新11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

2014-12-02 22:38:08 | Weblog

11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

 さて、日本軍の敗戦の年の父の所属の派遣軍に戻るが、その頃からおよそ1年を経た1945年(昭和20年)の彼の所属する軍隊のあり様について、彼の所属部隊による『軍記』はこう伝えている。
「昭和20年(1945年)7月、赤松大隊長の指揮下で作戦に出て、来陽附近での先頭距離300米の銃撃戦を行う。背嚢を置いて立ち撃ちで抗戦したが、味方もかなりの損害を受けた。中隊長以下30名で斬込み隊を編成、中国服を夜陰に紛れて進み山を登りきった頃に夜明けとなり、周囲を見渡すと敵の真ん中であり無駄死にを避けて斬込み隊を中止した。集落に戻り歩哨に従事。終戦も知らずにいたが、中国兵が白旗を掲げて手紙を持参して来た。自分がその手紙を支団長に届け返事を携えて戻る時、敵の小銃弾が飛来した。まもなくこの銃撃は間違いとのことで敵から謝罪があった。やがて部隊は来陽附近の学校に集結。中国軍の指揮下で武装解除を受けた」(後年、日本に帰ってから編纂された、当時の父所属の隊の『軍記』による)といわれる。
 これによると、もしこの斬込み隊が断念されていなかったならば、父は死んでいたかもしれない。そうなると、当然のことながら私は生まれていなかった。その艱難辛苦を思うと、よくぞ中国の指導者たちが寛大な戦後の措置をしてくれたと、感謝せずにはおられない。父の部隊は、その後は中国の国民党軍、あるいは共産党軍(人民解放軍)による武装解除を受けて収容所生活に入ったが、そこで多くの兵士がコレラや栄養失調で死んだとのことである。その後、収容所から解放されて上海(シャンハイ)より出航、1946年(昭和21年)6月に鹿児島に母国の土を踏み、そこから列車で郷里に帰った。
 向こうでは中国共産党軍とも遭遇したらしい。
「共産党軍は毛沢東と朱徳が統制しとるけーなあ、ふん、・・・・、蒋介石の国民軍より統率がとれとって、立派じゃったなあ」
 私がまだ40歳代であった頃、実家に帰省して食事を共にしたときのことである。「立派じゃった」とは「でごわかった」という意味のことだと思われる。瓶入りのビールを注ぐと、ほろ酔い加減の父は質問に答えてくれた。
「あのときの戦闘で一緒におった友達がなあ、腹に玉を食ってしもうて、その場で死んだんじゃ」
「えらい苦しみんさったんかな」
「ああ....、それでもな。しばらくで死んでしもうたな。その場で事切れた。ええ人じゃったがな。お父ちゃんのなあ、軍隊生活で一番の友達じゃったなあ(だったね)」
「敵と遭遇するとなあ。はよう陣形を整えようとするからだく足になるんじゃ。初めはな。パーンパーンという音がしとる間は、鉄砲の弾は頭の上の方に来とる。だから滅多に命中するもんじゃない。それがシューッ、シューッと弾が頭の上をかすめるようになったら危のうなる。そうしたらな、立っとるともういけん。這行といってな、腹這いになって腕を動かして前に進むんじゃ」
 父は両腕を蟹の足のように曲げて、実演して見せた。
「止まって、陣地をつくって戦闘したんじゃないの?」
「いいや、そのときは行軍する途中で向こうと出会ったけんなあ」
「地雷を踏んでしまうこともあるがな」
「そんなときは助からんものかなあ」
「大体なあ、その時は助かっても、後で傷口が腐っていくけんなあ。結局は助からん」
「父さんは、よう死にんさらなんだなあ」
「ああ、運もよかったなあ」
「大けい川をなあ、向こうの川は、日本のような小さい川じゃあないんでえ。端から端まで何百メートルもあるんじゃ」
物思いにふけるような面持ちで父は続けた。
 「向こう岸に上陸する作戦があったんじゃ。おとうちゃんは中隊長付きでなあ。その馬を預かっとったんじゃ。それが川の中ほどで馬がおびえてうごけんようになってしもうた。おとうちゃんはなあ、この馬をむざむざ死なせたら 中隊長に顔向けができん。それでなあ・・・・。仕方がないから前足を背負ってやって川をわたったんじゃ」
 そう語る父の目には光るものが見えたような気がした。まさか、信じられないような剛力を要する話であるが・・・・、おそらく、のるかそるかの「修羅場の力」を発揮したのだろう。
「村を占領したときにはまず食い物を探したな。日本軍がくる前に家を焼いていたこともあったな。牛も鶏も何もかも連れてな。食い物がないときは、カエルやヘビまで食べていた。その後は女漁りだな。じゃが、おとうちゃんはかわいそうでな。言葉はわからんで
もなあ、向こうの人間が何を思うとったかはよくわかる」
 その時のことであったか、我が家の玄関から土間に入り、左手に上がった6畳の板間で父と話していたところへ、いつの間にか祖母がすべり込むようにして座っていた、祖母にはそんなところがある。その時の話の筋では、父は兵隊で行った中国で、何をしていたかは家族に語っていない。そのとき、私からか、父からか、おそらく私からであろうが、何かの言葉が発せられたさい、祖母が間髪を入れずに差し入れた言葉がある。それは「そんなことはありゃあせん。(兵隊なんじゃから)大勢の人を殺しとるに決まっとる」という意味の言葉であった。祖母の鋭い視線が私にも向けられて、大層驚いた。
 父が私に、自分の参加した戦争のことを語った2回目には「戦争はもうするもんじゃない」と話していた。父の口から日本の戦争犯罪に対する反省は聞いていない。私には、父が語ろうとしない話の中身を、「贔屓目(ひいきめ)」に見ているためなのかもしれない。
 いつも、こちらからは長らく語り難い、厳格な父であった。父としても自分の体験を息子に引き継ぎたい。しかし、厳しい労働の日々から来る疲れがそのことを許さなかったのかもしれない。ようやく少しうち解けた話ができる雰囲気になったのは、父が脳卒中で倒れた1988年(昭和63年)頃からである。
 それから8年後の1995年(平成7年)2月には、父は二度目の脳卒中に襲われる。たまたま帰省していた阪神大震災(1月5日)の朝、私たちは別れた。その日の父は、珍しく玄関の外まで出て、「元気でな」と私を見送ってくれた。その目、その顔、そして簡単な言葉のやりとりが、私の脳裏に残っている。
 自宅の庭に植えられた椿の芽が丸くなり始めた2月のある日、私が勝北町の日本原病院に駆けつけたときには、こん睡状態だった。翌日夜半の死去によって、もの心がつくまでの父のことを本人から聞き出すことは永久にできなくなってしまった。かえすがえすも残念でならないい。それが世の中の労働者が体験するであろう、ごくありふれた今生の別れというものなのだろう。

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