私はこの日、午前2時30分まで、区内をまわりました。
町の中は騒然としていました。
夜中まで、橋を渡り、黙々と歩いて帰る人の波はとどまりませんでした。
家は、どんなに古くても壊れてはいませんでした。
消防署や役所の災害対策本部に聞いても、人災はありませんでした。
まずは、よかったと思いながらも、しかし、安心する気持ちにはなれないまま、
避難所や町の様子を見て回りました。
帰宅困難の人が相当でています。
私のところには、千葉の議員さんから「帰宅困難者を江戸川区で受け入れて!」と
メールが入りました。
しかし、各施設が一時避難所として開設されたのは、夜になってから。
0時過ぎにようやく、青い毛布が支給された施設もあります。
松江プラザでは、小松川橋を渡り歩いて帰宅している人が、
小松川警察で一番近くはここだと聞いて訪れた人や
船堀の方からも来た人がいるとのこと。
(後日、対応に追われた警察の方々は、
長い間歩いてくる人がいるので、主要道路には、給水所などを
設けたらいいのではないかと、話してくださいました。)
北葛西コミュニティでは、中国の在日の方が、危ないから避難をと、
横の連絡を取り合って来られた方も多かったようです。
また、葛西区民館にはすでに150人と聞いたので、訪れると、
丁度一時避難所に来た4人の人と一緒になりました。
家が古いので怖くて来たと言います。
隣に済むおばあちゃんを連れてきた人は、
車いすを押すのは初めてとのこと。
坂の上り方も降り方もわからず戸惑っていたので、
車いすの使い方をお伝えし、避難所に一緒に行きました。
1階は、葛西区民館のロビーの椅子を使い、寝る状態で、
2階に行けば、和室もあるのでそちらの方がゆっくりできると思ったものの、
エレベーターは止まってしまっているので使えず、
1階のロビーに行くしかありませんでした。
でも、長椅子はもういっぱいで、
奥から職員の方が、折りたたみ椅子を用意してくれました。
2階のサポートセンターでは、乳幼児を連れた方が多くいました。
話を聞くと、だんなさんの仕事が場遠く、帰って来られない。
赤ちゃんと二人きりでは怖いので、来たと言います。
最初は、近くの小学校に行った。しかし、そこでは受け入れてはもらえず、
遠くの施設を紹介されたが、乳児をかかえてそこまではいけないと思い、
困っていたところ、それから3時間位して、葛西区民館が受け入れると聞き、
ここなら来れると思い来ました、とのこと。
もっと早くに、受け入れてほしかった、と言います。
区内の施設の受け入れが整ってはいないことを目の当たりにしました。
また、清新町での、「液状化」のひどさも確認できました。
きれいに舗装されていた、アスファルトの道路が、
吹き出てきた泥でいっぱいになってしまいました。
これが、液状化です。
周囲は、通行禁止となっていました。
この向こうに、液状化してしまった道路が続きます。
地震が起きたら商品に埋もれてなくなってしまうと
心配されていたお店もまわってみました。
すると、電気がついています。
聞いてみると、地震の直後は商品がめちゃくちゃになったので、
3時間は店を閉めて、片付けををした。その後、営業再開したとのこと。
誰もけがをしなくてよかったと思いながらも、
余震が続く中、大丈夫だろうかと不安をかかえながら、
午前2時、店を後にしました。
真夜中、署員でいっぱいになっていた消防署。
地震後の火災は、三軒。いずれもボヤ程度。
また、人災の出動はなしとのこと。
まずは、よかったと思いながらも、安心する気持ちにはなれないまま
避難所や町の様子を見て回りました。
携帯が全く使えなくなっている中で、情報を得るためには、
直接現地へ行き、そこでの情報を見聞きするしかありませんでした。
そこにいる人たちに様子を聞くことで、
現地の状況と、さらに見ておかなければならない場所がわかり、
次の目的地へ進みました。
午前2時半、江戸川区では、
現時点では家を失った人がいないということ、
人災はないということを確認をし、
帰宅をしました。
しかし、東北では、大変な惨状となっていることが、
テレビに映し出され、
胸はどんどん苦しくなっていきます。
こんな被災地でもない私がこれだけふあんでいるのだから、被災し家族をなくし、原発の被爆の心配までしなくてはならない、被災者の方に、安心できる、そして真実の報道ができることを、私は心から願います。