新36『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち2(遊び)

2014-12-04 10:18:59 | Weblog

36『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち2(遊び)

 夏といえば、子供が自前で楽しめる、夏ならではの遊びがいろいろあった。一つは、昆虫採りだった。小さな命を束縛するのはかわいそうなので、昆虫採集の他は、捕ったら、その後全部はなしてやるのを通例としていた。蝉獲りから紹介しよう。蜘蛛の糸をわっかに塗った自作のものか、合繊の購入品である袋状の虫取り網をもって、野や林に分け入った。柿の木などの低木にとりついている蝉の大半は小さなミンミンゼミか、大きなアブラゼミだった。網を近づけると、左に右に場所を移動する。敏感な蝉はこちらが網をかぶせ終わらないうちに、小便らしきものをひりかけて飛び立っていく。蝉からいうと、「ざまあみろ、俺は簡単には掴まらんぞ」という訳なのだろう。
 アブラゼミやツクツクホウシはもっと高い杉の木や孟宗竹にとりついていた。だから、下からは葉や梢や森に差し込んできた陽光に遮られてよく見えない。蝉獲りは昼通しでやっているので、蝉獲り人同士が森の中ではたはちあわせになることもある。そんな時は、互いに虫かごの中を見せ合ったものだ。
 もっと静かな所で鳴く孤独になく蝉もいる。その名は蜩という。彼らがいるのは樹木がうっそうとしているところで、その一帯に足を踏み入れると、涼しげな風が胸の中に吹き込んでくる。松尾芭蕉の句に「先ずたのむ椎の木もあり夏木立」とあるが、その夏木立の下は、太陽光が遮られて昼間でも暗いのではないか。頭上では、竹の梢のあたりが風に吹かれてそよそよと揺れて、なんとも幻想的だ。蜩(ひぐらし)の声は何やらもの悲しい。たまに低い位置にいて、捕虫網を伸ばして採ったこともある。でも、大抵はぐんと高い所にいて、目を皿状にして探しているうちに不自然にそり上げた首がたまらなくだるくなる。たまに見えると、緑色の涼しげな姿をしている。初めは採ろうということも考えた。しかし、気持ちが周囲の静寂に馴染んでくると、網を伸ばそうという気は萎んでしまうことが多かった。
 さっきまで、木にとりついて樹液を吸っている蝉を面白楽しく追っていた。その自分がその光景の真ん中に居たのが、後ろの方へと退いていく。代わりに自然の中に活かされている自分がクローズアップされてくる。それだから、小学生の半ばには蝉獲りはむなしくなってやめてしまった。あのときの自分は心持ち自然の一部となって、虫たちと同じような空気を呼吸しているような気持ちになっていたにちがいない。懸命に鳴いている蝉たちの命は、わずかに2週間ほどのものでしかない。はかない命だ。地中で過ごす六年間かの方が、ゆっくりと時間を過ごせて、さぞかし幸せなのであるまいかねと考えたくなってしまう。
 そんな夏木立の森にも、視線を膝下に落とすと、いろいろな生き物たちが暮らしている。中でも、蝶やトンボはセミよりもっと低いところで動き廻っている。これらの小さな生き物のおしりも追いかけていたのだから、彼らにとっては迷惑なことであったろう。アオスジアゲハは高い木立に絡みつくヤブカラシの葉にとりつき、蜜を吸っている。せわしないのはモンシロチョウで、追っても逃げ足が速くて、なかなか捕獲できない。
 昼間の池や沼にはトンボが群れている。その棲息域は、道路の際の茂みから山間の草原、平地の少ない棚田から、草の生い茂る土手、人の手が加わっている田んぼのそばのあぜ道、陽のあたりにくい場所にもいる。彼らが低空を飛んでいる姿、なかでもトンボの雄が雌のおしりを、自分のおしりでしっかりとつかんでいる姿に出くわす。圧巻は沼や池尻の藪にいるときで、蓮やジュンサイの葉っぱに雄が止まり、「あれ?」と見ているうち、しばらくすると雌が水の中に首を突っ込んだ。雌がジュンサイの茎か何かに卵を産み付けるためなのかもしれない。おそらく、水の中はほどよい音頭になっているのだろう。
 小さな生き物たちは、家の庭やその付近の植物にもとりついている。どうやら、蜜を吸いにきているらしい。テントウムシがいる。その可愛さたるや、語るに落ちない。彼らは、余り飛ばない。それでも、場所を移したりするときは、小さな羽を振るわせて、低空を飛んでいく。丸い背中は、斑点がついていたり、紺碧の色をしたのもいた。かれらが飛ぶ様はかわいい。かまきりは自分の世界に浸っているようだった。地面には蟻や大小のヤスデや虱に似た地中生物たちがいる。ミミズは大抵が土を食べるフトミミズで、シマミミズは見えなかった。こちらの方は牛ふんや生ごみの捨て場に沢山見かけられた。蜂についても、アシナガバチやミツバチよりもつと小さい蜂が飛び交って森に棲息していた。
 樫の木などにはヤニの出ているものがある。そういう木肌の現れた所には、カブトムシやクワガタムシが樹液を吸いにやってくる。蝶もやって来る。その中にはさなぎから脱皮したばかりの羽をしたのもいる。蜂がいる。スズメバチやアシナガバチだ。蛾がいるというわけで、さながら昆虫のデパートと化している。みんな押し合いへし合いで、いいところを陣取ろうと争っているようだ。こちらはスズメバチの毒針にやられたらたまらない。だから、かれらを刺激しないでおく。カブトムシは直ぐに捕獲できるものの、クワガタムシはハサミで傷つけられる。注意して、捕獲して虫駕籠に入れたものだ。
 「くちゃめ(まむし)がおるから長靴を履いていけえよ(いきなさい)」と祖母と母にやかましく注意されていた。まむしは田んぼの畦道(あぜみち)によくいた。農道に出て来ている時もあるので、よく見て歩かないといけない。まむしを踏んでしまうと、噛まれやすいからだ。草刈りをするときは手元に十分注意しないといけない。まむしが縮んでいるときは、ジャンプしてくる前触れとみてよい。目の表情が鋭い。私は不用意に草むらに入ることはしていない。ジリジリと太陽の日差しが照りつける田んぼ道、その真ん中付近の上に思いがけなくまむしを見てからは、尚更注意するようになった。
 夏には、また鳥たちの活動も盛んになる。かれらはいろいろな方法で命をつないでいた。森の中で、やや大きいのは、ひよどり、赤いような、橙色のような、それてせいて背中と羽の上の方は白っぽい。鳴き声は、記憶に残っていない。
 メジロは、喉から胸にかけて輝くような山吹色をしている。尾は短く、目には白いアイリングがある。モズはスズメより少し大きくて、黒褐色で地味な色ながら、尾が長い。どちらも、キイキイとかチイチイとか鳴いていた。平地から山地まで、明るい林のあるところや、農耕地でも見かける、どこにでもいるような小鳥である。みみずとかの小動物を嘴にくわえて、小枝から小枝へとさえずり渡り歩いているときは、きっとご満悦であったのだろう。
 雉(きじ)は、母と一緒に西の山に近い畑に行ったときなどに、時々出くわした。比企丘陵でよく見かけるキジバトとは種類が違い、尾が長くて、体も結構大きい。その当時、つがいでいるのは見たことがなく、其の時は子連れでいた。どうやら、餌を捜し歩いているらしいのだが、こちらは畑仕事で来ているので、そのまま眺めている訳にもいかない。さらに畑に近づくと、親の雉がそれだと気づいて、急に向こうの林がある、いやその向こうの山の方向へと駆け出した。雛たちはまだ飛べないので、親鳥の後をよたよたとついて行く。追いかけずにいてやると、親子ともども竹や何かの茂みの中に消えていった。
 里山に近い田んぼには、処どころ、かかしが立っている。「やまたのかかし」をご存知だろうか。さしずめ、かかしは稲の守り神というところだろう。「ヘノヘノモヘノ」とやすぎ節の「ひょっとこ」が付けるような面白い顔を書いてから、「はでやし」で作った手足と胴体の上に頭を取り付ける。そのかかしとかかしの間を、太陽の光を浴びてきらきら光る色どりどりのセロファンが結んでいる。いわく、「ここは、ちゃんと見張っとるぞ。おまえたちの来るところではないぞ」ということなのだろう。
 出来上がった頭の上から菅笠を被せると、「山田のかかし」の出来上がりだ。簡単なつくりであるが、植えたばかりの稲苗の上にきらきらしているセロファンの帯とともに、夏の日差しに輝いている。
 「山田の中の一本足の案山子(かかし)、天気のよいのに蓑笠着けて、朝から晩までただ立ちどおし、歩けないのか 山田の案山子」(作詞・作曲は未詳)
 その頃は、かかしの効用は、あれを見てからすや何かが「これはかなわん」と思って退散するからだと聞かされていた。その主たる相手としては、雀とかカラスとかではなかったか。「ははん。そんなもんかなあ」というのが、感想であった。
 今から顧みると、夏に長雨があったり、日照が足らぬと、稲に「いもち」が大量発生し、「いもち病」にかかったときには稲穂への実入りが少なく、その分稲穂が軽くなってしまう。天候によっては、空気が湿ったり、稲の穂が水に晒されるので、どうしても稲穂にカビがついてしまう。その糸状の菌が稲穂に入ればそこで菌が繁殖して、中の実が枯れてしまう。
 一方、ウンカとか、カメムシなどの害虫はなにしろ生命力が旺盛である。いったん発生しだしたらきりがない、どんどん田圃にひろがっていく。これにやられると、茎が茶色く変色する。そこから、稲に食い込んでいて、あたりに白い卵を落としながらじわじわと広がっていく。こうなると、成りの田圃にも伝染していくので、農薬散布をして除菌するしか道がなくなる訳だ。ともあれ、そんな冷夏には、ある程度の収穫減は覚悟するしかない、籾すりをする前から不作であることがわかっているだけに、農家にとっては辛い作業だ。
 季節はずれの夏風が吹くときもままある。そんな時は、稲の痛みがひどかった。早稲の場合は稲が受粉するときに風に吹かれるといけない。日照りの夏で水が田んぼに回らなくなっては尚更いけない。根元が黒黒とした酸化鉄の衣を付けているのではよくない。そんな根は地中で伸び続けておらず、こうなると土壌中の養分を吸い上げにくい。そうなると生育が悪くなるので、急いで田んぼに水を回してやらないといけない。
 7月下旬からの夏休みに入ると、流尾地区の子供たちは、朝のラジオ体操に出かけることから日課が始まる。会場は坂を下って「あがいそ」に至り、そこから50メートルばかり急な坂を上がったところにある康雄さん(仮の名)の家の庭である。ラジオ体操第1と第2をやり終えると、おばさんに持ってきた参加簿に「丸尾」の判子を押してもらっていた。家に帰ると、食事をする。それから、家の作業で田圃や畑に出かけていた。
 夏休みは、いろいろと遊んだものだが、夏でないとできないものに水泳がある。仕事の手伝いが昼で一段落するときは、家の前の狐尾池でよく泳いだ。夏休みには、の子供たちが連れだってこの池に泳ぎにくる。中には、大きな浮き輪を抱えている女の子もいる。西下全体(そこには流尾、笹尾、中村、平井の各地区がある)の父兄が交代で、監視してくれた。私は、泳ぎは余り得意ではない。それでも、背泳ぎや平泳ぎでゆっくり泳ぐ分には疲れにくい。これだと、泳ぎながら、周囲の景色を眺めたり。まわりので泳いでいる人に声をかけたりできるから、安心だ。
 水の中で目を開けると沁みて痛いので、水中メガネを重宝した。耳に水が入ると、急いで上がって、近くの熱くなった岩に耳穴を当てる。しばらくすると、なんだか耳の奥がむず痒くなって、その後中の水が出て来た。困るのは水中で足がつることがあって、いざ、「助けて」となったら、当番のおばさんたちが浮輪を投げてくれるだろう。池の岸沿いに遠泳すると、そこは浅瀬になっていて、ガガブタやヒシの類が繁茂していて、これに足を取られると厄介である。幸い、私が1年生から6年生までの夏には、池での水難事故はなかったようだ。
 森の中では、蝉採りに励んだ。「深山幽谷」とまではいかないが、仲間と連れだって、たまに林道に沿って森の奥にまで「蝉取り」の足を伸ばすことがあった。「カーナカナカナ」と鳴く蜩(ひぐらし)を竹竿の先に付けた蜘蛛の巣リングでねらう。彼らはほかのセミとは違い、ひんやりした高い木の茎や間だけ、孟宗竹の空間を好んでいたようである。だから、竿の届かないこと高みにいることが多い。大抵はどこにいるかを確かめることで満足していた。特に、深夜(晩)、あたりが静かになった中でさざなみのような音色には、うっとりするほどの魅力が宿っていた。
 一通り採ってきたセミたちを眺めて楽しんだ後は、放してやった。正直にいうと、そのままかごに囲っておきたい気持ちはあった。けれども、昆虫採集で殺すのは惜しいし、かわいそうだという気持ちの方が優っていた。
 珍しいところでは、家の後ろに杉や檜の森があった。昼でも光を余り通さない場所がある。土は湿っていて、ベニシダやスギゴケのたぐいが群生していた。そこには、小さいトンボたちがいた。鮮やかな青や黄色の美しい姿に見入ったものであった。赤トンボや青トンボの群れ飛ぶ夕空を慈しんできた。トンボは竹林のなかにもいた。
 新竹が育ったあとには竹の皮がくっついている。地面にも竹の皮が転がっていた。それを拾い集めて帰る。皺を伸ばして溜めておくと、桐を買う人とかが来たときに一緒に買い上げてくれたからだ。当時は冷蔵庫は普及していなかった。竹の皮には殺菌作用があって、肉を包むときには重宝する。いまでも都会の下町の肉屋さんで買い物をすると、ゴワゴワした竹の皮に包んでくれるときがあるから不思議だ。
 母に頼んで某かの小遣いをもらい、組立飛行機を買いに行った。値段は何百円かしたはずで、決して安くはない。国道53号線を渡って向こう側にある城之山商店(仮の名)とかで買った。それをかごに入れて自転車で帰る間にも、これから始めるものづくりと飛行しているときの空想で胸が膨らんだ。家で長い袋を開けて、軸から翼、尾翼まで新聞紙の上に並べる。作り方は、まずは骨格を作る。セメダインを使って丁寧に組み立てていく。脂紙に向かい寸法どおりに鋏を入れていく。それが済むと骨格に紙を貼っていく。最後にプロペラと附属のゴムを取り付ける。ゴムをグルグル巻きにしてからその手を離すと、弾力でほどける。その力を利用してプロペラが回り、飛行機が飛ぶ仕組みだ。出来上がると、広い所で試してみた。
「上がる上がる」
 そう呪文を唱えてからプロペラを放す。飛行機はたいがい斜めに飛んでいった。滞対時間は精々5、6秒くらいだが、うまく浮くともっといくこともある。
「上がった。やったやった、お見事」
などとはしゃいでは、その日ばかりは何十回も飛ばしたものだ。

(続く)

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