新268◻️◻️『岡山の今昔』内陸部での用水と溜め池、山あがりした村(美作)
あれやこれやの手段、方法を使っての農地の拡大は、江戸時代に入ってから急拡大してきていたのだが、それらを支援するための用水や溜め池、変わったところでは、当該の藩の「山あがりした村」政策までが、動員された。
用水とは、単独で開削されることがあれば、溜め池をつくって、そこから用水路を引いて、田畑の灌漑用にあてがうこともある。
それらの造られ方も、大別して民間が主体で資金を集める場合、藩や幕府の肝いりで造られる場合とがあり、それぞれの思惑が働いていたのが、相当程度読み取れるという。
これらのうち例えば美作地域でいうと、溜め池としては、王子池(綾部)、揚船(あげふね)池・蓮池(高倉)、耳掛池(沼)、大沢池(田邑(たのむら))などは、森藩の時造られたものだという。
用水とは、単独で開削されることがあれば、溜め池をつくって、そこから用水路を引いて、田畑の灌漑用にあてがうこともある。
それらの造られ方も、大別して民間が主体で資金を集める場合、藩や幕府の肝いりで造られる場合とがあり、それぞれの思惑が働いていたのが、相当程度読み取れるという。
これらのうち例えば美作地域でいうと、溜め池としては、王子池(綾部)、揚船(あげふね)池・蓮池(高倉)、耳掛池(沼)、大沢池(田邑(たのむら))などは、森藩の時造られたものだという。
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近平用水(ちかひらようすい)というのは、それまで長い間、水不足、かんばつにあっていた、高倉村や草加部、野村など12村の人々が、用水路工事を企画する。それというのも、溜め池の水が枯れ、村人の飲料水にも事欠く事態が、起こったからだ。
時は、江戸時代も、おわりに差し掛かった頃、彼らの代表が加茂川(吉井川の支流)の川上に当たる綾部(あやべ)や吉見(よしみ)の村へ、何度も行って、なんとか水を分けてくれるようにと頼んだという。
それなのに、加茂川の水を使う権利(水利権)を持つこれらの村の衆は、首を縦にふらなかったのだと。そのうちに、川下の籾山、勝部、志戸部、野け代、押入(おしいれ)、高野山西の村々も、この話に加わる、
交渉団は、「吉見で使うておりんさる、細岩(ほそいわ)いでを掘りつがせてくれんさい」(美作の歴史を知る会「近平用水物語」みまさかの歴史絵物語(8)、1988)と言ったのかどうか、とにかく、井出(水路)を付けされてくれるよう頼み、ようやく話がまとまる。
時は、江戸時代も、おわりに差し掛かった頃、彼らの代表が加茂川(吉井川の支流)の川上に当たる綾部(あやべ)や吉見(よしみ)の村へ、何度も行って、なんとか水を分けてくれるようにと頼んだという。
それなのに、加茂川の水を使う権利(水利権)を持つこれらの村の衆は、首を縦にふらなかったのだと。そのうちに、川下の籾山、勝部、志戸部、野け代、押入(おしいれ)、高野山西の村々も、この話に加わる、
交渉団は、「吉見で使うておりんさる、細岩(ほそいわ)いでを掘りつがせてくれんさい」(美作の歴史を知る会「近平用水物語」みまさかの歴史絵物語(8)、1988)と言ったのかどうか、とにかく、井出(水路)を付けされてくれるよう頼み、ようやく話がまとまる。
かくて、造ろうとする用水の設計としては、「ちょうちん水盛り」といって、夜に、ちょうちんを灯して並べ、遠くから高さを測っては地面に杭を打っていく。
これでもって、水路を今でいう12キロメートルも離れた高倉の台地へ送れるようにせねばならぬことから、その分を、繰り返し測量していく。その度に、なれない作業でおおいに疲れては繰り返す作業の連続であったのだろう。
やがての翌1854年の正月、12か村、約600戸の代表たちは、計画書を携えて、藩当局へ願い出る。役人からは、年貢が増える話として、これを是認の上、資金調達のために村々が背負う、商人への借金の便宜を橋渡し(口きき)してやるとのこと。
こうして藩の許しをとった上で、河内村の多右衛門(たえもん)と栗原村の竹太郎、それに備中の秀蔵が、請け負って工事を担うことになる。
そこで、工人たちは、石工や大工、工夫を整え、動員して、4月から工事に入る。そのうちに、新たな課題が持ち上がる。なにしろ、大きな岩をくりぬいたり、石がきをつんだりしなければならならない。のみ・つるはし・くわなどの道具しかないのに、戦国時代に合戦の舞台てあった、名高い祝山(いおうやまじょう)の中腹で、1000メートルもの岩場が立ちはだかったのだ。
これでもって、水路を今でいう12キロメートルも離れた高倉の台地へ送れるようにせねばならぬことから、その分を、繰り返し測量していく。その度に、なれない作業でおおいに疲れては繰り返す作業の連続であったのだろう。
やがての翌1854年の正月、12か村、約600戸の代表たちは、計画書を携えて、藩当局へ願い出る。役人からは、年貢が増える話として、これを是認の上、資金調達のために村々が背負う、商人への借金の便宜を橋渡し(口きき)してやるとのこと。
こうして藩の許しをとった上で、河内村の多右衛門(たえもん)と栗原村の竹太郎、それに備中の秀蔵が、請け負って工事を担うことになる。
そこで、工人たちは、石工や大工、工夫を整え、動員して、4月から工事に入る。そのうちに、新たな課題が持ち上がる。なにしろ、大きな岩をくりぬいたり、石がきをつんだりしなければならならない。のみ・つるはし・くわなどの道具しかないのに、戦国時代に合戦の舞台てあった、名高い祝山(いおうやまじょう)の中腹で、1000メートルもの岩場が立ちはだかったのだ。
そればかりではない、実は、もう一つ、綾部の辺りで、まるで切り裂いたかのような谷あいの難所があって、前述の物語において、こんな説明がされている。
「綾部の工事場は、谷がぎようさんあるけん、等高線にそうて、谷が奥深うまで、なんどもなんども曲がっとるしなあ。
谷川のところじゃあ、丸太や板で橋がけの水路をかけにゃあいけんし、トンネルもようけいあって、大ごとだったんじゃ。
トンネル工事はな。あなをほっちゃあ、モッコで土や石をかつぎ出し、天井がくずれんように両がわのかべは石がきを積み、天井は長あがい切り石で組んでいったんじゃ。」(前掲書)
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「綾部の工事場は、谷がぎようさんあるけん、等高線にそうて、谷が奥深うまで、なんどもなんども曲がっとるしなあ。
谷川のところじゃあ、丸太や板で橋がけの水路をかけにゃあいけんし、トンネルもようけいあって、大ごとだったんじゃ。
トンネル工事はな。あなをほっちゃあ、モッコで土や石をかつぎ出し、天井がくずれんように両がわのかべは石がきを積み、天井は長あがい切り石で組んでいったんじゃ。」(前掲書)
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さて、こうして検地を済ませた森藩が次にとった年貢の増収策は、「驚天動地」の沙汰なのだった。
1664年(寛文4年)、森家の郡吏、川端勘左衛門は、河辺村(現在の津山市河辺)に住む農民たち57戸に対し、東側のシトト原(いまの津山市河辺上野町、天神原)へすみやかに移転するよう命じた。
ちなみに、後日の当該地域については、「シトト原は、野山、芝原にして作場へ遠く難儀の旨、嘆題するといえども許容なきため、地子(地租)を免ぜられ、山あがりの家数57軒、ことごとく無年貢地と定めらる。その反別9反5畝(せ)6歩(現在の面積に直すと約90アール)」(「新訂作陽誌」)とあり、要は、彼らが当時住んでいたところを追い出して、荒れ地に引っ越しさせることにより、住居のあった加茂川べりの湿地を農地に替えて年貢増収を図ろうとしたのである。
話を戻して、これに驚いた農民たちは、さっそく庄屋を通じてこの話を取り止(や)めてくれるよう嘆願したというが、聞き入れられなかった。願いの儀は、引っ越しすると、自分の田んぼまでの道が遠くなる上、これまで草刈り山(牛馬の餌や肥料に欠かせない)として利用していたシトト原が使えなくなってしまう、それは「俺たちの入会地を差し出せ」ということでもあるとして、小高い台地への住居移転の撤回を求めたが、藩当局は頑として聞き入れなかったという。
1664年(寛文4年)、森家の郡吏、川端勘左衛門は、河辺村(現在の津山市河辺)に住む農民たち57戸に対し、東側のシトト原(いまの津山市河辺上野町、天神原)へすみやかに移転するよう命じた。
ちなみに、後日の当該地域については、「シトト原は、野山、芝原にして作場へ遠く難儀の旨、嘆題するといえども許容なきため、地子(地租)を免ぜられ、山あがりの家数57軒、ことごとく無年貢地と定めらる。その反別9反5畝(せ)6歩(現在の面積に直すと約90アール)」(「新訂作陽誌」)とあり、要は、彼らが当時住んでいたところを追い出して、荒れ地に引っ越しさせることにより、住居のあった加茂川べりの湿地を農地に替えて年貢増収を図ろうとしたのである。
話を戻して、これに驚いた農民たちは、さっそく庄屋を通じてこの話を取り止(や)めてくれるよう嘆願したというが、聞き入れられなかった。願いの儀は、引っ越しすると、自分の田んぼまでの道が遠くなる上、これまで草刈り山(牛馬の餌や肥料に欠かせない)として利用していたシトト原が使えなくなってしまう、それは「俺たちの入会地を差し出せ」ということでもあるとして、小高い台地への住居移転の撤回を求めたが、藩当局は頑として聞き入れなかったという。
とはいえ、このままで従う訳にはゆかない、そこで、農民たちは、やむなく条件闘争に切り替えたようである。何回もの嘆願の結果、藩側からわずかながらも譲歩を引き出し、妥協が成立した。その内容とは、移転先の屋敷にきる税を免除するとともに、入会地の草がその分とれなくなったかわりに城周辺の草を刈ってもよいとの条件を呑んだ、これにより、1664年までに、かかる57戸の農家は、ことごとく「山あがり」させられてしまう。
(続く)
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