267◻️144の2『岡山の今昔』湛井用水路、倉安川吉井水門(備前、備中)

2021-06-26 21:10:56 | Weblog
267◻️144の2『岡山の今昔』湛井用水路、倉安川吉井水門(備前、備中)

 治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。

 湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にある。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。

 この用水路が最初につくられたのは、平安初期にさかのぼる説もあるというから、驚きだ。また寿永(じゅえい)年間(1182~1184)に豪族で平氏の家人である妹尾兼康(かねやす)が大改修を行い、取水口を現在地に移築したとする伝承がある。


 江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
 それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。


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 さて、倉安川吉井水門といえば、吉井川中流と旭川下流をつなぐ運河である倉安川の吉井川側の起点に設けられた取水口である。通過地にちなんで倉安川と名付ける。
 とともに、船通しの閘門(こうもん)施設だ。その運河たるや、総延長約20キロメートルというから、驚きだ。
 では、いつだれがなんのために造らせたのか。ごく大まかには、1679年(延宝7年)、岡山藩主の池田光政が、津田永忠に命じて掘削こ設計と指揮に当たらせ、技術者と工夫を動員して1年間位で完成させている、
 その目的としては、岡山藩が17世紀後半に干拓した倉田・倉富・倉益の三新田への灌漑用水の供給、和気・赤磐・上道3郡の年貢米の輸送、岡山城下へ出入りする高瀬舟の水路整備などがあったろう。
 倉安川の掘削は、井堰(いぜき)造り・水門造り・水路造りの三つの工事を配し、自然の岩盤を利用したところも。高瀬舟の往復運行には、それなりの幅が必要だ。特に水門造りは、水位の異なる吉井川と倉安川に船を通すべく、水門を2か所に造らないといけない。
 そのため、吉井川堤防に「一の水門」を、倉安川側に「二の水門」を造り、その間は水路を広くとって、「高瀬廻(まわ)し」と呼ばれる船だまりを設ける。それに、閘門設備。こちらは、水路の間で船を上下さ装置だ。仕掛けとは、二つの水門によって水位の調節を行いつつ、水位差のある二つの川の間の船の行き来を可能にする。船だまりでは、船の待避と検問を行う。


(続く)


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新333◻️『岡山の今昔』岡山人(19世紀、関藤藤陰)

2021-06-26 15:21:20 | Weblog
新333◻️『岡山の今昔』岡山人(19世紀、関藤藤陰)


 関藤藤陰(せきとうとういん、1807~1876、名は成章、字(あざな)は君達。通称は和助)は、幕末の武士にして儒者だ。

 菅原道真を祭る神社の神主、関藤政信(せきとうまさのぶ)の子。関政方(せきまさみち)の弟。一時石川姓を称す。というのは、幼い頃、両親が死亡し、隣町(現在の岡山県井原市)の石川家の養子となったのだ。
 養親が彼の才能を評価し、儒学者の小寺清先(現在の笠岡市)のところで学ぶ。

 やがて、頼山陽(らいさんよう、1780~1832、当代一流の文化人にして、保守政論家)に、21歳で弟子入りする。ところが、頼山陽は、彼を弟子としてではなく同輩として待遇し、「日本政記」の校閲を託されるなど、信頼されたようだ。

 1843年(天保14年)には、備後(びんご)の国(現在の広島県福山市)福山藩の儒官となる。のち家老に就任する、そして30代の若さで幕府老中となった藩主阿部正弘(あべまさひろ)を補佐する。

 やがて老中筆頭・阿部正弘の腹心として、日米・日露の和親条約締結交渉から水戸藩・島津藩内訌の決着、蝦夷地の踏査・探索など日本の針路確定に至るまで、あれやこれやで奔走する。

 幕末、官軍が福山藩と戦火を交えかねない時、執政として藩論を新政府支持でまとめたのは、大きい。これをもって、戦争を避け福山を戦火から逃れられるよう尽力したのも、彼の功績だという。 

 著作には、「観国録」「蝦夷(えぞ)紀行」などがある。

(続く)


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新93◻️46の1の5『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と水平社運動

2021-06-26 14:16:20 | Weblog
新93◻️◻️46の1の5『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と運動

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。

 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)
 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。


 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。

 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。 


(続く)


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新322◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、関鳧翁)

2021-06-26 14:08:01 | Weblog
新322◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、関鳧翁)

 関鳧翁(せきふおう、本名は関藤政方(まさみち)、還暦を迎えた頃に鴨の鳥毛入りの服を着るようになったことにちなんで鳧翁と号す、1786~1861)は、医者であり漢学者、歌人でもある。


 笠岡(現在の笠岡市)の吉浜村の生まれ。やがて京都へ出て、医学と漢学を学ぶ。その後に笠岡村に帰り、敬業館教授の小寺清先に国学を学ぶ。


 文政年間には、笠岡村で小児科を開業しながら、国学の研究や、歌人として活動する。


 評論としては、「傭字列」「声調篇」「言葉のかけはし」「春風消息」などがある。これらのうち「傭字例」は、日本語の音の韻尾「ン」と「ム」との区分を明らかにし、漢字の和音の誤りを正す役割を担う。
 と、今日でいうところの音韻学の先駆者でもあるというから、驚きだ。


 それから、歌集としては、「安左豆久比」「嘉平田舎詠草」、「梅歌千首集録」は菅原神社に奉納してあるという。
 時世の歌には、「わが魂の行へはいづくしら雲のたたむ山への松のした陰」とあり、風雅と市井の人々への慈愛を感じさせる。
果たせるかな、多様な才能を持ち、それでいて静かな佇(たたず)まいの人であるようだ
 福山藩で活躍した関藤藤陰は彼の弟にあたり、互いに尊敬する間柄であったのではないだろうか。

(続く)

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新◻️88『岡山の今昔』天保の飢饉(1836)

2021-06-26 09:46:58 | Weblog
新88『岡山の今昔』天保の飢饉(1836)

 天保の飢饉というのは、そのおよそ50年前の天明年間(1781~1789)の大飢饉の陰に隠されてというか、諸家による研究も多くないように散見されるものの、こちらも日本史上に残る名高い大飢饉なのであった。
 それもその筈、岡山の地でも、美作を中心にこの時、尋常ならざる光景が広がっていたことがあるようで、その中から幾つか紹介しておこう。
 「天保の飢饉は確録の徴すべきもの無しといえども、今これを聞くだにしょう悚然(しょうぜん)として肌に栗を生ぜしむるの感あり。」(明治時代に入っての上村行業による調査報告、「苫田郡歴」に引用)
 「樫村西谷字長守(現在の真庭市久世)と申す所に行き倒れ相果てまかりおり候。乞食躰(こじきてい)の男の死骸見分吟味、怪しき義之無く、死骸は仮埋め申し付け置き候、大庄屋より届出来(以下略)」(「津山藩郡代日記」天保8年(1837年)4月)


 これについて、より詳しい記録の紹介をされている、日高一氏にしたがうと、こう記されている。

 「「国元日記」によると、天保8年4月現在、津山藩領内で粥(かゆ)の給付を受けた人は領民のほぼ5分の1に当たる1万2千人を数えたという。
 津山藩の「人別増減改」のうち天保8年の項をみると、死者は農村で2943人、町方で787人、寺社方で33人、合わせて3763人に達し、前年の1345人、翌年の1376人に比べると3倍近い死者を出している。死者の大半は飢饉のためとみられ、出生や転出入を合わせた人口動態でも3169人の減で、この年の飢饉のすさまじさを物語っている。」(日高一「津山城物語」山陽新聞社、1987)

(続く)

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