車とIV号戦車は装甲が薄く、
F-22やF-22USVの徹甲弾で十分対抗可能であったが、突然の奇襲と、
大粛清の際に多数の将官、佐官を粛清したことによる戦術の稚拙さなどが
原因で多くのF-22とF-22USVが破壊されるかドイツ軍に鹵獲されて失われた。
赤軍は、部隊再編成のために補充用の野砲を緊急に多数導入する必要に迫られ、
さらに、戦争序盤でT-34やKV-1の重装甲に手こずったドイツが、
装甲と火力に勝る重戦車を開発して投入することも時間の問題と考えられた。
ZiS-3は1941年に完成したが、赤軍はF-22USVの増産を優先させる方針をとったため、
ZiS-3はトライアルも行われないまま公式には製造中止とされてしまった。
しかし、F-22USVはコストが高く(ZiS-3の1.5倍)、砲架の制作過程も複雑だったために
なかなか数がそろわなかった。このため、スターリンはドイツ戦車に対抗可能なあらゆる砲の
生産を許可するとの指令を出したので、ようやく日の目を見ることができた。
1942年2月には5日間のトライアルが行われ、それをほぼ完璧にクリアしたZiS-3は、
1942年型76mm師団野砲として制式採用された。
(以上ウィキペディアより出典)

内容が違っていたら御免なさい…(違っていたら教えてくださいね)






さていよいよラストにきましたか??
35ミリ2連装高射機関砲 L-90

旧軍でなく自衛隊の装備品です
スイスのエリコン社により開発されたGDF-001 35mm連装機関砲の日本向け改良版で、
エリコンKDB 35mm機関砲と、レーダー制御の射撃管制装置によって構成される。
陸上自衛隊では1969年に採用され、製作は砲部を日本製鋼所、射撃管制装置を三菱電機が、
それぞれエリコン社とともに担当した。なお、L-90とは90口径を意味する。
(以上ウィキペディアより出典)





第二次世界大戦の頃の陸上部隊に配備された高射機関砲は、射手の目測照準に頼った射撃で、
また、射撃方向・角度の調整もほとんどが人力で行っていたため、高速の目標に対しては命中率が低く、
余り効果的な兵器とは言えなかった。さらに大戦後、ジェット機が主流となり航空機の速度が増すと、
もはや目測照準の高射機関砲では対処できなくなった。
そこで、従来の高射機関砲のシステムを改め、L-90では新たに開発されたスーパーフレーダーマウス(英語版)と
呼ばれる「レーダー・射撃統制装置」と「光学目標指定機」とで構成された射撃管制システムを機関砲に組み合わせた。
これらの新システムで制御されたL-90の対空射撃の命中率は当時としては驚異的であり、陸上自衛隊の高射特科部隊の代表的火器となった。
エリコン社は零式艦上戦闘機に搭載された九九式二〇ミリ機銃の開発元である他、自衛隊における「高射機関砲」という
制式名称・呼称自体も大日本帝国陸軍時代からそのまま受け継がれたものであり、旧軍時代より日本とは関係が深い。
また、87式偵察警戒車に搭載されているエリコンKBA 25mm機関砲も同社製で、量産にあたってはいずれも
日本製鋼所がライセンス生産を行っている。本機関砲の給弾方式(クリップで結合した弾薬を固定式弾倉に並べて装填)は、
口径35-57mm級の多くの対空機関砲や、旧軍の十一年式軽機関銃(携帯火器としては珍しい)が採用していた方式と同様である。
(以上ウィキペディアより出典)

…ということでございました。
不確定情報ばかりですみません。
新情報入り次第、補足していきたいと思います。

では〆の画像を…



後ろからみるとこんな感じでした〜〜〜
コメント (4)
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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-2

2019年02月12日 | 陸上自衛隊レポ
では、そろそろ場所を移動しまして…
こちら!

三式中戦車
三式中戦車 チヌ(さんしきちゅうせんしゃ チヌ)は、第二次世界大戦後期に登場した大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
第二次世界大戦突入時の日本陸軍では、新鋭の機甲戦力として九七式中戦車 チハを配備していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、九七式中戦車は南方作戦におけるビルマ攻略戦や
フィリピン攻略戦に投入されたが、主砲(九七式五糎七戦車砲)の威力不足から
連合国軍のM3軽戦車に対し苦戦を強いられた。
そこで陸軍では、新鋭対戦車砲である一式機動四十七粍砲をベースとする、
一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車 チハ新砲塔型(新砲塔チハ)と
一式中戦車 チヘを実用化し、M3軽戦車に対抗可能となった。
しかし、第二次大戦中期頃からアメリカ軍はより強力なM4中戦車を大量に配備し始めた。
そのため、これに対抗する新鋭戦車が必要となっていたが、
四式中戦車 チトと五式中戦車 チリは開発中であり、量産はまだ先のことだった。
このような経緯から、1944年(昭和19年)5月、一式中戦車の武装を更に強化し、
試製チト1号車の試製五糎七戦車砲○新(「○新」は以前に駆逐戦車用に開発されていた
試製五十七粍戦車砲と区別するための呼称であり、
表記は○の中に新)を搭載する「新中戦車(丙)」(昭和17年度の新中戦車(丙)とは同名だが別車輌)が構想され、
最終的に三式中戦車 チヌが開発されることになった。試作車は1944年9月に三菱重工で完成し、10月に量産に移された。
早急な戦力化が要求されたため改装は必要最小限に留められていた。この措置は短期間での開発を可能としたが、
主砲を選定するに際し、当初は九五式野砲、後に九〇式野砲を選択し、これをほぼそのまま砲塔内に搭載した。
これにより砲塔の大型化や駐退復座機の砲塔外露出、水平鎖栓及び撃発装置の位置の適正化が図られていない等の不利な点が生じた。
(ウィキペディアより出典)





大洗女子マークが…(^^;)
ガルパンファンでしょうか? 群がる皆様熱心に激写されておりました〜





続きまして

八九式中戦車
八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、
1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車[2]、「ハ号」は九五式軽戦車)。
先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18トンという大重量であった。1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車と重戦車の区分しかなく、
軽戦車=ルノ-戦車に類するもの=10トン以内
重戦車=英国中型戦車に類するもの=20トン以内と決められていた。
日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、
軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。
そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10トン程度の軽戦車を開発することを決定し、
試製一号戦車の成果を基に1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考にして開発することになり、
同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。
開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、
8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。
以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。
のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。
1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、
名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、
日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社[3]も生産に関わるようになった。
1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、
1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる[4]。
1929年10月には東京〜青森間、660キロメートルの長距離運行試験に成功し、
同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、
部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、
最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。
さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、
1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。
また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり
、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。この「チ」は中戦車、
「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、
チロと呼ばれることはなかったようである。陸軍第四研究所の戦後回想録の付表では、
甲型も乙型も「チイ」と表記されており、「チロ」の命名については疑問視する声もある。
試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、
すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、
1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、
装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。
生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から
1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、
乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。
八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、
中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。
(ウィキペディアより出典)






後ろすがたはまさに「アヒルさん」



戦車ご紹介で力尽きました〜〜〜
ウィキからコピペしてるだけなのに…この体たらく。
次回は、小型の火砲をご紹介します。
ひっぱっちゃってますが…よろしければおつきあいください〜〜〜
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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-1

2019年02月10日 | 陸上自衛隊レポ
それでは〜〜〜
旧陸軍の装備品ならびに鹵獲品(敵国からの分捕り品)をご紹介!…の前に
まだまだいました!自衛隊の装備品たち〜〜〜
ということでこちらから!!!





99式自走155㎜榴弾砲(試作)



96式装輪装甲車

でもってこのあたりにブースを出していらっしゃったのが…
空挺整備中隊!!!!!!

空挺後方支援隊
(くうていこうほうしえんたい、JGSDF Airborne Logistic Support Troop)は、
千葉県船橋市の習志野駐屯地に駐屯する部隊で、第1空挺団の隷下部隊である。
空挺団の後方支援業務を任務とするが、その規模・能力は空挺作戦に特化している為、
極めて限定的である。また、特殊作戦群の後方支援業務も担当している。
災害派遣や民生協力、国際貢献活動も行っている。
なお、正式名称は第1空挺団後方支援隊である。

落下傘で降りてくるのは何も人だけではございません…
食料、物資、ときに車両も。
それをどのように降ろすか、そこは空挺後方支援隊さんの腕の見せ所!





後ろから見るとこんな感じ〜〜



このようなご説明文が…





すごいですねえ…航空機の発達は、物資輸送の可能性を格段に広げました。
車でさえ空から「落としてお届け」できちゃうんですよ〜
それもこれも「戦争」があったからの進歩…というのはちょっと気分が複雑…



ということで…







結構マニアさんが群がっていたので、
写真を撮るのがなかなか大変でした。
面白いですよね〜〜〜頭をささっと下げることができるなんて〜〜〜

次回は、旧軍の戦車、火砲、そして鹵獲品のご紹介となります!
ガルパンでおなじみの、「あの」戦車も出てまいりますよ〜〜〜
よろしければおつきあいください!!
コメント (4)
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