27『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2
田んぼには、実に沢山の生き物たちが生息している。一説(「JA全農田んぼのいきもの調査」2014年8月)によると、日本のたんぼには5568種類の動物と、2791種類の植物、原生生物は597種もいるとか。一番ポピュラーなのはトノサマガエルとかヒキガエル、ニホンアマガエルといった蛙の類であって、水を引いた田圃の中で卵からおたまじゃくしへ、さらに蛙へと成長を遂げる。昼は交尾をしているため、カエルの背にもう一匹背負った形のカップルをよく見かけたし、夕方は田圃の畦の方にというか、沈む夕陽にむかってというか。あのだみ声で混声合唱を延々と繰り返していた。米を育む田んぼは、同時にこれらたくさんの生物や自然環境を育んでいることになっている。
日差しが強くなりつつあるものの、いったん上空に寒気が入り込むと、ざあざあとした大雨、あるいはしとしとした小雨という具合に、来る日も来る日もそんな天候不順が続くことがあった。増水すると、田圃の稲が水に埋まり、そんなことが重なると、いもち病の原因となる。この頃にはまた山や野の緑が深まる季節である。
雨と一緒にいろいろな命が活発に動き始める。その頃の楽しみに、「カタツムリの早歩き競争」があった。カタツムリは、乾いた場所は苦手である。ツユクサの咲いている辺りに行くと、あそこにもここにもさまざまな植物の葉にかたつむりがとりついている。彼らはコケ類を食べるのだと大人衆は言っていた。小さいのはそのままにして、大きいものから2、3を捕って帰り、家の縁側で、横に並べて横一列に並べる。
「でんでんむしむし かたつむり
おまえのあたまはどこにある
つのだせ やりだせ あたまだせ」(文部省唱歌)
縁側の片端に、二匹のカタツムリを並べる。そして、「ようい、どん」の合図で手が放たれる。にゅるりにゅるりと、縁側の板をぬらしながら這い始める。頭に着いた2本の触覚をフルフルと震わせながら、甲良をかぶった体がゆるゆる進んでいく。彼らは、ともすれば斜めに進んでいくようだった。何を考えて進んでいるのだろうか、その動く様は見ていて楽しかった。方向を間違えるカタツムリに対しては頭に息を吹きかけて、もとの方向に戻すことを繰り返した。30センチメートル位を先に「泳ぎきった」ものが勝利となる。
カタツムリと対をなすようにいたのは、アガガエルとアマガエルだった。カエデの木の下の草むらにもいた。カエデはカエルデが訛った漬けられた名で、カエルデとはアマガエルの手にほかならない。こちらも鳴く声を聞いたことがない。ドロガエルやトノサマガエルはどちらかというと沼地にいたが、アカガエルとアマガエルは樹林や森や渓流のひやっとした空気の中にいたようだ。春の恋の季節、相手を求めたり、求められたりするときのカエルの大合唱は、いまでも耳深くに残っている。
春から夏の野原では、カジイチゴやニガイチゴが自生していた。トゲを避けながら、赤や黄色の実を食べ歩いた。フキは道沿いの日陰の至るところに自生していた。それを手追折ってから束にして持ち帰り、母に頼んで大釜で下茹でしてから皮を剥く。そして母の手で混ぜご飯の具にされたり、炊き合わせ、それから和え物にされた。味はさほどでないものの、風味というか、田舎の匂いというかがあり、それに噛む時にさくさく感があって、これも美味しい中に入るのだろうか。
蝗(いなご)は、春の池湖畔に沢山いた。農薬を使うようになってからいなくなった。中国古代の歴史によく出てくる程の「蝗の大群」にお目にかかったことはない。しかし、1回くらいはそれに近いのではないかという状況に出逢ったことがある。家の前の坂を下ったところ、そこの「おばな」(屋号)のおばさんの田んぼには稲が植わっている。その時の田んぼは農薬散布をまだしていなかったのではないか。いなご達は、その田んぼの南側の池尻に群生している葦やガマやヨシなどに止まって、やたらに口を動かしていたばかりでなく、その細長い棚田に輝く稲の若芽にも、一気呵成というか、集団でとりついているようであった。その日の私たち子供は、誰からということもなく、あうんの呼吸で意気込んでいたのではなかったか。各人が活発に活動している蝗に近づいて、それを下から掌をスコップで掬うようにして取っては、用意してきた串に刺していく。1時間くらいは猟をしてから、まだ黒い血が滴っている串刺しの獲物の蝗を家に持ち帰って、七輪の火であぶってから食べた。いまでも内陸地方の至る所で珍味とされていることからもわかるように、香ばしくてとても美味しかった。
それに都会生活で育った人には気味悪がられるかもしれないが、大木が腐った灌木の中には、多数の蓑虫(みのむし)たちがいる。祖父の手伝いをして、それを斧で太刀割って、カラスよろしく掴み出し、火にかざしてくるりくるりまわしてあぶる、それを火を置いて何度か繰り返す。そして、砂糖を入れた酢醤油をつけるねなりして食べていた。柔らかく、また香ばしくて案外、いや大変うまかった。だから、今日、東南アジアなどのルポを見ていて、似たような光景が出たとき、そのような食べ方が野蛮と笑えないのである。
蝶の幼虫がアオムシとなって葉の裏にとりついている。その葉の幹だけを残してきれいに食べているのを見かけた。水の流れの緩やかな川や溜め池に棲んでいる。流れの中にいるときはアカムシやイトミミズを餌にして成長する。ものの本によると、蝶の幼虫は獰猛でもある。駕籠に入れて飼うときは共食いを避けるために餌をふんだんに与える必要があるとのことだ。蝶が羽化するときの模様は何回かは見たような気がするものの、自信はない。モンシロチョウの中には黄色や紫のものがいた。心地よさそうに飛んでいた、ナミアゲハの羽の黒と城のコントラストは今でも目に焼き付いている。
春うららかな晴れた日には、雀や喉元が黄色いメジロなどの小鳥を罠を仕掛けてとっていたこともある。これは今思い出しても大変な技術で、鳥が中の小麦とかナルテンの実とかの餌を食べようと罠の入り口に首を突っ込み、餌を嘴にして戻ろうとしてその格子に触れた瞬間、それとつながっているしなった木の枝が反動でバチンという鈍い音をとともに、勢いよく跳ね上がる仕組みとなっている。その力で格子が塞いで、鳥は窒息死する仕掛けとなっていた。こんなことをいつもやっていくならば、私たちの頭の中は、狩猟民族のものになってしまうだろう。これは小学校のはじめで辞めた。みんながしなくなったこともあるが、それよりも罪悪感がひとしおであったからといえるだ。
雉は、我が家の西の畑に時折つがいで現れるのを見たことがある。故郷の山を背にした西の谷の畑で見た雉は大変大きかった。草の間を行き交っていた子供は2羽だったであろうか、親鳥につかず離れずにいた。おそらく10メートルくらいは離れていたであろう。ひとつ捕まえてやろうと抜き足差し足忍び足でちかづいたものの、人間に気が付いた親鳥はにわかに飛び去った。子供の鳥は走って逃げたのだろう、飛び上がらなかった。
それを見ていた私身体に、何かブレーキがかかった。複雑な思いで頭の中が一杯になった。さらに少しすると、今度は「やめろやめろ」という声がしたような気がする。集中していた心の糸がほどけてきた。それ以上追ってみる気にはなぜかなれなかった。いまから振り返っても、あのとき追うのをやめて本当によかった。
当時は、鉄砲を担いで猟をする2人連れを時折見かけた。猟で生計を立てている人たちだったのだろうか。当時は、山で獲物となるうさぎや雉などをみかけることがあった。鉄砲の音が山にこだますると、自分を狙われているような気がして嫌な気分であった。
「早くここらから立ち去ってくれればいい。」
とにかく怖かった。漁師のおじさんたちが2人連れで帰っていく姿を見ると、「もう来ないでもらいたい。」という気持ちで見送った。子供にしては珍しく、大人の面前でも自己主張をしたい思いに駆られた。
学校からの帰り道には、西下内の5つの(流尾、平井、笹尾、中村、そして畑)の一つ、畑地区を必ず通らないといけない。その道が神事場から南へ伸びてくる道と交差する十字路に用水堀があった。そこには掲示用の立て札が立てられてあった。ある日のことだった。掲示板には弾痕が幾つもあった。鉛の玉が食い込んでいるのが幾つも見えた。それを見ていると、恐ろしかった。自分も撃たれるのではないかと想像した。それから、その弾痕の跡に目をやるたびに、この場を早く通り過ぎようと心が騒いだ。
小学校も高学年になると、鳥を追い回ることはかわいそうになってやめた。一方、ツバメは巣をつくる家に福を呼ぶということで、軒先につばめが巣を作れるよう巣の土台がされていた。卵から孵った雛たちは沢山の糞をまき散らすものの、頭にひりかけられた(ひっかけられた)こともあるが、 「こいつ、ちくしょうめ」などと声を荒げたことはなかった。
蜂の巣を父やほかのおじさんたちと一緒に取りに行ったこともある。早朝に出発して、山の中に分け入る。しばらくついて行くと、小枝が絡み合っていて進入が難しく、蜂の巣がひそんでいそうなところで立ち止まる。みなさん、何かを探している気配はない。というのは、その場所に前もってその茂みの奥に蜂の巣があることがわかっているからだ。
まずは、周りの小枝や何かを鎌を使ってどけたりして、巣が見えやすくする。火を点けることで周りに火が回ってはいけないので、蜂を刺激しないように注意しながら、土の中に何層にもなっている蜂の巣を発見すると2人の人が進み出て、類焼につかながるようなものを遠ざける。こちらでは、大人の人達は手っ取り早く燃やせるものを集め始める。私も乾いた小枝を拾ってくる。こうして狩りの用意万端が調うと、小枝と乾いた柴に、持ってきた新聞紙を添えてマッチで火を付ける。柴がパチパチと音をたてて燃え出す。地下の巣はまだ気づいていないようだ。いよいよ火攻めの開始である。
「危ないけえー(から)おまえらは下がってろ」
子供たちは慌てて、5、6メートル以上後へと下がる。前に大人の人の姿があるので、巣がよく見えない。ただ、もくもくとい立ち上がる煙とパチパチと燃える音がしてくる。やがて、森のその場所に高く煙りが立ち上がり、その中から紅い炎が見えるようになる。 すると、煙と炎にあぶられた蜂たちが巣の穴から、次から次へと出てくる。それらのほとんどすべてが焼け死ぬか、よろよろと動作がままならなくなるのが見てとれた。ブーンと空気を震わせて狩りから帰ってきた蜂たちはパニックを起こしている。
「子供はもうちょっとさがれえ」
大人衆のまた誰かが叫んだ。
「ここでやられたら大変だ」
私たちは、「きょうとい」(こわい)という言葉の響きのごとく、びくついており、黙ったままさらに後ずさりした。
「パチパパチッ」
と紅蓮の炎が燃えさかっている。そこから10メートルばかりの後ろまで遠ざかる。それでも蜂が沢山ブーンと上空を舞っているのがわかる。
「あとで巣を家に持って帰って見せちゃるけん、おまえらはあぶないけー、もうかえれい」
もう一度、今度は柔らかい声が飛んできた。その声を聞いて僕らは逃げるように駆けだした。すずめ蜂が背中の方から追ってくるようで、子供心に恐ろしかった。森を出たときにはホッと一息ついた。
それは私が小学校の高学年か中学に入ってからの頃のことだが、すずめ蜂に頭を刺されたことがある。振り払えばよかったのかもしれない。しかし、やすやすと、その蜂が首の後ろ側にとりつくのを易々とゆるしてしまった。その当時は、すずめ蜂が黒い色にいたく反応することを知らなかったから、黒い頭の髪に向かって飛んできたとき、とっさに動いて逃げればよかったのかもしれない。
そいつは頭に登っていった。「どうしちゃろうか」と考え始めたところへ、「ブスッ」とやられた。そしても蜂はいづこかへ「ブーン」と飛んでいった。この蜂の一刺ししひどかった。痛いというよりは、むしろ頭全体が舵のようになって、苦しい目にあったのを覚えている。幸い、母が冷やしたり、いろいろとしてくれているうちに痛みと苦しみが和らいでいったようである。今なら、あんな無謀なことをする気にはなれない。
アメリカザリガニもよく捕った。はるばるアメリカから渡ってきて、繁殖力が強いので、溝や池の周辺の草むらの中で幾らでもとれた。北欧や中国の上海でも庶民の味として、対就職となって久しい。当時においても寄生虫を抱えているという話を聞いていた。だからよく焼いて、しっぽの肉のところだけ胸部から引きちぎって食べていた。
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