40『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ3
私の子どもの頃は、田舎では今よりもずっと多く、仏教や神道が身近なものとしてあった。生活をしていく上での、あれもこれもが、その雰囲気というか、その網というか、影響下にあったといっても、過言ではなかったであろう。
そのことをあれこれ振り返ると、浄土教でいうところの「西方浄土」も含めて、大方の大乗仏教では、普段はあの世に住んでいるご先祖のたちの仏(ほとけ)の魂は、さしあたり、独力ではこの世に戻ってこれない、とも考えられる。というのも、もし独力で戻るのなら、厳密には古代のエジプトにおけるようにミイラとかがこの世に残っていないと、理屈が成り立たないからだ。つまり、古代のエジプトの人々は、彼らは人間や物の本質を「カー」であると考えた。その「カー」を中心として、「バー」(魂)と肉体がくっつくことで生命力が発揮される。これを、吉村作治氏の「吉村作治の古代エジプト講義録」上、講談社文庫)によれば、人間が死ぬと「バー」はあの世に去ってしまうのだから、「カー」は独りぼっちになってしまう。一方、肉体は完全に滅びてしまうから、人間存在の本質であるところの「カー」は、そのままでは収まるところがなくなり、困ってしまうだろう。それゆえ、古代エジプトの人々は、「カー」が収まることが可能な、生前の肉体に代わる「第二の肉体」、すなわち「ミイラ」が必要だと考えた。
このわかりにくい「カー」についての大城道則氏による説明にも触れておきたい。
「「カー」とは神々であろうと王であろうと、あるいはそれ以外の人であろうと、彼ら一人一人に個別に与えられた「生命力」という概念であった。「カー」は図象として表現される際には、肘から先の両腕を高く持ち上げたヒエログリフで表された。クヌム神が轆轤(ろくろ)の上で土器のごとく人間と「カー」を作り上げることにより、出産とともに個々人が獲得すると考えられていた。そのため、あらゆる生命体が「カー」を内に持っており、それこそがそれらが存在しているという証でもあった」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観」河出ブックス、2015)。
このエジプトの「カー」は、人が死ぬと肉体を離れる。その「カー」は、個々人の肉体的死の後にも、その死んだ肉体の代わりに供物としての食物(栄養)を受け取る。それゆえ、人々の心の間では、その摂取の続く限り、「カー」は存在し続けることができる存在にほかならない。
「さらに、「古代エジプトにおいて、墓は「カーの家」とみなされており、「何々某のために」という言葉とともに死者に対して唱えられた供養文が永久に「カー」のために準備されることを目的として作られたのだ」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観」河出ブックス、2015)とも言われている。こうなるのは、独特の「カー」の概念ゆえのことであろう。
仏教は、もともとは釈尊の無神論のみであった。ブッダというのは、「醒めた人」という意味で、仏教でいう場合には釈尊のことをいう。大乗仏典においては、ブッダの生の声を収録しているものばかりでなく、経によっては後の時代の多くの創作が入り込んでいる。日本にブッダの言葉が伝わりだしたのは、近代になってからではないか。さしあたり中村元訳の『ブッダの言葉』(岩波文庫)をひもとくと、そこに並んでいるのは神秘さなどまるでない、淡々とした彼の現世感なのである。
ところが、このような論理構成に留まる限りは、来世は保証され得ない。だとすると、なんとかして新しい考えを編み出さないていけない。後の人達がそう考えて、紀元前後の大乗仏教運動を興した。その中で支配的になったものこそ、仏教の有神論化にほかならない。彼の後継者達は、そんな目的意識に導かれて、教祖・ブッタ(仏陀)にはなかった新たな論理構成をもって、あの世(浄土、極楽、天国など多彩な呼び名となっている)とこの世との通信をどのように確保するかが、各宗派の知恵に委ねられる。
その端緒の一つは南アジアなり、東南アジアであったのが、本家のインドにおいては、アショカ王の治世下といった事態に興隆期を迎えたものの、その後は急速に廃れていった。まだ仏教の力というか、勢いがあったインド仏教のことを学びたい。そこで唐(とう、中国語で「タン」)の時代にインドに赴いた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)らの努力により中国に伝わり、そこで大乗仏教の23派ともいわれる日本仏教の諸派が花開いた。そして、それらの多くが教典や法具などとともに、日本から修行に参じ、かの国の師匠から印可(いんが)を授けられた熱心な僧侶たちによって日本に移植される。
こうした経緯については、鎮目恭夫氏が次のように洞察しておられる。
「しかし、釈迦の死後に釈迦は擬人的な神(ただし仏教哲学の仏・法・僧という三位一体説では半擬人的な神だが)になった。そして、彼の弟子たちによってこの神を信奉する仏教集団ができて、その後百~二百年の間に、仏教はインドでかなり普及し、古代インドの統一国家のアショカ王の入信・協賛まで得たが、やがてヒンズー教に圧倒または吸収され、西暦紀元後七世紀にイスラム教が入ってくると、インドではほとんど滅びてしまった。しかし、仏教の流れの一部はインド大陸の南端のセイロン島(スリランカ)や、東方のビルマ(ミャンマー)やタイやカンボジアなどで生き残り、南方仏教と総称するものになり、また別の流れは北インドから発してチベット中国・朝鮮・日本で生き残って大乗仏教と総称されるものになった。」(鎮目恭夫「人間にとって自分とは何か」みすず書房、1999)
「仏教では、それよりずっと前のイエスとほぼ同時代から北インドで始まった大乗仏教への流れの中で種々の教典の作成と教派の形成が進み、いろいろな如来や菩薩と呼ばれる準ブッダを含む点では多神教になった。ただし、いろいろな如来や菩薩は同一の釈迦の霊の化身とされているようだから、ユダヤ・キリスト・イスラム教とは異質の一神教といえよう。いずれにせよ、釈迦は生きてるうちに非ブッダからブッダになったとされるが、いろいろな如来や菩薩は最初からブッダである擬人的な神のように見える。さらにまた、大乗仏教の進化の一つとされる密教には、信者は特定の型や儀式や祭礼行事への陶酔の中で生きたままブッダになれるという説(即身成仏)も現れた。これらのことからみて、大乗仏教には、バラモン教の梵我一如の夢を新しい形で復活させたような面がある。」(同)
さて、我が家と言えば、その真言宗の一檀家である。少なくとも、江戸期には、すでに真言密教がこのあたりにも宗教域を持っていたようなのだ。我が家においては、盆には、ほとんど毎年のように何家族かの親戚の皆さんが、先祖の墓参り方々やってきていた。時には、父の5人兄弟のうちの2、3組が我が部屋に一泊してくれるときもあって、その時は夏なので、夜は外に出て花火をやったりして、従兄弟のみんなと一緒の時を過ごした。これを行うときは、中くらいのバケツに水を入れて、側らに置いておく。花火は、竹の棒に花火火薬を塗った「スパークラー」からきんきらの紙の筒に花火火薬を詰めた「トーチ」、火薬を丸めた「火薬玉」など、いろんな種類が行き渡るように、予め買っておいた。一番夏にふさわしいと思ったのは、可燃剤に硫黄と木炭、酸化剤に硝石を用いる「線香花火」であったろう。
まずは、こより状の細くなった元締めのところを手に掴んでぶら下げる。そうしておいてから、こよりの先端にマッチで火を点けると、その火が上に向かって燃えていくうちに火球が大きくなってゆく。そこからが面白く、ついには紅色をした火球が大きな固まりとなる。その火球はゆらゆら揺れているようでもある。それから数秒後、その火球からちらちら花火が出始める。なんだか結晶が弾ける際、内に秘めていたエネルギーのほとばしりのようでもあった。花火の色は地味な紅色で、江戸期の花火もこの「和火」であったとされる。この方が、なんとなく風情があるらしかった。細い花火の一筋、また一筋は360度、どの方角に出るかわからない。だから、次はどんなになるかと興味津々で眺めていた。他の人がぶら下げている花火も観賞できて、みんなで仲良く楽しめる。
花火が激しく火花を散らす間は7、8秒くらいであったろうか、それが火勢の盛りの時で、あとは徐々に花火の筋が細くなってゆき、ついに火花がすっと消えて、火急は色を黒く変じて、ぽたりと地面に落ちる。儚い、しかしその火花が瞬いている間、人は普段の自分を囲っているしがらみから逃れられる気がしているのかもしれない。実際は、何人もが手でぶら下げてやっているので、火は隣で燃えている花火にくっつけてもらっていた。この花火は、ひと揃い10本くらいがセットでうられていて、他の例えばロケット状のものとかに比べ安価であって、しかも古の人々が火を扱っていた姿もこうであっとたのかと彷彿としてくるものがあったのではなかろうか、そんな不思議な魅力に包まれているようであった。そうして、火花の強さとはかなさと両方味わった後には、一服の清涼感というか、夏の風情を味わうことができたような気がしたものだ。
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32『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏の自然と風物)
我が家では、小学校の低学年までは寝る部屋に「蚊帳」をって寝ていた。それを張らないで灯りを消すと蚊に食いつかれ、血を一杯吸われてしまう。しかし、当時は悲しいかな、「吸血鬼軍団」が病原菌を媒介しているという意識はほとんどなく、無知丸出しの意識の中にいたようである。それから、まだ起きているとき重宝したのが、蚊取線香で、あの渦巻き状をしたものである。それには除虫菊の粉が練り込まれていて、それが彼らを「イチコロ」にするのだと聞いていた。ひょっとしたら、その頃にはもう原料は除虫菊そのものではなく、化学合成成分に置き換わっていたのかもしれない。
蚤(のみ)も、おそらく畳の中に沢山いた。あれが背中に何かの弾みでちょろっと入るとたまらない。腕を回してボリボリ掻くとしばらくは楽になるのだが、そのうちに腫れ上がってよけいにかゆみがひどくなる。闇の中で蚤を捕まえるのは大変だ。なにしろ小さい生き物なのだ。ばっと捕まえに言っても、ビョーンと跳ねるのでなかなかつかまらない。やっと捕まえたら、そいつをすばやく指先で「プチッ」と潰す。そのため、梅雨が終わる頃には、蚤やダニの跋扈をさけるため、畳の下には防虫剤を頻繁に撒いていた。蚊が居間にはいなくなり、蚤に噛みつかれることも大方なくなったのは、小学校の高学年になってからだ。山深い田舎のこととて、衛生の知識や家の周りの排水をきちんとするまでには時間を要したのではないか。
夏場には「おひつ」は竹で編んだものに代えられた。冷蔵庫のない時代には、御飯を長持ちさせるためには湿気と暑気をなるべく避けなければならない。蝿をさけるために新聞紙や濡れふきんを載せて、天井下の横柱(梁)に釘で架けられた。濡れふきんを張り付けたのは気化熱を利用するためで、経験から生み出されたものだろう。
はえは実に手強い。手で追っ払っても、また「ブーンと」いう音とともにやってくる。そこで、蝿たたきで蝿をたたくのが日課だった。こどものおやつは、母が作ってくれるながし焼き、水飴はどこから仕入れたのだろう。それをこっそり、端をシルシル巻くようにしてあめの棒にして取り出し、あと取って食べた。ばれていたはずなのに、母に叱られたことはなかった。
夏には、勝北の到るところで、カーネーション、グラヂオラスやあさがお(朝顔)が咲いたようだ。あさがおの花は大変面白かった。竿を立ててやると、1~3メートルの高さに左巻きに登っていく。やがて花のつく部分が膨らんで、ある朝きれいな花を咲かせている。朝顔の彩りには、色々ある。一番なじみのあったのは、紫に白の線が入った色柄だったように思出すのだが。記憶をたぐり寄せようとしても、途中でプツツンと途切れてしまう。私のような凡人の記憶とは、その程度のものなのか。朝顔の花は、早朝が一番はりがあって美しい。そのときは、まるで朝露を受けたようにシャキッとしているものの、昼にはヘナヘナとなりしぼんでしまう。本格的に咲くのは夏の盛りを過ぎて、陽差しが少し柔らかくなった頃だが、花の寿命はわりあい長く、9月の中旬になっても、それそせれの蔓に次から次へと花をかえながら巧みに咲く。
夏休みには、交代で学校の自分のクラスの花壇に行って、植わっている朝顔などの花に水をやりに来ていた。朝顔の花の色は白、紫、赤であったろうか。日光の当たり具合で青のも紫にも見えるものもある。美しい花々には虫もよく付く。その朝顔にはアブラムシやダニもとりついている。朝顔はほとんど匂いがしないが、その美しさで虫や蜂たちをひきつけているのだろうか。
ひまわりも学校の花壇の片隅に植わっていたようだ。こちらは、まるで生き物のようなゴッホのひまわりの絵のような印象ではなかったものの、太陽にびったりの雰囲気を持って、すっくと立っていた。美しい花々に虫もよく付く。朝顔にはほとんどにおいがしないが、その美しさで虫や蜂たちをひきつけているのだろうか。その朝顔にはアブラムシやダニもとりつく。それでも朝顔は枯れない。夏休み中の学校当番でたっぷりと水をやっておくと、その翌朝には、花壇の花たちは生気を取り戻して潤っていたようである。雑草はといえば、どこの道ばたでも咲いているツユクサが、学校の花壇にも進入してきて、おしゃれな青色の2枚花を咲かせている。こちらは抜いてもまた伸びてきて、他の雑草ともどもたくましい。
夏の野原には、シモツケの赤い花が眩しそうに咲いている。今では少なくなりつつある桔梗も野原の涼しいところに、処々可憐な花を咲かせていた。ササユリはもっと森の深いところかと思いきや、ふと気がつくと道ばたの涼しいところでも神秘な花がほころんでいる。やや日陰の道端の涼しげな草むらには、ホタルブクロは梅雨の頃から白、ピンク、紅紫などの釣鐘形の花が茎にびっしりと群がっていて、暫し見入ってしまう。色の鮮やかさではダリアで、真紅というより純粋な赤色で人の目を引きつけている。この花はメキシコ原産で、16世紀にヨーロッパにわたり品種改良が施され、それから19世紀中頃の1842年(年)オランダから渡来したものらしい。あの圧倒的な輝きで人の心を魅了するダリアの花は、いまでも先祖が眠る墓下の畑隅の畦で脈々と息づいているのだろうか。
夏に元気になる植物は、もちろん、よく知られている花ばかりではない。都会の夏の風物詩で知られるほおずきは茄子科の植物で、ここ関東の地では浅草浅草寺のほおずき市があまりにも有名であるが、私たちの田舎でも栽培されていた。袋の中の赤い実を採りだして、何度も掌で押してから口に入れて苦い汁を吸っていた。ヤマグワは夏の頃、赤から黒っぽい紫になつて完熟した実を手で掬って食べる。こちらはさほど甘くないものの、上品な味がする。
雑草のようなものも含まれていて、あるとき我が家の坂下の2軒の近所の家を通り抜けていく途中にある、道沿いの石垣の上の僅かな地面にヘビイチゴの赤い実がなっていた。それを観ながら「これは何の花かなあ」などと友達2人と首をかしげていたところへ背中越しに「何を観とるんじゃ」という低い声がするので振り向くと、祖母であった。「これじゃけど」と言うと、いきなり「これはヘビが食べようるんじゃ。知ってないんか。それを食べたら、ヘビに噛みつかれるぞ」と脅された。一同「ええっ?」と驚き、何かを言おうとする時には、彼女は既にその場からさっさと退き、我が家に向かう短い坂道を上り始めているのだった。
夏の魚採りは、他の季節とは異なる楽しみがある。浅瀬の川底の土砂をすくい上げると、まわりから水が流れこんでくる。流れ込むときの水の表面はキラキラと光輝く。その水は太陽光線のために直ぐ温かくなる。温泉は出ないものの、膝から下はそれに浸かった気分になるから不思議だ。そうなると、魚採りには、別の楽しみが加わった。
夏の日のアイスキャンデーは格別うまかった。流尾の半鐘のある場所は高台にあり、私の家の東の「かど」からはるかに見渡せる。だから、その場所にアイスキャンデー売りのおじさんの自転車がやってくると目でわかるし、チリンリンリン、チリリリーンと真鍮製のように見える振鐘がおじさんの腕をふってうち鳴らされる。急いで母から50円であったのか小銭をもらって、走って買いにいく。
「坊や、何本にするの?」
「おじちゃん、二本頂戴。一本は、ああちゃん(兄)に持ってかえるけん」
そう言っておかねを自分の目より上の方へと腕で差し出す。
「2本でこれでいいんかなあ、おじちゃん」
そういって、たぶん、2本分で50円くらいを差し出していたのではないか。キャンデー売りのおじさんは、にっこり笑ってそれを受け取って、「はいはい、毎度」と返事してくれる。それから、自転車の荷台に据え付けてある冷凍箱から取り出しにかかる。
木の箱を開けると、ドライアイスの白い煙がファーと上がった。涼気のなかから、軍手をはめたおじさんの手で、長めのアイスキャンデーが取り出された。そうしているうちに良介(仮の名)ちゃんも啓介(仮の名)ちゃん(年上だが、ちゃん付けで呼んでいた)もやってくる。いまにして思えば、西下の北端までやって来てくれていたおじさんは、子供の喜ぶ顔見たさにわざわざの最北端へと来てくれていたのだろうか。
小学校の高学年になると、キャンデー屋さんはぷっつりと来なくなった。これと相前後してアイスキャンデーのスタイルはモダンになり、西下の南、勝加茂村の上村を通っている国道53号線沿いの町内の店に置かれているのを目にするようになっていた。
(続く)
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