44『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風4
めずらしいところでは、小学校の給食で副菜の材料を当番制で持って行っていた。一枚の賞状(B6の大きさ)が残っている。
「賞状
第二学年 丸尾たいじ
よい行い
あなたはよくさかなをもってきましたので表彰します
昭和三十五年十月四日
新野小学校印」
これは、決して作り話をいっているのではないので、信じてほしい。有る日のクラスで、担任の先生から恭しくいただいた、この賞状にいうところの「さかな」は、給食の材料の野菜の代わりにもって行ったのではないか。おそらく、西の田んぼの溝が狐尾池の池尻に流れ込む処、その水溜まりに仕掛けておいた罠とかを引き揚げ、朝早く獲ってきたばかりの魚を、「これは新鮮でぴちぴちしているから、学校に持って行ってあげよう」となったのだろう。魚は生ものだから、おそらく、魚を持ってきてよろしいことになっていたのは、低学年の頃までだったのではないだろうか。普段、学校に持って行くのは、野菜であった。毎日の献立表が給食室の栄養士さんによって前もって作られ、掲示されていて、その日その日で持って来てほしい品目がわかるようになっている。そこで、その中のものを幾つかみつくろって家から持って行くことにしていた。それを朝一番で給食室の前に持って行き、当番の人にそこのはかりで重さを測ってもらってから、記録しておいてもらうようになっていた。
薬草取りは、一見簡単なように見えるかもしれない。なぜなら近くの野や山野に行ってただとってくればいいじゃないかと、言われるかもしれない。たが、事はそう簡単ではなかった。薬草といってもい色々あって、何をどのように探したらよいか、わからないのだ。とはいえ、どれが薬草かが段々にわかるようになると、採りに行くのが面白くなってくる。田んぼ仕事の合間に、祖父や祖母と連れだって付近の野原や小山に暫し分け入ることもあった。その出で立ちは、韓国ドラマの、朝鮮李王朝時代の有名な医師の生涯を描いた『ホジュン』において、主人公が身につけていたものとやや似ていた。違うのは、こちらは日頃見慣れている薬草ばかりが狙い目で、和気藹々の気分での薬草探しであったこと、採取袋だけでなく、土を掘り起こすときに使うような、短めの鎌を持っていたことくらいであったろうか。といっても、まだ育ちの小さいもの、育ち切らぬ小さな芽のものは抜いたり、切ったりせずに、放っておかないといけない。我がにおいては、家族以外に、やたらとその有り場所をふいちょうして回ることもはばかられたのではなかったのか。それが又の収穫を約束するための智慧というものであると教わった。次に紹介する日記の一節は、夏休みの宿題である「植物採集」のために出掛けたのであったのだろうか、。
「8月28日(金)
朝は勉強、植物採集、てつだい、ちちしぼり、犬、ふろたき、草取り。昼すぎ、薬草を取りに行った。オオバコ、ゲンノショウコ、ハブソウ、カゴソウなどを取りに行った。みんなあったので、帰って用意をした。反省、たいへんよかった。」(1964年(昭和39年)の「夏休み日記」より)
9月に入ると、だんだんに朝夕はずっと涼しくなってくる。つい一週間前までは、夜になってもじっとりと汗ばむような蒸し暑い日が続いていたのに、それが急に嘘のように消える。夜のとばりが降りると、虫たちがさまざまな音楽を奏でる。
ちなみに、9月23日頃の秋分の日を挟んだ前後の7日間は春のそれと区別して「秋のお彼岸」といわれる。この頃になると残暑も峠を越して、涼しくなっ
「あれ、まつ虫が鳴いている、チンチロチンチロチンチロリン、秋の夜長を鳴きとおす
おおおもしろい虫の声」(『虫の声』、文部省唱歌)
ふと気がついて家の外に出てみると、月が冴え冴えとしている。きれいな水面のあるところでは、それが逆さに写ってさぞかしきれいに見えることだろう。庭には、ゆるやかな風が吹いているようだ。雲がゆっくり流れて、時折、月を隠すが、すぐに通り過ぎて、また美しい月のご登場となる。
「夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも」(『万葉集』巻八、一五五二、作者は湯原王(ゆはらのおおきみ)で志貴王子の第二王子)
(続く)
☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★
42『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風2
子供は、誠に遊びの天才である。当時の私の田舎では、自然の中に遊びがあった。遊びは生活の一部だったのだ。しかも、ただ単に同じ遊びを繰り返していたのではなく、遊びついでに、また別の遊びを見つける。夢中で遊んでいるかぎり充実していて、疲れを知らない。子供の知恵がよく働いた。河原の石ころの中には、珍しい色をしていたり、模様の入っているものがあって、それを探して歩く。東の田圃の方から家路へ向かう途中に、切り通しの場所がある。その泥岩の岩肌の下は雨露をしのげる。そこに蟻地獄があった。擂り鉢状の穴の中心をつついてやる。すると、宿の主が出てくる。小さな虫は驚いてまた土の中に潜ってしまう。その驚き慌てる様がとても面白い。
私の小学校時代、家の回りの自然は宝物に満ちていた。村のこどもたちはその宝物を求めて歩き廻った。家に持ち帰るほどのものには出会うことは少なかったものの、探している間は眼が自分でも輝いていたはずで、その意味では充実したひとときを過ごしていたことになる。その意味では、子どもはまさに天才だったに違いない。といっても、日々の暮らしの中で、自然にまつわる不満や願いがなかった訳ではない。不埒な考えだが、山形仙がもっと低ければいいのにと考えていた。山の中の暮らしは、便利が悪いことも事実である。第一に寂しい。夜のとばりが降りると人の気配はなくなる。せめて道がちゃんとしていればいいのだが、それらはいずれも狭い。小学校の高学年になるにつれて、都会への憧れに反比例して故郷の閉鎖性に対する気持ちが芽生えていったのは疑いない。
盆は8月13日の宵の辺りから15日まで、家には来客が相次いだ。13日の盂蘭盆に先祖の霊を仏壇に迎える。墓に詣でて先祖の霊に詣でる。14日からお客さんがやってくる。私にとっては曾おじいさん、曾おばあさんの兄弟姉妹からの親戚も含まれる。お客さんが来るたびに、玄関先の板間に大人も子供も出て、正座して挨拶を交わす時代だった。
その親戚の人たちが持ってきてくれる「おみやげ」の中に、餅やあんパンなんかがあるのかと、不思議に思われるかもしれない。これについては、私も疑問に思っていたが。餅はどんな時でも大事な供物として扱われてきたからなのだう。餅をもってこれないときや、持って行く餅が足らないときは、その代わりや補充の役割をあんパンとかが務めることになることになったのだろう。それはともかく、盆に親戚の人たちにいただいたあんパンに、私たち子供が舌鼓を打ったことは疑いない。
盆入りの前日か同日の朝には、西の田んぼの向こうに広がる山の丘陵部分に分け入って、「仏様」に供える草花をとりにいく。仏様を迎えるために、心地よく過ごしてもらうために、正月と同様に華摘みをしてくる習慣はいつ頃から始まったのだろう。季節の花ということで、それらは床の間と表の間の仏壇に飾って、仏様に心地よく過ごしてもらうためのものだと言われていた。一番の目当ての野菊は、そこかしこに咲いていた。菊は奈良時代の末期に中国の方から伝来した植物であって、それまでの日本にはなかったものである。野原には、秋の七草のうち、幾つあったかどうか。栽培されて咲く菊は馴染みが深いが、野菊はそんな派手さや鮮やかさは余りない。ききょうは、可憐な紫の花を咲かせていて、これを手折って持って帰ると、祖母や母に大層喜ばれた。榊(さかき)は家のそばの傾斜地に植わっているので、そこからとってきていた。めずらしいところでは、シモツケやカナメモチも鎌で刈り取って持ち帰っていた。
表の間にある仏壇にはお灯明がしつらえられ、やや小さな四角い膳の中に小さい丸い器で一杯になった。器には少しずつ、ご飯やそうめん、高野豆腐の煮物、里芋煮から麩(ふ)などの柔らかな食べ物が入っていた。膳の中には器が十個くらいはあって、その中には自家栽培の番茶まで入ったものもあった。お茶はあつあつのを供え、一日経った翌日の朝には、母や祖母が「かど」(庭先)に勢いよく撒いていた。そうするのは、そこに大勢の氏神様がいて、みなさんにまんべんにお茶が行き渡るようにと願いを込めてのことであったようだ。このような仕掛けでやってきた祖先の霊に差し上げるべくごちそうを用意して、3日間滞在してもらう。真言宗のおてらさん(住職)を迎え、拝んでもらう時には、粗相があってはならない。縁側から直接家の中に上がられるので、仏壇のある奥の間まで行ってうやうやしく迎えたものだ。当時の子供たる私の目では神と仏は共存していた。
さすらいの歌人、西行(さいぎょう)の歌に次のものがあり、この国が「小さき神々の国」であったことのありがたさを覗わせている。
「何事の おはしますおばしらねども かたじけなさに 涙こぼるる」
さて、盆には、地元から都会にはたらきに出ている先輩が帰ってくる。Hさんもその一人だった。年は20歳過ぎくらいに見えた。友一(仮の名)ちゃんの家には3人のにいちゃんがいて、英(ひで、仮の名)さんは長男だった。遊びに行くと、ステテコ姿で出てきて、左に団扇で仰ぎながら話す。当たりは柔らかムードで、僕らの質問に気さくに答えてくれる。
「大阪は広いよ。まあ海のようなもんよ」
『そんなに広い所があるなら、度肝をぬかれんじやろうか』と考えつつ、なおも尋ねる。「そりゃあ、ビルディングちゅうことじゃろうか。英さんらは都会の賑やかなところをいろいろ知っとりんさんか。」
私は、興味津々で尋ね続けた。
「ははは。僕らは仕事が終わると、連れだって映画にいったり...。まあ、いろいろいいところがあるよ」
なんだか、軽くあしらわれているようだった。次は、誰かが質問を変えてみる。
「女の子?そりゃあ垢抜けしとるよ。きみらはホットパンツって知っちょるか」
「知ってるけど、うーん、やっぱりよう知らんわ」
私らは、「ふーん、そうなんかあ」と溜息をついてから、また何かの質問をする。そのたびに、お兄さんの方からは、スパスパ、モクモクの煙草の煙とともに、機関銃のように繰り出される。私たちは、その言葉に酔いしれるというより、翻弄されていた。
9月1日からの新学期になると、体育祭の練習が加わってくる。授業もだんだん佳境にさしかかる頃なので、いろいろと難しい。それでも、遊べるときには目一杯に遊ぶのが子供の。登下校の道沿いには、夏から秋にかけての花々が咲き誇っている。下校の途中、田柄川に架かる橋のたもとに建っている水車小屋のそばでよく遊んでいた。その辺りの草むらには、ヒガンバナが咲いていた。別名はマンジュシャゲともいう真紅の花が乗っかっている茎は、どれもこれも地面からニョキッと鎌の柄を立てたようにすっくと上に伸びている。白い色のものもあるとのことだが、目にしたことがない。
野菊もまた、愛らしい花を咲かせる。黄色や紫がかったものが路傍のあちこちにもある。秋の日差しに控えに輝く菊の花の繊細なつくりに、日本人は自然の推移を静かに見つめてきた。「九月ばかり、夜ひと夜降りあかしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽の菊の露こぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。・・・・・少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへ上りたるも、いみじうをかしといひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、又をかしけれ」(清少納言『枕草子』)といわれる。
☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★
☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★