□219『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小野竹喬)

2019-02-07 19:41:28 | Weblog

□219『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(20世紀、小野竹喬

 小野竹喬(おのちっきょう、1889~1979)は、笠岡の生まれ。14歳で故郷を後にし、京都の画家・竹内せいふうに師事する。1922年に渡欧し、西洋絵画を学ぶ。かの地では、ポール・セザンヌの風景画に大いなる影響を受けたとか。そのセザンヌの「ジャ・ド・ブックファンのマロニエ」(1885~87)や「サント・ヴィクトワール山」(1885~87)などは、小野の初期作品の「七類」(1915)や「郷土風景」(1917)などに生かされているみたいだ。加えるに、やや変わった配置の「山」(1929)という作品には、南画の影響がみられると評され、確かに現実の山というよりは、半ば想像上のこんもり型のものとなっている。しかも、そこら辺、やんわりしているのが、ほのぼのさを感じさせる。

 それからの息の長い画業において、身近な自然をこよなく愛したことで広く知られる。その大まかな流れに沿っての絵の特徴としては、風景画の中でも、大仰さは感じられない。雄大な自然の描写でないところが、なぜかほっとする。それでいて、観ていて長い時間が経過しても飽きないのは、温かい自然の息遣いが感じられるからではないだろうか。

 作品群では、季節が移り替わりが鮮明に描写されたものが数多くあるようだ。例えば、「丘」(1972)や夕雲(1965)においては、茜色に染まる空を背景に落葉樹が描かれている場面では、なんとはなく哀愁が漂う。それでいて、寒々としていないところが、実にありがたい。冬場のものでは、「宿雪」(1966)であろうか、静かな樹々の生命力が伝わってくる。そして春から夏にかけては、「樹」(1961)や「池」(1967)などであろうか。いずれも、自分が選んだ映像をどこまで正確に伝えられるかを綿密に考えている風だ。

(続く)

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□175 『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川榕菴)

2019-02-07 09:57:29 | Weblog

175『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(19世紀、宇田川榕菴)

 宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1836)は、江戸日本橋の呉服町で、蘭学者の江沢養樹の子として生まれる。その父は、大垣藩の江戸詰めの医者をしていた。1811年(文化8年)に実父の師であり、蘭学者でかつ津山藩医の宇田川玄真の養子となる。その玄真は、宇田川玄随の子である。1812年(文政9年)、幕府天文方の番書(ばんしょわげ)の「御用訳人」となる。

 それからは寸暇を惜しんでの精励であったのだろうか。「西説菩多尼訶経」(ぼたにかきょう)は西洋植物学の日本最初の紹介本であった。また、「舎密開宗」(せいみかいそう、1822)や「植物啓原」(1833)を著わす。前者は、イギリスの化学者ヘンリーの「実験化学初歩」を、オランダ語から訳したものだという。後者では、化学というものを体系的に紹介している。さらに動物につき、「動物啓原」を準備していたらしいのだが、こちらは刊行には至らなかったという。

 その榕菴だが、今日の日本において幅ひろい分野で使われている造語の立役者として、有名だ。「物質」「法則」「成分」「装置」といった一般概念としての物理化学用語。「酸素」、「窒素」、「炭素」、「水素」といった元素名。また、化学反応に使うものでは、「酸化」や「還元」、「溶解」や「分析」などだという。生物学では、「細胞」や「属」などを用い、こちらの方も学問上の基本用語だといえよう。さらに植物学においては、花粉など。ほかにも、コーヒーを「珈琲」として紹介したり、トランプを日本人に知らせてくれたり、いろいろと面白い、もしくはしみじみと心にしみ込んでくる話が伝わる。単に翻訳家、学者にとどまらず、文化人、風流人としての顔も持ち合わせていたのが、親しみが湧く。

 表向きは、津山藩医として、津山の城北にも住居を持っていたのであろうか。津山の地が気に入っていたらしく、城北の道路(城北通り)沿いに現在、自身の養子の宇田川興斎(うだがわこうさい)に関する、次の説明を記した案内板が設けてある。

 「天保十四年(一八四三)、津山藩医(江戸詰)宇田川榕菴の養子となった興斎は、のち幕府天文台に出仕し、幕府の開国・開港の騒然とした時代にあって、同藩医の箕作げんぽ・秋坪(しゅうへい)らとともに国事に奔走した。また同時に、『英吉和文典』(イギリスわぶんてん)『万宝新書』『地震預防説』を著わすなどその活躍は広範であった。

 そのころ参勤交代の制も緩和され、藩士の国元滞在が続いたこともあって、文久三年(一八六五)、興斎に対して津山への転居が命ぜられた。そこで家族を連れて移り住んだのが、この屋敷である。

 やがて維新となり、明治五年(一八七二)興斎は再び東京へ移ることになるが、その間、長州征伐への従軍や、一時は江戸詰を命ぜられるなど、多忙な時期を過ごした。

 市内西寺町の泰安寺には、興斎が津山で娶り早世した後妻阿梶(おかじ)とその子撤四郎の墓碑が、宇田川三代(玄随・真・榕菴)の墓碑とともに祀られている。 津山市教育委員会」

 話を戻して、多忙な日々をおくっていたであろう頃の榕菴だが、歩いているときも、家にある時も、西洋学問の日本への紹介に工夫を凝らしていたであろうことは、想像に難くない。

(続く)

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