〇263の2『自然と人間の歴史・日本篇』佐賀の乱(1874)、萩の乱(1876)
佐賀の乱(1874)は、中央の政争に敗れた江藤新平ら征韓党と、島義勇らの憂国党とが合同し、「征韓先峰西岸事務所」を名乗る。
かれらは、幕末に先進的な藩として勇名を馳せた佐賀藩に属していた。その彼らが、政商の小野組を襲撃する計画などがあるとの知らせが、新政府に入る。そこで、参議の大久保利通を全権とする鎮圧軍が編成される。
反乱軍は、一時3千名にも達したとされる。旧佐賀城の佐賀県庁を占拠するなどしたものの、政府軍の近代兵器での攻撃にしだいに劣勢となっていく。
この乱は、2月いっぱいで鎮圧される。江藤と島は逃げたが、つかまり、殺される。この乱による刑は、ほかに斬首11名、懲役130名という過酷なものであった。
萩の乱(1876)は、いわゆる不平士族の声を無視しつづけた政府に対する怒りの発露であった。廃藩置県や廃刀令などにより、旧士族は特権を奪われた。路頭に迷う者が続出しても、新政府による援これといった助はない。そこで10月28日、政府に反対の旗を揚げ、旧長州藩の本拠、萩に迫る。
これの首領格は前原一誠であって、吉田松陰の塾の塾生の一人であった。今や、師と仰ぐものはいない、明治新政府の参議にして、兵部大輔たる職にあったのだが、「守旧主義」の立場からはやくに政府を去って、萩へ戻っていたという。結果は、政府軍に鎮圧され、前原ら幹部は捕まる。木戸孝允(きどたかよし)は、この乱のあるのを直前に察知し、すばやく動いたと伝わる。2月、前原以下8名は斬首となる。
(続く)
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