新447の4◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成、橋本欣五郎)

2021-06-22 21:25:03 | Weblog
新447の4◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成、橋本欣五郎)

 宇垣一成(うがきかずしげ、1868~1956)は、戦前軍人(陸軍大将)で、政治家だ。

 磐梨郡大内村(現在の岡山市東区瀬戸町)の生まれ。1890年(明治23年)に陸軍士官学校卒業する。1900年(明治33年)に陸軍大学校を卒業すると、参謀本部員となり、主に、軍事研究のため日露戦争前後に二度ドイツに駐在する。
 
 帰国しての1913年(大正2年)には、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の下、軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとる。


 1916年(大正6年)には、参謀本部作戦部長となる。1918年には、シベリア出兵方針の策定にあたる。これは、革命ロシアに干渉して、あわよくば海外領土を広げようとの目論見であったろう。

 その後、陸軍大学校校長を皮切りに、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣と留任する。


 この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現したという。


 1929年(昭和4年)には、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の陸相となるも、1931年(昭和6年)には、陸軍有志の「桜会」を中心とするクーデター計画である三月事件に関与したとされ、事件後に陸軍大臣を辞職する。
 もっとも、その理由について、「宇垣自身は、三月事件のとき、軍隊を動かすことに反対したと強調している」(大内力「ファシズムへの道」中央口論社版の「日本の歴」シリーズ24、1967)とされ、そのことから、真相は現在に至るまで行方知れずのようである。


 その後は、1936年まで朝鮮総督となる。一説には、「ともかく、これによって宇垣は一度に全軍の信望を失ってしまった」(同)とも。

 1937年には、広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職後、組閣の大命を受けるも、陸軍が反対するなどがあり、組閣を流産してしまうことが、起きる。

(続く)

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新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)

2021-06-22 09:07:21 | Weblog
新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)
 
 まずは、日蓮宗不受布施派の扱いから、簡単に紹介しよう。
 1595年(文禄4年)、豊臣秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請したのだが、独立精神からこれを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立する。
 徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5年)には、対馬(つしま)に遠流される。1623年(元和9年)には、幕府は不受不施派に公許状を与える。それにもわらず、布施を受けることを認める京都側と、不受不施(他からの布施のやり取りを拒む)を主張する関東側との対立は続く。
 1660年(万治3年)頃、幕府は、全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を与える。それでも、かかる朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう)と呼ばれる)は、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となる。それと、内心に不受不施を抱く(内信(ないしん))者などができ、彼らは、(法立(ほうりゅう))者との対立していく。こうした関係に対応するかのように、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。
 
 
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 1612年(慶長17年)には、幕府が、直轄領にキリスト教禁止令を出す。翌年には、全国に同令を適用する。また、1613年(慶長18年)には、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)ら148名を、マカオやフィリピンへ国外追放処分とする。
 1616年(元和2年)になると、徳川家康を継いで2代将軍となっていた徳川秀忠が、改めてキリシタン禁止令を発布するとともに、ヨーロッパからの船の来航を平戸と長崎に限る。

 1622年(元和8年)には、幕府が、長崎において、キリスト教の宣教師・信徒を死刑にする、これを「元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)」と呼ぶ。

 さらに、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)となっての1633年(寛永10年)には、ついに17か条から成る最初の鎖国令が発布される。これにより、海外渡航の船が老中作成の奉書を持たない場合、その船の渡航を禁じることになる。1635年(寛永12年)になると、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁じる。

 ところが、1637~1638年(寛永14~15年)には、あの島原・天草一揆(島原の乱)が勃発し、鎮圧の過程で実に多くの血が流される。あわせて、幕府は、この戦いを経験して、ヨーロッパからの外圧と受け止め、危機感を新たにしたのであろう。

 それから、1639年(寛永16年)には、だめ押しということか、ポルトガル船の来航を禁じるとともに、1641年(寛永18年)には、オランダ人を長崎の出島を移して、鎖国体制を完成させる。
 
 およそこのような政治・経済と、キリスト教及びキリシタン弾圧とが織り成す歴史として、かかる全体を見渡すことができよう。
 
 
 
(続く)
 
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