2015年秋メニューで「味噌らーめん」を期間限定メニューとして行う意向を、お客様に店内メニューで予告してきました。
妻が「せっかくだから期間限定用の丼ぶりで味噌らーめんやりましょう♪」というので、器を選んでもらいました~。
それがこの「有田焼の究極のラーメン鉢」(右から4種)
そのは何かというと・・・(以下コピペ)
2003年10月、有田商工会議所に1本の電話がかかってきた。
「有田ならではのプロジェクトを立ち上げてもらえないか、その出来上がるまでの過程も『おーい、ニッポン』で放送したい」というNHKからの話がもちかけられた。
電話を受けた川原は、李荘窯の寺内に電話をし、NHKとの打ち合わせに同席を求めた。
NHKとの会議に出席した寺内は、陶交会で参加することを提案した。陶交会とは有田の窯元の二世が組織する、次代を担うべき男たちの集まりである。
企画会議を進めていくうちに、次第にテーマが絞られ、「これまでにない、有田ならではのラーメン鉢の新スタンダードを作る」ことに決定。すぐさま陶交会のメンバーが召集され、14名の男たちがこの果敢な挑戦に賛同し、プロジェクトが誕生した。
それが「プロジェクトArita」。
14名の男たちは、それぞれが思い描くラーメン鉢を作り西有田町のラーメン屋に集まった。
いざ持参した鉢にラーメンを盛ってもらったが、ほとんどの鉢がたっぷりとラーメンを盛ることができなかった。
少ない中から条件に合う3点が選び出され、フォルムの最終調整を行って2種類の試作品ができた。
試作 1 |
試作 2 |
2004年1月、試作品の評価をもらうためにプロジェクト代表の6名は、先ず大阪にある日清食品のインスタントラーメン発明記念館に向かった。
差し出された鉢に記念館の女性職員たちがチキンラーメンを入れ、お湯を注ぎ込んだ。
しかし、充分にお湯を注いでも麺を浸すまでにはいたらなかった。更に女性職員の口から出た言葉は男たちの自信を揺るがせた。
「熱くて持てない、それに大きすぎて持ちにくい」
翌日、男たちは東京へ発った。向かう先は日清食品本社。
ここでもマーケティング担当者から家庭で使う視点からの問題点を指摘された。
次に向かった横浜ラーメン博物館でも、更に追い討ちをかけられるように、「この麺鉢だと、スープ本来のおいしさが損なわれる」と言われ、男たちの自信は完全に砕かれた。
佐賀に戻り、プロジェクトの男たちが召集された。
席上、コンセプトの変更を余儀なくされた経緯が報告された。有田が作るならこうあるべきという思いが前面に出てしまい、国民食とまでいわれるインスタントラーメン、その中でもトップシェアを誇るチキンラーメンを家庭の主婦や子供が食べている姿が見えていなかった。激しい議論の末、「家庭で食べるラーメンのスタンダードとしてチキンラーメンは無視できない」という思いが男たちの胸に広がっていった。
最終コンセプトが決まった。「チキンラーメンがおいしく食べられる、小振りで使い勝手の良いラーメン鉢」。
しかしこの後も議論は続いた。「何で一つの型にするんだ、自由でいいじゃないか」「細かいサイズばかり言わずに他にも考えられることがあるんじゃないか」「ラーメン鉢じゃなくて多用鉢でいいじゃないか」と男たちの思いは入り乱れたが、終いに一つにまとまった。
それぞれの知恵が凝縮された一つの型に、男たちの得意とする絵付けをして市場に出すことが決まった。
TVに映し出された男たちの顔は緊張していた。
小雪が舞う有田の泉山磁石場、そこに設けられた特設ステージに、出来上がったラーメン鉢を神輿に乗せ、神輿を担ぐ男たちは上がった。
そこにはチキンラーメン発明記念館の女性たち、横浜ラーメン博物館のプロたちが審査員として座っていた。いよいよ審査、全員が合格のボタンを押した。会場となった泉山磁石場には男たちの歓声が響き渡った。
そして、涙ぐむ男もいた。
こうして、今店頭には男たちの思いをこめたラーメン鉢が並んでいる。未知の市場に敢えて挑戦した男たちの胸に赤く燃える火に照らされて。
という・・・長い長いストーリーのある「ラーメン丼」でしたが、実際、ラーメン店で実用的に使えるのか???
妻が好きだという器に妻が好きな三つ葉を散らし、鶏白湯らーめんを盛付けてみました!
「見た目高級感あり、垢抜けたいい感じですね~。」(妻)
ですが、オペレーションの工程の中で、沸騰したお湯で温めた器を私でさえ、素手で持つことができませんでした。
しかも器が薄いため、従業員も「この器だと洗うときも何かと気を遣います」というので・・・
やっぱり器の新規購入は今回見送りとなりました。