102『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(古代から鎌倉時代)
吉備線(きびせん)は、岡山と総社(そうじゃ)の間の20.4キロメートルを結ぶ。岡山からディーゼル機動車に引っ張られて西へ出発し、備前三門、大安寺、備前一宮を経て吉備津へと向かう。吉備津からは、備中高松、足守、さらに服部とやって来る。このあたり一円は、上代において摩訶不思議な伝説に包まれる地域であったことで知られる。
その一つは、大和朝廷から遣わされた吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治の話である。鬼の名前は温羅(うら)といって、百済(くだら)の王子という。この鬼がある時吉備国にぶらりやって来て、既に鬼の山に築かれていた鬼ノ城(きのじょう)に居城する。
この城は、長らく倭(後の日本)と百済の連合軍が白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫してから間もない時、国内の防護のために築いた、と考えられていた。しかし今では、21世紀に入ってからの発掘で7世紀第4四半期(675~699)あたりの築城であったことが分かっている。ともあれ、総社の平地から400メートルの高さに延々3キロメートルに渡って陣地が築いてあった。ここを占拠した温羅は身の丈(たけ)1丈4尺(4メートル)もの巨漢にして、怒ると火を吹いたり、大岩を投げ飛ばすなどして暴れた。麓に住む村人には、若い女性を連れて来いと要求する。そこで大和朝廷は、武勇の誉れの高い吉備津彦命(きびつひこのみこと)に命じて、鬼退治に行かせる。
その彼と温羅との戦いの主戦場が、矢喰宮(やくいのみや)であったそうで、吉備津神社側から放たれた矢と、鬼ノ城から放たれた矢がここでかみ合って落ちた。最後には、鬼ノ城の温羅の目に矢が当たり、おびただしい血が流れた。近くを流れる血吸川(ちすいがわ)の名前の由来は、これなのだと伝わる。これで温羅の戦意がなくなり、鯉に化けて逃げようとしたところ、吉備津彦命はその鯉をのみ込んでしまった。「鯉喰神社」(こいくいじんかじゃ)の由来は、ここにあると伝わる。2016年10月に友人と二人で訪れたこの地は、田園地帯の只中にあって、通りすがる一人としていなかった。
その後の温羅は、吉備津神社の地下深くに閉じ込められ、以来日夜呻吟しているとのこと。温羅が百済から来たという伝説は、歴史的事実ではないにしても、このような伝説を生むもとになる史実があった可能性も捨てきれない。この地は、上代(上古)から鉄の一大生産地であったことは明らかである。加えて、『日本書紀』の「崇神天皇」の条において、こうある。
「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」
これらからは、吉備津彦命が、大和朝廷からこの地を平定するようにとの命令を受けてやってきたことことも想起されて、なかなかに興味をそそられる。もっとも、「崇神天皇」その人が3世紀初めに生きていたという確証は得られないことから、全くの作り話である可能性は捨てきれないのであるが。
そして迎える吉備線の終着駅・総社。この地は、日本列島に国々ができた頃、吉備国(きびのくに)の「神々」の中心、「総社宮」があった処だ。そのことが、日本文教出版「岡山カメラ風土記3・空から見た岡山」1977)に、写真とともにこう紹介される。
「7世紀の中頃、ここに国府が置かれ、それに伴って総社宮が立てられた。総社宮の建立は国司巡拝の軽減を目的とした寄宮といわれており、備中壱円の324の祭神が合祀されている。貞享年間(17世紀後半)に再建された本殿は簡素なただづまいを水面に落とし、回廊を巡らした三島式庭園は古代造園方そのままにいにしえの面影を伝えている。」
今は総社市にある、備前と備中との境目に位置する「中山」(なかやま)と呼ばれる小さな山には、その当時、備前国の一宮(いちのみや、吉備津彦神社)と備中国の一宮(吉備津神社)の二つの社(やしろ)が取り付いていた。その聖なる山にかぶされた枕詞が、これまた「真金吹く」という「たたら製鉄」にまつわる歌言葉であった。顧みると、鉄の生産は、「吉備国」時代から連綿として続いてきた。誠に鉄は、かの国の威勢を現出していた原動力の一つであったのだろう。10世紀に編纂された古今和歌集にも、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷(ほそたに)川の音のさやけさ」とある。
(続く)
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