○〇263の2『自然と人間の歴史・日本篇』佐賀の乱(1874)、萩の乱(1876)

2019-02-16 22:21:24 | Weblog

〇263の2『自然と人間の歴史・日本篇』佐賀の乱(1874)、萩の乱(1876)

 佐賀の乱(1874)は、中央の政争に敗れた江藤新平ら征韓党と、島義勇らの憂国党とが合同し、「征韓先峰西岸事務所」を名乗る。 

 かれらは、幕末に先進的な藩として勇名を馳せた佐賀藩に属していた。その彼らが、政商の小野組を襲撃する計画などがあるとの知らせが、新政府に入る。そこで、参議の大久保利通を全権とする鎮圧軍が編成される。

 反乱軍は、一時3千名にも達したとされる。旧佐賀城の佐賀県庁を占拠するなどしたものの、政府軍の近代兵器での攻撃にしだいに劣勢となっていく。  

 この乱は、2月いっぱいで鎮圧される。江藤と島は逃げたが、つかまり、殺される。この乱による刑は、ほかに斬首11名、懲役130名という過酷なものであった。

 萩の乱(1876)は、いわゆる不平士族の声を無視しつづけた政府に対する怒りの発露であった。廃藩置県や廃刀令などにより、旧士族は特権を奪われた。路頭に迷う者が続出しても、新政府による援これといった助はない。そこで10月28日、政府に反対の旗を揚げ、旧長州藩の本拠、萩に迫る。

 これの首領格は前原一誠であって、吉田松陰の塾の塾生の一人であった。今や、師と仰ぐものはいない、明治新政府の参議にして、兵部大輔たる職にあったのだが、「守旧主義」の立場からはやくに政府を去って、萩へ戻っていたという。結果は、政府軍に鎮圧され、前原ら幹部は捕まる。木戸孝允(きどたかよし)は、この乱のあるのを直前に察知し、すばやく動いたと伝わる。2月、前原以下8名は斬首となる。

(続く)

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新332○〇263の4『日本の歴史と日本人』西南戦争(1877)

2019-02-16 21:10:18 | Weblog

新332○〇263の4『日本の歴史と日本人』西南戦争(1877)

 西南戦争(せいなんせんそう、1877)は、その規模でいうと「内乱」といえようか、できてまだ日の浅い明治政府の足元を揺さぶる。それまでの政府の政策にあったのは、旧士族のことなどもはや構っていられない、ひたすらに富国強兵の途を突き進んでいくのであった。そういうことだから、まずは佐賀と萩で彼らの反乱がおこった。だが、立ち上がったのはいずれも少数であって、急行した政府軍によりすぐに鎮圧された。

 その後、維新の主力となっていた鹿児島の地でも、不穏な空気が充満してくる。おりしも、西郷隆盛は職を辞してから鹿児島に戻り、私学校を開設するなど若者の教育に当たっていた。やがて、旧士族の生活再建に向けた政府の無策に怒りが発火点に到達する。彼ら旧薩摩藩士らは、蜂起ののち、西郷に助勢を願い出る。西郷がこれに参加したことで、九州全土から多くの旧士族が加わる。とはいえ、西郷がこれに決した経緯については、いまだに多くの謎に包まれているようだ。

 さても、反乱軍は、熊本城にたてこもる政府軍に向けて進撃する。しかし、加藤清正が精魂を傾けて築いた城は堅固であり、落城しない。そのうちに、応援にはせ参じた政府軍の方が有利になっていく。政府軍は、政商の三菱(岩崎弥太郎)などの物資補給もあり、着々と反乱軍の糧道を狭めていく。しだいに明らかになる「多勢に少数」ということで、最大の激戦地「田原坂」にて反乱軍はついに壊走し、その混乱の中で、西郷は自殺する。

 西郷が指導する士族中心の軍がかくも人民大衆の間に共感を呼び起こすことなく敗れた理由については、さまざまに論説されてきたところだ。

 その一つには、政府による分断政策が効果をあげたことがあろう。1877年(明治10年)正月、政府は、地租率を従来の3.0%から2.5%に軽減した。これの狙いは、木戸孝允によれば、次の如くであった。いわく、「嫉妬怨望より世間を煽動し、良民の悪害をかもす士族の暴動にたいしては、鉄火をもって「十一分」に圧倒すべし、されど人民が生活に苦しみ活路を失い、やむをえず起こす一揆にたいしては、鉄砲をもって制御してはならぬ、この区別を深く顧慮すべきである」と。

 

 その後のことだが、明治政府の旧士族に冷たい政治は、概して改まらなかった。鹿児島においても、その他の全国においても、しだいに「何事もなかった」かのような淡々たる治世に改まっていく。西郷については、官位をはく奪される3名の中に入れられる。その詔には、「陸軍大将正三位西郷隆盛」の文字を確認できる。

(続く)

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