109『岡山の今昔』高野、勝北、日本原、奈義から鳥取へ
さて、私の故郷は、この鳥取へ向かう道の途中にある。中国山地の麓にほど近い、美作の北東部(作北・横仙)にある。中世から現在の岡山県は備前、備中、美作の3つに区分されている。故郷はその中央から北東部の美作と呼ばれる地帯にある。生家のあるところは勝田郡(かつたぐん)の十四郷の一つで新野郷(にいのごう)と呼ばれていた。この名は奈良期から平安期に見える地名であって、平城京出土の木簡18号には、「美作国勝田郡新野郷傭米六斗」と墨書されている。美作の地名の由来は、これも朝鮮半島と因縁が深いことで知られている。
「勝田(かつた)郡の「勝田」の訓は、「延喜式」民部省に、「カツタ」とあり、「和名鞘抄に加豆万多(かつまた)とある。勝田郡勝田郷の「勝田」の訓は、高山寺本「和名抄」に「加豆万多(かつまた)」、刊本に「加都多(かつた)とある。『美作風土記』逸文に勝間田(かつまた)池がみえるので、カツタ(勝田)は、カスカラ(大東加羅〈百〉がカスカラ→カツクラ→カツウラ→カツラ(桂)→カツタ(勝田)と変わった地名で、勝間田(かつまた)はカスカラ(大東加羅〈百〉)がカツマタに転訛した地名とみられる」(石波)との説がある。
そこで、津山から因幡往来へ通じるための道のりであるが、江戸期までの人々は、川崎の玉琳(ぎょくりん)のところで、出雲街道と袂(たもと)を分かつ。しづな坂を越して、下押入へ進んでいく。下押入地区に入った因幡往来・因幡道(いなばおうらい・いなばみち)は、大別するに加茂道と、勝北へと通っていく道とに分かれる。今で言うと、県兼田上横野線の山西地区との境のところに、元禄年間(1688年~1704年)に造られた、花崗岩の道標が立っていて、東は因幡道、西は加茂道と教えてくれている。ここに加茂道とは、加茂谷に通じる道である。ここで土地の人にやや詳しく解説してもらうと、「下押入のところから鹿の子に入り、西高下を通って、夏目池の下を通り、現在の美作の丘の北を揚舟(あげふね)に抜けてて、綾部(あやべ)を通って、加茂谷に入」(津山市高野小学校編「むかし高野」1998年刊)るまでをいっていた。
それから勝北方面へ向かう因幡道については、1970年(昭和45年)頃、中国縦貫自動車道の開通とともに従来の因幡往来が大きく路線変更になった。それまでの因幡往来・因幡道は、兼田橋から加茂川に沿って国立療養所(現在の津山中央病院のあたり)の南を北上していた。そのルートが、河辺地区を通り、加茂川を渡り、下押入から押入、高野へと抜けている。さらに野村、楢と北上したところで、同じ加茂川を今度は西から東へと渡って、勝北方面へと進んでくのである。その間、ゆるやかながらも500メートル位はありそうな奈良坂を上りきると、そこは勝北(現在は津山市)であり、この歩いての道こそは因幡道の本道にして、この後で紹介する、国道53号線を路線バスに乗って行く道とほぼ同じものと言って良いのではないか。
勝北からの因幡往来の進路であるが、奈義へと北東への道を通り抜け、そこからさらに鳥取との県境の黒尾峠を越えて因幡(いなば、今の鳥取県全域)の智頭町(ちずちょう、鳥取県八頭郡)、用瀬(もちがせちょう、同郡)から鳥取城下(今の鳥取市)へと向かう。この鳥取との県境に、1971年(昭和46年)9月24日、「孤」(原文ママ)を描くループ橋は延長百八十メートルという、「西日本一のループ橋」が完成し、国道53号線が全線(135キロメートル)開通した。建設省がその2年前から約40億円をかけて進めてきた。両県を結ぶトンネルは延長843メートル、深さ32メートルの谷間に架かっている橋を下から見上げると、壮観である。
(続く)
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