♦️325の2『自然と人間の歴史・世界篇』血液型の発見(1900)

2019-02-21 23:15:19 | Weblog

3252『自然と人間の歴史・世界篇』血液型の発見(1900)

 1900年、オーストリアの化学者のカール・ラントシュタイナー(1868~1943)は、他人同士の血液を混ぜる実験をしていたという。すると、赤血球同士がくっついてかたまりになる凝集(これを「溶血」という)が起こった。その原因を確かめるべく、自分と弟子たちの血液を赤い血球と、うす黄色の血漿(けっしょう)とに分離する。そして、その分離した各個人の血球に別な人の血漿を加えてみた。なお、ここにいう赤い血球というのは、血液の細胞成分であって約45%を占め、赤血球、白血球それに血小板などから成る。これらのうち、赤血球は、自分に乗せて全身に酸素を運ぶ役割を果たす。また血漿成分というのは、血液の約55%を占め、水分やたんぱく質から成る。

 すると、どうだろう。赤血球が凝集するものとしないものとがあった。しかも、その凝集の組み合わせに規則性というものがあることを発見した。それも、凝集するのを見越して、その原因についての仮説を立てての実験であったようで、その仮説とは、「自分と異なる血液の種類を排除する抗原抗体反応ではないか」というものだった。その10年ほど前、日本の北里柴三郎が発見した「抗体」の概念によると、実験でこのような差異が観られるのは、かかる抗体反応が今試験管の中で起きているに違いないと考えた。

 そして、カール・ラントシュタイナーらは、それぞれの場合について、どのような赤血球の型があるかを煮詰め、ついにそこに次のような規則性があるのを発見する。具体的に言うと、こう考えた。赤血球の表面には抗原と呼ばれる物質がある一方、血漿の中には抗原と結びつく抗体が存在する。例えば、A型の赤血球にはA抗原という物質がある。そして、このA抗原に結びつく抗体を抗A抗体と名付けよう。すると、A抗原の突起(いわば鍵)の部分は、抗A抗体の穴(いわば鍵穴)とびたり一致する。しかし、実際のA型の血液には抗A抗体はなくて、その代わりにB抗原に結びつくB抗原に結びつく抗B抗体があるということになった。

 そこでもし、A型の血液にB型の血液を混ぜるとどうなるか。それというのも、ここにいうB型の血液にはB抗原がある。その一方で、A抗原とびたり合う抗A抗体が存在することになっている。すると、前者としてのA抗原(鍵)をもつA型の血液(赤血球)と、後者としての抗A抗体(鍵穴)をもつB型の血液(血漿)とが、抗原(鍵)と抗体(鍵穴)とが結びつくことから、混ざり合うことになろう。そうなると、かかる赤血球同士がくっついてかたまりになる凝集が起こり、「赤血球の膜が壊れる」(「朝日新聞」2019年1月5日付け)ことになるのだという。

 カール・ラントシュタイナーは、このような実験から、私たちが今日いうところのA型、B型そしてО型の血液型を発見した。なお、AB型の血液型は後に彼の弟子により発見されたのだという。およそこのようにして、血液型の何たるかの基本的仕組みが明らかにされた。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


□120『岡山の今昔』鉄、銅、ベンガラ、炭など

2019-02-21 18:53:47 | Weblog

120『岡山(備前、備中、美作)の今昔』鉄、銅、ベンガラ、炭など

 吹屋は、観光ではあのベンガラ屋根の家並みで知られる。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであった。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 具体的には、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山は、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。

 これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。

 1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。この川上郡には、成羽町(なりわまち)の西隣に備中町がある。さらにその南が、川上郡川上町である。

 また、吹屋で有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったらしい。当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。

 さらに、江戸時代におけるの鉄の生産は、大まかには、この地方に古代から続いてきていたものの延長と考えて差し支えあるまい。とにもかくにも、このあたりには中世からの鉄の産地としての面目があったから、以来、その営業は脈々と続いてきていたようだ。それから、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、炭化してつくる。化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、「木や竹を燃やしつつも空気とけつごうできない状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆